壁際に吊られた銅鍋と香草の束。刃を休めた包丁。
大理石で出来た調理台はバファマの光を受け、輝いている。エマは静まり返ったキッチンに立ち、コンロに火をかけていた。
静かな鍋の表面をぼんやりと眺めながら、彼女の脳裏には、以前、セジュムの私室で見せた彼の姿が焼き付いて離れなかった。幼子のように自分に縋り、切実な声で謝罪を繰り返していたあの姿が。
シリウスの実験に協力すると宣言したあの日から、セジュムはまるで心のシャッターを下ろしたようだった。理由は明白だ。シリウスに自分たち2人の時間が奪われるのが、何よりも嫌なのだろう。
(全く……独占欲が強いんだから……)
内心で呆れつつも、そんな不器用な欠点さえ愛しく感じてしまう。『恋は盲目』とはよく言ったものだ。
……だが、彼なりのエマに対する罰なのか、単なる拗ねているだけなのか、あの日を境にセジュムからの肌の触れ合いは、ぱったりと途絶えてしまった。女としては看過しがたい悩みだが、拒絶の色を隠さない相手に無理強いするわけにもいかない。
(そもそも私だって愛を深め合うのが怖くて拒絶してた時期あったし……)
あの抱擁と謝罪は、てっきり「今日までの素っ気なさを許してほしい」という意味だと思ったのに、キスだけは頑なに拒まれた。そして、それ以降またスキンシップは途絶えた。理解不能な矛盾。
けれど、久々に彼から抱きしめられた事実は、単純にエマの心を弾ませていた。愛する人からのおあずけというのがここまで辛いものだったとは知らなかったとエマは心から反省していた。
「でも、欲求不満だ……」
つい、独り言がこぼれた。その刹那、背後から無骨で逞しい腕が伸び、コンロのつまみを回して火を消した。
「沸騰してんぞ」
低く、腹に響くようなバリトンボイス。
驚いて見上げると、すぐ隣にレオールが立っていた。野性味あふれる端整な顔が、すぐ近くにある。
「……は? え? い、いつからそこに……っ」
レオールはとぼけたように首を傾げた。その確信犯的な沈黙が、エマの失言をすべて聞き届けたことを物語っている。羞恥心で顔が燃えるように熱くなり、エマは思わず両手で顔を覆った。
「コーヒー?」
「……紅茶」
レオールは慣れた手つきで戸棚から焼き菓子のキャニスターを取り出すと、大理石の台の上に置いた。そのまま自分も、どっかと腰を掛ける。
さらにもう一方の手で茶葉の入った筒を取り、焼き菓子の隣にトンと置いた。
「ありがとう……」
エマは、逃げるようにティーポットとカップを準備し始めた。カチャカチャと磁器が触れ合う音だけがキッチンに虚しく響き、気まずい空気が密度を増していく。
エマは少し迷ったが、胸につかえるものを吐き出すべく、思い切ってレオールに向き直った。
「セジュムが、全然私に触れてくれないんだよ!」
「お、おぉ……。それオレに言うんだ」
「いい雰囲気になっても、キスさえ拒まれるの。……辛い!」
レオールは気圧され、一瞬視線を泳がせたが、ガリガリと後頭部を掻き毟ると、困惑を隠さぬように目を瞑った。
「知るかよ。オレは聞かなかったフリをしたんだから、お前も聞かれなかったフリをしろよ」
「無理! この空気、耐えきれない!」
真っ赤な顔で詰め寄るエマを前に、レオールは観念したように鼻から息を抜いた。
「めんどくせーな。エマはキスしたい」
「そう」
「セジュムはキスしたくない」
「……そう」
「じゃ、お前らの関係は終わりだ。簡単だろ」
エマは言葉を失った。レオールのワイルドな外見の裏にある意外な面倒見の良さに期待していたが、どうやら恋愛相談という繊細な分野においては、彼はあまりに不器用で、かつ不得意らしい。
俯いてしまったエマを見て、レオールは慌ててフォローを差し込む。
「……悪かった。嘘だよ。セジュムの気持ちなんて代弁できねーから、オレに聞くな。セジュムに聞け」
「それが出来たらレオールなんかに相談しない……」
「あぁん?」
レオールが苛立ちを露わにし、目を据わらせたその時。
レオールの視線が、エマの背後――キッチンの入口で佇む人物を捉えた。
セジュムだった。眼鏡の奥の眼光はナイフのように鋭く、何かを言いたげに唇を噛んでいる。エマは背を向けているため、その存在にまだ気づいていない。
セジュムが声を上げようとするその瞬間、レオールがそれを遮るように声を張り上げた。
「いやー、エマもかわいそうだなー。セジュムとイチャつきたくても拒まれて欲求不満だなんてなー」
「う、うるさいな」
「ちゃんと理由を話してやらねーと、エマの気持ちもセジュムから離れちまうよなー」
不自然な言い回し。
『話してもらわないと』ではなく、『話してやらないと』。
エマがその微かな違和感に首を傾げた瞬間、レオールは台から飛び降り、エマの退路を断つように立ちはだかった。
「レオール?」
問いかける間もなく、レオールの太い腕がエマの腰を引き寄せ、自身の硬い身体へと強く密着させた。エマはバランスを崩し、彼の逞しい胸元に頬をぶつける。
「なら、オレでその欲求不満、解消するか?」
伏せられた睫毛の奥、妖しく笑む瞳がエマを見下ろす。
エマが悲鳴を上げようとしたその瞬間、背後から空気を切り裂くような怒号が飛んだ。
「レオ!!」
弾かれたように振り向くと、そこには眉間に深い皺を刻んだセジュムが、鬼のような形相で二人を睨みつけていた。
「セ、セジュム……!?」
レオールは、満足げにパッとエマを解放した。平然とした顔でセジュムに歩み寄り、その肩をポンと叩く。
「……お湯、冷めちまったぞ。温め直してやったほうがいいんじゃねえか?」
レオールは茶化すようにセジュムの頬を指先でつつくと、颯爽とキッチンを後にした。
残されたエマは、セジュムの視線の痛さに身を縮めながら、本日二度目となる力ない言葉を漏らすしかなかった。
「……いつから、そこにいたの?」