1時間が経過した。
セジュムは自室の扉の前で、石像のように立ちすくんでいた。
頭では、シリウスの知性を信頼したつもりだった。だが、愛するエマをシリウスと二人きりにさせたという事実は、セジュムの心臓を毒のように蝕んでいく。扉の向こうで、エマが汚されたのではないか、あるいは取り返しのつかない決断を下したのではないか。
最悪の結末を想像し恐怖に指先が震える。だが、いつまでも廊下の飾りのように立っているわけにはいかない。彼は意を決し、扉をノックした。
吸い寄せられるような靴音が近づき、ドアが開く。
そこにいたのは、何とも形容しがたい表情を浮かべたエマだった。
微笑でも、憤怒でも、哀惜でもない。しかし、感情が死んでいるわけでもない。強いて言うなれば、当惑に近かった。
「……何、その顔」
エマが、ふっと小さく吹き出した。セジュムもまた形容しがたい表情だったのだろう。
しかし、その軽やかな笑い声を聞いた瞬間、セジュムの肩から憑き物が落ちたように力が抜ける。それは彼が何よりも求めていた、日常のエマの姿だった。
「エ、エマ! シリウスに、何か傷つけられるようなことはされてませんか!」
「何か、って……セジュムが、シリウスに私と話すようにお願いしたんでしょう? 前に二人きりで会ったことあんなに怒っていたくせに」
エマは少し不満げに、けれど愛らしく唇を尖らせる。その姿は、どこからどう見ても『いつも通り』のエマだった。セジュムはこみ上げる愛おしさを抑えきれず、彼女を後ろから包み込むように抱きしめた。
「エマ……」
白く細い首筋に顔を埋めれば、彼女特有の、柔らかく清らかな香りが鼻腔をくすぐる。エマの身体が微かに震え、重なるセジュムの腕にそっと自らの手を重ねた。
「貴女の心に不安が残っているのは分かっていました。私の言葉でその気持ちを拭い去りたかったのですが、力不足で……」
「……うん。セジュムの気持ちも分かってる。力不足だなんて、そんなことはなかったんだけど……」
甘い匂いに脳が痺れる。だが同時に、暗い疑念が胸をかすめた。
密室だ。あの男が、この華奢な首筋に触れたのではないか。この柔らかな唇を、その不潔な口で塞いだのではないか……。想像しただけで、嫉妬で狂いそうになる。
セジュムはマーキングを刻むかのように、エマのうなじに唇を押し当てた。しかし、それを拒むようにエマが振り返る。
「……ちょっと待って。その、話を聞いてほしい」
「はい……?」
促され、二人は向かい合わせでソファに腰を下ろした。
エマはセジュムの眼鏡の奥を、逃げ場を塞ぐような真っ直ぐな瞳で見据えた。
「シリウスは、私に共感してくれた。これまでの彼の行動には、すべて理由があった。……シリウスは、私の味方だと思う」
迷いのない断定。セジュムの表情は凍りつき、頬の筋肉が微かに引きつった。
「……何て?」
「だから、私、シリウスの実験に協力しようと思うの」
――騙されている。
瞬時に浮かんだ確信。一体、わずか1時間という刹那に、奴はどのような話術で彼女を洗脳させたのか。シリウスが作ろうとしているのは、黎明の女神という存在を抹殺するための猛毒のはずだ。それに協力するということは、エマは自らの死に加担すると言っているに等しい。
ふと、浴場でシリウスが吐き捨てた言葉が蘇る。
『エマは、きっと僕に賛同してくれる』
奴はあの時点でこうなることを計算し尽くしていたのだ。背筋を氷の刃でなぞられたような悪寒が走る。
「エマ……シリウスという男は……」
「セジュムが何を言いたいかは分かってる」
エマはどこか同情を孕んだ笑みを浮かべて首を横に振った。
「セジュムはちゃんと分かっていないんだよ。シリウスの本当の心の内を。そして、このバファマがどんな場所か、黎明の女神という役割が何を意味するのかを」
喉がせり上がり、言葉が塞がれる。セジュムは立ち上がり、エマの隣に詰め寄った。その手を必死に掴み、包み込むように力を込める。
「許せません。奴が精製しているのは、貴女を殺めるための薬なのですよ!」
「セジュム。シリウスが言ってた。あいつはきっと、『許せません』って怒るだろうって」
穏やかな瞳でそう告げられ、セジュムは絶望的な動揺に叩き落とされる。
「こう言い返せって言われた。『僕はエマに、セジュムが心配するようなことはしない。安心してエマを預けろ』って。……セジュム、私とシリウスを信じて」
真っ直ぐな眼差し。
何が『いつも通り』だ。目の前にいるのは、形こそエマであれ、その魂の欠片をシリウスに差し出してしまった「別の何か」ではないか。セジュムは言葉を探し、彼女を正気に戻す術を必死に手繰り寄せる。だが、シリウスの周到な策謀の前に、自分がただ奴の手の上で踊らされているだけなのだという現実に、深い絶望を感じていた。
エマはハッとしたように立ち上がると、棚の引き出しから小さなものを取り出し、戻ってきた。微かに頬を染め、テーブルの上に置いたのは、アルミ箔で封じられた錠剤のシートだった。
「シリウスから貰ったの。今までちょっと不安だったから。だから、これ……」
それは、強制避妊薬だった。エマは言い知れぬ羞恥に耐えかねたのか、すぐにその錠剤を回収し、胸元に隠すように抱えた。
「あー……言わなくてもわかるよね?」
照れ、戸惑い、感情を豊かに動かすエマ。
だが、その愛らしい仕草を見ても、セジュムの心は微動だにしなかった。
『情事は楽しませてやる。だから、エマは預けろよ』
シリウスからの血も凍るような無言のメッセージが聞こえる。煮えくり返るような憎悪が全身を駆け巡ったが、セジュムは目の前の、無垢なエマを怖がらせぬよう、精一杯の作り笑いをその面に貼り付けることしかできなかった。