セジュムの部屋の扉を開けたが、そこに彼の姿はなかった。
シリウスの研究室に向かう日は、彼はいつも、心を削るような不安を押し殺してエマの帰還を待ち、戻るなりその体調を細やかに気遣ってくれる。それなのに、今日に限って主のいない静寂が部屋を支配していた。
しばらくベッドに腰掛け、待ってみたものの、一向に戻る気配はない。不審に思ったエマは、セジュムを探しに出た。
共有スペースを順に巡り、晩餐室の重厚な扉を開けた瞬間、キッチンの方から賑やかな喧騒が漏れ聞こえてきた。
「ああっ! 違います……そこは、もっと慎重にっ!」
「ははっ、おもしれーな。こうして、こうして……」
「ハハハ、レオ! また最初からやり直しになるぞ」
セジュム、レオール、そしてジェルドの声だ。
エマが恐る恐るキッチンの中を覗き込むと、まずは鼻腔を突く甘ったるい匂いに圧倒され、次いで事件現場さながらの惨状が視界に飛び込んできた。
調理台には、役目を終えたのか放置されたのかも判らぬ泡立て器やゴムベラ、計量スプーンが無造作に散乱している。床も台も、小麦粉か粉砂糖か判別のつかない白い粉に覆われ、まるで薄らと雪が積もったかのようだ。シンクには汚れたボウルが山をなし、壁や天井にまで生クリームの飛沫が点々と跳ねている。
その中心で、顔や髪、逞しい腕にまでクリームだらけで絞り袋を振り上げるレオール。上等な外套と眼鏡を粉まみれにしながら、必死にレオールの暴走を食い止めようとするセジュム。そして少し離れた、唯一清浄な場所を保っている調理台に腰掛け、優雅に二人のドタバタを眺めて笑っているジェルド。
惨状の真ん中には、中央が力なく陥没したスポンジケーキが鎮座していた。雪崩を起こしたようなクリームが皿を越えて飛び散り、その周囲には、もはや飾り付けとは呼べない無惨な姿の果物たちが転がっている。
エマはそのあまりに酷く、そして可笑しな有様に、こらえきれず大きな笑い声を上げた。
「エマ!」
「お、エマ。見ろよ、すげーだろ!」
なぜか自信満々なレオールが快活な笑い声を上げる。エマの存在に気づいたセジュムが、慌ててレオールから手を離し、エマに向かって一歩踏み出した——が、床のクリームに足を滑らせ、派手な音を立てて調理台に半身をぶつけた。
「……痛い……」
「あーあー。もう、みんなして何してるの?」
ジェルドがひらりと台から降りると、満天の星空のような輝かしい笑顔でエマに歩み寄る。その微笑みは、この荒れ果てたキッチンで唯一の良心のようだった。
「セジュムがエマにケーキを作りたいと言うから手伝っていた。ケーキ作りは難しいな」
「なんでケーキ?」
「こいつが最近読んだ本に、恋人にケーキを作って贈るって話があって真似したかったんだってよ」
レオールが鼻の下を擦って笑うと、指についていた生クリームがべったりと鼻下に付着する。セジュムはひどく肩を落とし、未完成の、あるいは崩壊したケーキに沈痛な視線を送った。
「すみません、エマ。貴女が戻る前に、完璧な形で完成させたかったのですが……」
「ううん。すごく、すごく頑張ってくれたんだなって伝わってきたよ。ありがとう、セジュム。レオール、ジェルドも。本当に嬉しい」
形をなしていないケーキ。けれど、3人の男たちがエマ一人のために、この世のものとは思えないほど不器用な努力を重ねてくれた。その真心に、エマの胸の奥がじんわりと熱くなる。
エマのために、そしてエマを想うセジュムのために、労力を惜しまず付き合ってくれるレオールとジェルド。
彼らの屈託のない笑顔を見ていると、ふと思ってしまう。もしエマが真剣に「黎明の女神の役割」として、二人のどちらかにお願いをしたなら。きっと彼らは「仕方ないな、二人のためだ」と笑って受け入れてくれるのではないか、と。
そんな想像をしてしまう自分に、すぐさま激しい自己嫌悪が襲いかかる。ケーキ作りと同列に考えるなんて、あまりに卑俗で愚かだ。ギャグにもならない。けれど、そうした思考に縋りたくなるほど、追い詰められている。
シリウスの手を借りることだけは、生理的な嫌悪が勝るし、セジュムが命に代えても許さないだろう。
そもそも、セジュムにすべてを相談したとして、果たして救いのある結論など出るのだろうか。
今、目の前にあるこの温かな三人の笑顔が、軽蔑の色に染まり、背を向け自分から離れていく——そんな恐ろしい幻影が脳裏を掠めた。
ふいに表情を曇らせたエマの異変に、ジェルドが真っ先に気づいた。
「エマ? どうした?」
「いや……みんな、本当に優しいなって……思って……」
視界がわずかに滲んだ、と思った次の瞬間。頬を伝って、雫がこぼれ落ちた。
「えっ……」
涙は、エマの意志を無視して勝手に溢れ出した。驚いて瞬きをすると、その拍子にまた一粒、二粒。
拭おうと伸ばした指先が追いつかないほど、雫は次から次へと溢れて止まらない。
狼狽したジェルドが、咄嗟にエマを抱き寄せ、その広い胸の中に彼女を収めた。だが、すぐに大股で詰め寄ってきたセジュムが、触れるなと言わんばかりの勢いで二人の間に割って入った。厳しい口調でジェルドに詰め寄る。
「エマに何か?」
「いや、何も」
「オレのこのデコレーションセンスに感動したんだ。だろっ、エマ」
呼吸は乱れず、声も震えない。ただ、涙だけが規則正しくこぼれ続ける。
「……わからない」
ぽつりと零されたエマの言葉に、ただならぬ異常を感じ取ったセジュムが、彼女の手を強く引いた。
「部屋に戻ります。レオ、ジェルド……あとの片付けを頼んでもいいですか」
「もちろんだ」とジェルドが神妙に頷く。
立ち去る二人の背中を見送りながら、レオールがジェルドに近づき、呆れたように鼻を鳴らした。
「心配性だよなあ、セジュム。ありゃ、ただの嬉し泣きだろ?」
「……いや、明らかに様子がおかしかった」
「そうか?」
「……それからレオール、それ以上寄るな。服が汚れる」
掌を向けて制止するジェルド。だが、レオールはわざとその端正で美しい顔面に、たっぷりとクリームのついた手を押し当てるのだった。