黎明の女神   作:浮月 愁

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黎明の女神 48話 再沸2

キッチンの入口に立ちはだかるセジュムは、呆れたような、それでいて深い憂いを帯びたような複雑な顔でエマを凝視していた。そこから逃げる術はない。もし今のレオールの煽りを含め、すべての会話を聞かれていたとしたら——羞恥のあまり、このまま大理石の床に溶けて消えてしまいたいほどだった。

 

「あ、あの、紅茶……紅茶を淹れ直さないと……」

 

エマは泳ぐ視線を無理やり鍋へと戻し、震える手で火をつけようとした。逃げ場のない緊張感に、背中を冷や汗が伝う。

 

「エマ」

 

名前を呼ばれ、肩がビクリと跳ねた。怒声ではない。けれど、鼓膜を震わせるその静謐な低音は、かえってエマの心臓を早鐘のように打ち鳴らさせた。

 

「は、はひ……っ」

「紅茶は、また後にしましょう」

 

セジュムはキッチンに歩を進めると、淀みのない動作でソーサーやキャニスターを戸棚へと片付けていく。呆然と立ち尽くすエマの手をそっと取ると、彼は微笑みを消した真剣な眼差しで彼女を見下ろした。

 

「レオールに、相談をさせてしまい……申し訳ありませんでした。続きは、部屋で」

 

逃げ道は完全に断たれた。話の内容はどこまで

筒抜けだったのだろうか。急激に体温が上昇し、顔が火照るのを感じる。セジュムは石のように固まったエマの手を優しく、けれど拒絶を許さぬ強さで引き、自室へと連れて行った。

 

私室に戻り、ソファへ腰を下ろしたセジュムは、向かい側に座ろうとしたエマを制し、自身の隣を軽く叩いた。

 

「こちらへ」

 

有無を言わせぬ響き。エマは促されるまま、彼と肩が触れ合うほどの距離に腰を下ろした。

 

「レオールに、何を相談したのか教えてください」

 

逃げ場を塞ぐ問い。エマはセジュムの眼鏡の奥を直視できず、俯いたまま何度も瞬きを繰り返した。懸命に言葉を選び、セジュムの冷淡な態度が寂しかった、とだけオブラートに包んで伝えた。嘘ではない。間違いでもない。この言い回しだと誤魔化せそうである。

エマは少しの間を置き、あえて彼の否定を誘うように賭けに出た。

 

「セジュム……私のこと、もう好きじゃなくなったんだ」

 

『そんなはずはない』。そう言って強く抱きしめ、いつものようにキスをくれるはずだ。そんな甘い期待を込めて、エマはソッと彼を見上げた。

しかし、セジュムはエマの手を握りしめると、その核心を射抜くような眼差しを向けた。

 

「……『欲求不満』、なのですか?」

 

心臓の真横で爆弾が弾けたような衝撃。言葉にならない悲鳴が喉の奥で暴れる。彼の口からそんな露骨な言葉が飛び出すとは思わず、羞恥で耳朶まで真っ赤に染まった。

誤魔化しきれない。エマは決死の覚悟で、小さく、けれど確かに頷いた。すると、問いかけた張本人であるセジュムも、僅かに頬を染め、動揺を隠すように視線を揺らした。

セジュムは深く、重い溜息を吐き出した。

 

「……私は、貴女のことを想っているつもりで、結局は自分のことしか考えていなかった」

 

悲痛なほどに眉を下げた自嘲の表情。彼は顔を上げると、もう一度エマの手を壊れ物を扱うように握り直した。

 

「貴女に触れなかったのは……自分への罰です。エマに触れることは、私にとって至福……無上の喜びなんです。……そんな喜びを享受する資格は、今の私にありません」

「……どういうこと?」

 

セジュムは眼鏡のフレームに指をかけ、苦渋に満ちた沈黙を置いた。そして、意を決したように告白を始めた。

あの日、研究室でシリウスが振るった暴力は、自分が刻みつけた独占欲の痕跡が引き金となったこと。エマを傷つけた元凶は自分にあるのだという、血を吐くような懺悔。

触れ合っている彼の掌は、緊張と後悔の滲んだ汗でしっとりと湿っていた。

 

「エマ……いくら謝罪しても足りません。貴女を傷つけたのは私だと言っても過言ではない。もし……もし、こんな私とこれ以上共にいることが貴女の苦痛になるのなら、いっそ、私のことなど……」

 

セジュムは言葉を詰まらせた。伏せられた長い睫毛が儚く震える。

 

「……情けない。この期に及んで、貴女を失うことが恐ろしくて堪らない」

 

震える声がエマを包み込む。

 

「いっそ、私を捨ててください」

 

その言葉に含まれた絶望的なまでの誠実さと、子供のような臆病さ。

ずっと独りでこの罪悪感に苛まれていたのか。エマの心は、激しい愛おしさで塗り替えられた。

 

「……嫌だよ」

 

エマは小さく呟くと、セジュムの首に腕を回し、その身体を力一杯抱きしめた。

 

「こんなに弱い人、放っておけないよ」

 

ずっと守ってもらいたいと思っていた。けれど今、この瞬間、この傷ついた男を自分が守りたいと強く願った。

愛しさが、限界を超えて吹き出す。エマはゆっくりと身体を離すと、目尻を赤く染めたセジュムを見てつい微笑みが溢れる。ソッとセジュムの頬に両手を添えた。

 

「うーん……やっぱり、許さない。だから……私がいいって言うまで、責任とって、たくさん愛して」

 

セジュムの瞳から、張り詰めていた緊張が溶け出した。彼は弱々しく、けれどこの上なく愛おしそうに微笑むと、エマの頬に自らの手を添えた。

 

「……優しい人ですね」

 

どちらからともなく顔を近づけ、二人の唇が重なった。

久しぶりに交わすキスは、甘く、熱く、そして溶けるように優しかった。二人の間に積み重なっていた凍てつく沈黙を、一瞬で溶かしていく。エマがセジュムを求めるように唇を割れば、彼は切ない吐息を漏らし、奪い返すような情熱でそれに応えた。深く、何度も、確認し合うように唇を重ね合う。

 

バファマの天窓から差し込む琥珀色の光が、ソファで重なり合う二人を見守るように温かく包み込んでいた。

 

それから——シリウスから「例の薬」の完成を知らせる先触れが届いたのは、そう遠くない未来のことだった。

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