時は、セジュムが談話室でシリウスに対話を乞うた直後へと遡る。
セジュムの私室。エマはソファの上で、ぼんやりと髪を梳かしていた。
その時、重厚な木扉を叩くノックの音が響く。セジュムが戻ったのだと思い、エマはブラシを置いて立ち上がった。
だが、扉を開けて見上げた先に、いつもあるはずの穏やかな顔はなかった。視線を落とすと、そこにはシリウスが立っている。エマは無言で、静かにドアを閉じようとした。
「おい」
「……嫌。帰って」
シリウスは有無を言わせずドアの隙間に足を差し込み、エマの抵抗を嘲笑うように力任せにこじ開けた。ズカズカと部屋の奥まで踏み込み、主のような顔をしてソファに深く腰を下ろす。
「はい、そこに座って」
あまりに強引な振る舞い。エマが警戒を解かずに立ち尽くしていると、シリウスは不愉快そうに眉を顰め、催促するようにテーブルを指先で叩いた。金属質の指輪が硬質な音を立てる。それはまるで、エマの態度そのものを糾弾する打音のようだった。
「早く。時間がないんだ。セジュムには、この部屋で君と会う許可は取ってある」
「セジュムに……?」
「彼に泣きつかれたんだよ。だから、さっさと座って」
かつて自分と二人きりになったことを「裏切り」だと断じたセジュムが、自らその機会を奴に与えるなど、到底信じがたかった。
エマは得体の知れない不安に駆られながら、シリウスの対面に腰を下ろした。
「……何の用ですか」
「君には深く同情している。……その気持ちが、痛いほどによく分かるからね」
そう前置きして彼が語り始めたのは、シリウスという男を形作った、過去の断片だった。
***
「シリウスって、本当に格好いいよね……。ずっと見てられる」
アイコのベッドの上。シリウスは彼女の膝枕の上で目を閉じ、安らぎの中にいた。頭を撫でる彼女の指先は、羽のように軽やかで優しい。
「雰囲気、ほぼ『ユウヤ君』だもん」
アイコは元の世界で、一人の男に抱いてもらうため、顔を整形し、豊胸手術を行い、さらに、途方もない大金を貢ぎ続けていたという。その金を稼ぐために身を売り、心を削り、そうして得た束の間の愛に固執していた。
『ユウヤ』。
それが、彼女が熱心な愛を捧げた男の名だった。その面影をシリウスに見出したからこそ、アイコは彼を一番に気に入り、愛玩動物のように自室に囲っていたのだ。
「お金を払わなくても、ユウヤ君といつでも好きなだけエッチできる。……はぁ、ここ、天国」
「……天国?」
「天国。だーいすき」
そう囁き、彼女はシリウスに口づける。
たとえ別の男の名で呼ばれようと、彼女が他の神の子たちに抱かれようと。シリウスは、それでも幸福の極みにいた。なぜなら、バファマにおいて、彼女の「一番」は自分だったからだ。
頬を張られようと、汚らわしい言葉で罵られようと。アイコを愛さずにはいられなかった。最後には必ず、甘い声で「大好き」と言ってくれるからだ。
しかし。彼の内側で、もう一人の自分が激しく咆哮していた。
『黎明の女神など、神の核を収めるだけのただの容器に過ぎない。偉そうに神の子を支配するな。神の子を産めば元の世界に戻され、また金のために男に股を開き続ける惨めな運命の女ではないか。なぜ、神となるはずの僕が、これほどまでに劣位に置かれねばならない!』
その矛盾した二つの心は、やがて臨界点を超えた。
「ヤバ。勃たない神の子なんて、居る意味なくない? 終わってんだけど。はーい、シリウスは用無し。バイバ~イ」
アイコはケタケタと下卑た笑い声を上げながら、シリウスを足蹴にした。床に這いつくばった彼の頭を、彼女は容赦なく踏みつけ、上から愉悦に満ちた声を降らせる。
「あー、泣いてる〜。えー、泣き顔もカワイー。好きー」
気づけば、両の目から涙が溢れ、頬を濡らしていた。
(ああ……僕は支配されたくないのに、支配されないと、存在を肯定されない生き物なのだ)
この愚かで歪んだ愛しい女を、永遠にこの手の上でいたぶり、『ユウヤ』よりも僕と一緒にいたいと言わせたい。
アイコに愛されたいという思いとアイコを壊したいという思いが同列に並ぶ。
***
「だから、僕は、アイコとこのバファマで、永遠に一緒にいられる方法を探そうとしたんだ」
エマは固唾を飲み、その告白を全身で受け止めていた。セジュムの言葉を通して聞いた話とは、また手触りが違う。
アイコは元の世界で男に振り回され、壊れた被害者。彼女の傲慢さは、傷ついた魂の防衛反応だったのかもしれない。
そして、シリウスには歪みに歪みきった果ての「愛」があった。
神妙な面持ちのエマを、同情の意と勘違いしたのか、シリウスは冷笑を浮かべて一瞥した。
「何その顔。不能なら、もうとっくに治ってるよ」
「えっ……いや……。知ってる、けど……」
反射的に嫌悪を露わにするエマを見て、シリウスは八重歯を覗かせて笑った。
「エマも……できることなら、セジュムと永遠に一緒にいたいんだろう?」
唐突に、心の最も柔らかい部分を突かれた。喉の奥から、言葉にならない呻きが漏れる。この傲慢なほどに知的な男なら、あるいは——不可能を可能にする術を知っているのかもしれない。
エマの瞳に、かすかな期待の光が灯る。シリウスはその輝きを見逃さず、獲物を追い詰めた獣のように、瞳を怪しく見開いた。