エマはそれから——バファマに明確な昼夜の概念は存在しないが——凡そ4〜5日に一度の頻度でシリウスの研究室を訪れるようになった。
一度赴けば、5〜6時間は戻ってこない。
当初こそ、エマの身の安全を案じて神経をすり減らしていたセジュムだったが、帰還した彼女があまりにも以前と変わりなく、むしろ活力を取り戻したかのように元気に振る舞うため、次第に強固だった警戒も綻び始めていた。
シリウスが進めている実験とは、本当に黎明の女神を殺めるための毒薬作りなのだろうか。そんな疑問が頭をもたげ始めた頃だった。
その日、帰還予定時刻を過ぎてもエマは姿を見せなかった。
心中に沸き起こる最悪の懸念を払拭できず、セジュムは居ても立ってもいられなくなり、衝動のままにシリウスの研究室へと走った。ドアを、叩き壊さんばかりの勢いでノックする。三度目の、暴力的なまでの打突でようやくドアが開いた。
現れたシリウスは、相変わらずの陰鬱な瞳でセジュムを見上げ、薄い唇を歪めた。
「……ああ。エマのこと?」
肩で息をするセジュムを、嘲笑を孕んだ眼差しで射抜く。冷静さを保とうとするセジュムだったが、かつてこの室内で拘束されていたエマの残像が脳裏を掠め、心拍が急速に跳ね上がる。
不測の事態が起きたのではないかという恐慌に突き動かされ、セジュムは無意識のうちにシリウスの白衣の胸ぐらを鷲掴みにしていた。
「……っ!」
「おっと。野蛮だな」
シリウスは両手を挙げ、降伏を装いながらも、その瞳は極めて冷徹にセジュムを観察している。セジュムはハッとして、弾かれたように手を離した。まだ何も起きていない——そう自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
「……失礼しました。エマは、エマはどこです?」
「はぁ? 彼女なら、ここにはいないけど」
「いない……!?」
嘘だ。セジュムはシリウスを強引に退け、研究室の奥へと踏み込んだ。またしても彼女をどこかへ隠匿しているに違いない。
奥へ進むにつれ、室内の異変が目に付いた。以前よりもモニターの数が増設され、整然としていた実験台は、夥しい数の書物や資料で埋め尽くされている。整頓を好むシリウスの性格に似合わぬ、混沌とした積み重ねの跡。
「エマ!」
「まあまあ、落ち着きなよ」
背後から、気だるげな足音が追ってくる。
「ここにはいないって言っただろ、セジュム」
「座りなよ」と、丸椅子を無造作に蹴り渡される。
セジュムは煮えくり返る苛立ちを押し殺してそれに腰を下ろした。シリウスもまた、深い溜息とともに自身のチェアに身を預ける。
「……何も聞いてないの? エマは2階の僕の私室で『実験中』だ。これを見て」
シリウスが卓上のモニターを指先でコンコンと叩いた。
「彼女の心拍、血圧、呼吸数。すべてリアルタイムで監視していなきゃならないんだ。君の相手をしている余裕なんて、本来はないんだけどね」
神の子の私室はすべて2階に配置されている。しかし、シリウスは殆どの時間をこの研究室で費やすため、2階へ行くことは稀だ。
「エマがさ、この研究室が嫌いで入りたくないんだって。何より僕と二人きりで何時間も過ごすと、君が嫉妬で暴れるから嫌だってね」
「え……」
「言っただろう? 『安心して預けろ』って」
『嫉妬で暴れる』などという言葉をエマが選ぶはずがない。シリウスによる悪意ある脚色だ。だが、エマが自分を気遣って場所を変えているという事実に、胸に薄い安堵が広がっていく。
だが、モニターに点滅する数値に目を留めた瞬間、セジュムの血の気が引いた。
「……この数値、心拍数ですか? 1分間に……27回……? こっちは、体温? は……?」
シリウスの表情が凍りついた。彼は即座にモニターの主電源を切り、画面を闇へと沈める。真っ黒に塗り潰された画面に、口を真一文字に結んだシリウスと、当惑を露わにするセジュムの顔が虚しく映り込んだ。
「……へぇ。どうして解るの」
「……解りますよ。体温29度って……」
セジュムがモニターの複雑な信号を即座に理解したことは、シリウスにとって計算外だったのだろう。シリウスは僅かに視線を彷徨わせた。画面に表示されていたのは、高度に暗号化されたバイタルデータだったはずだが、セジュムの鋭敏な観察力はそれを正確に読み取っていた。
心拍、体温。そのいずれもが、通常生きている人間であれば『死』を意味する数値だ。
スッと背筋が冷たくなる。
「エマの様子を見てきます!」
弾かれたように立ち上がったセジュムだったが、その外套の裾をシリウスが強く掴んだ。
「実験の邪魔はさせない」
「何なんですか……! 一体、何の実験をしているんですか! エマの命を削るような真似だというなら、私は、この命に代えても貴方を止めます!」
セジュムはその手を振り払い、再びシリウスの胸ぐらを掴み上げた。襟元が締まり苦しいのか、シリウスの喉がクッと小さく鳴る。細く薄めた陰鬱な目でセジュムを睨み、セジュムの手を解こうと掴んだ。
「……話すよ。話すけど、ちゃんと彼女とも向き合ってよ」
短く吐かれる息とともに長い前髪を揺らす。静寂に包まれた研究室に、彼のフープピアスが「チャリ」と硬質な音を立てた。セジュムはゆっくりと拳を解き、再び丸椅子に腰を下ろした。真実を暴き出すための、重苦しい対峙が始まった。