黎明の女神   作:浮月 愁

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黎明の女神 42話 セジュムの煩悶

 

「……マ、エマ、……っ、ん」

 

セジュムの私室、天蓋の幕に閉ざされた密やかな空間。

重なる吐息の中で、エマが彼の唇を食むように、執拗な口づけを繰り返す。だがセジュムは顎を引き、応じることを拒んだ。

 

「……え?」

 

久しぶりだった。拒絶されるなど露ほども思っていなかったのか、エマは驚愕に目を見開く。わずかに視線を伏せ、気まずそうに顔を離した彼女に対し、セジュムは取り繕うようにその柔らかな髪を撫でた。

 

「……今日は、ゆっくり休みましょう」

 

エマは力なくシーツを握りしめ、枕に頭を沈めた。

セジュムは、隣で不服そうに虚空を見つめるエマの横顔を凝視した。

先ほど彼女が口にしたシリウスへの信頼。それがどうしても信じられず、自分を試すための残酷な虚言ではないかと疑念が渦巻く。

だが、その振る舞いはあまりにも『いつものエマ』だ。むしろ、沈んでいた顔色には瑞々しい生気が戻ってさえいる。

セジュムは、奥歯を噛み締めて目を瞑った。

信じろと言われても、到底無理だ。エマにとって、シリウスは底知れぬ恐怖の対象であったはず。それなのに、実験に協力したいなどという言葉が、彼女の本心から出るはずがない。エマを正気に戻したい――だが、今の彼女を説き伏せる言葉を、彼は何一つ持たなかった。

 

不意に、エマの手がセジュムの掌を覆った。

せめて手を繋いで寝たいのか。彼女はセジュムの手の甲をなぞり、爪を軽く弾き、その大きさを確かめるように一本一本の指に自らの指を深く絡めていく。

 

(……こんなことで)

 

行為そのものよりも、掌から伝わってくるエマの熱情――自分を求めているという確かな気配に、セジュムの胸は無様に高鳴った。まるで女を知る前のようだと、顔が熱くなるのを感じる。

されるがままに力を抜いていると、エマはこともあろうに、セジュムの手を引き寄せ、自らの胸の膨らみへと誘導した。

薄い衣越しに伝わる、温かく柔らかな弾力。セジュムは弾かれたように目を見開いた。隣を見れば、彼の反応を確かめるような、真剣なエマの瞳と視線がぶつかる。

 

「エ、エマ……?」

「……今日は、シリウスのおかげで気持ちがすっきりしたんだ」

 

唐突にその名を出され、セジュムの顔が引き攣る。対照的に、エマは無邪気な表情で少しずつ少しずつセジュムの身体に身を寄せる。

 

「だからさ、ほら、シリウスから貰った薬もあるし……」

 

エマはピタリと身体を密着させると、セジュムの耳元で彼女らしからぬ大胆なお願いを囁く。その直接的な言葉とエマの熱い吐息が耳に触れ、理性の堰が、音を立てて軋む……が。

 

「……やめてください。今は、彼の名前を出さないでください」

 

セジュムは絞り出すような声で返し、顔を背けた。

エマがシリウスに傷つけられた時、彼女を救い、癒せるのは自分だけだと思っていた。そのすべてを包み込んでやる覚悟で、彼女と向き合ってきたはずだった。

だが現実は、あまりに残酷に逆転している。今、エマを救い上げているのはシリウスであり、彼女の言葉はセジュムの無力感を容赦なく増幅させた。意識的なのか、無自覚なのか。エマの中で、シリウスの影が急速に色濃くなっていく。

 

「ねぇ、なんだか変だよ、セジュム」

「え……」

「シリウスにお願いしたのは、セジュムなんだよね? 彼を信用したから、私に会わせたんじゃないの? なのに、どうしてそんなに彼を警戒するの?」

 

エマの指摘は、ぐうの音も出ないほど正論だった。事実、背に腹は代えられず、シリウスに頭を下げて対話を乞うたのは自分だ。しかし、その結果が想定からあまりに乖離した、歪な幸福感に塗り替えられていることもまた、事実だった。

セジュムは堪らず半身を起こし、ベッドに横たわるエマを見下ろした。

 

「エマ。シリウスと何を話したのか、その詳細を教えてくれませんか」

 

エマもまた身体を起こしたが、静かに首を振った。

 

「……でも、シリウスに『まだ話さないほうがいい』って言われてるから」

「隠し事をしないでください!」

「セジュム」

 

激情に任せて語気を強めたセジュムを、エマは静かに制した。

 

「セジュムだって、私に話さなかったでしょ。シリウスがかつて女神に殺意を抱いていたことも、どうして避妊してたのかも」

「それは……っ」

「分かってるよ。私のことを想って、伏せてくれていたんだよね。シリウスも同じだと思う。きっと、セジュムのために、今は話さないだけ」

 

その声は、驚くほど優しく穏やかだった。真っ直ぐな瞳に、偽りの色は見当たらない。

動揺し、取り乱している自分の方が異常なのだろうか。エマの言う通り、シリウスを信じるべきなのか。これ以上彼女を問い詰め、追い詰めることは、エマの平穏を壊すだけではないのか。

額に冷や汗が滲み、セジュムの視線が彷徨う。決断を下すための足場が、音を立てて崩れていく。

 

エマはセジュムの肩に細い手を乗せ、その唇にそっと、触れるだけの口づけを落とした。

 

「セジュムは心配性だなぁ」

「エマ……」

「でも、そんなところも愛しいよ。おやすみ」

 

そう言って再び枕に頭を預けると、彼女は静かに瞼を閉じた。

 

(私の余裕がないだけなのか……)

 

また一つ無力感が募る。

エマはこんなときでも、セジュムの焦燥を受け止めてくれる。

 

隣に横たわるエマの気配は、確かに掌が届くほどに近い。

それでも。

その距離が、二度と埋まらない深淵によって隔てられてしまったような気がして、セジュムは暗闇の中でただ独りだった。

 

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