セジュムの部屋へ戻るなり、彼はすでに涙を拭ったエマの手を引き、ソファへと促した。彼もまた、粉とクリームで汚れた外套を脱ぎ捨て、眼鏡を拭くと重苦しい沈黙を背負いながらエマの隣に腰を下ろし、その当惑した顔を覗き込む。
「エマ……。大丈夫ですか?」
「……ごめんね。みんなすごく楽しそうだったのに、私が変な空気にしちゃって」
セジュムは悲痛な面持ちで静かに首を振った。その眼差しは、これからエマが口にするであろう「告白」を、すべて受け入れる覚悟をすでに終えているかのようだった。今まで幾度となく救われてきた、彼の底の無い包容力。言葉を躊躇うエマの背を優しく、けれど確実に押し出していた。
「……今まで、黙っていてごめんなさい」
エマはセジュムの指先を握りしめると、シリウスの実験に協力してきた理由と、その内容を一つずつ、丁寧に紐解いていった。
セジュムは口を挟むこともなく、ただ静謐な態度で耳を傾けていた。エマは、彼がどこかで驚愕し、あるいは動揺を見せるのではないかと予測していた。しかし、彼は終始、落ち着いた冷静さを保っていた。
「それで……今日、その薬が完成したの。でも、一つだけ、問題があって……」
「そうですね。貴女は、私以外の神の子に抱かれなければならない」
抑揚のないその言葉が放たれた瞬間、室内の空気が凍りつくような錯覚に陥った。セジュムは怒っているわけではない。だが、その逃れられない問題こそが、今のエマにとってセジュムの口から最も聞きたくない言葉だった。エマは彼の顔を直視できず、深く俯いた。
「……さっき、みんなの笑顔を見ていたらね。私たちの幸せのために、彼らに行為だけを強要して、それを私がお願いしなきゃいけないことが、すごく嫌で、怖くて。彼らは神の子かもしれないけれど、私の勝手に振り回されるだけの道具じゃない。そんなこと、絶対にあってはならない。それに……」
「エマ」
遮るように呼ばれ、エマが顔を上げると、そこには射抜くような真剣な眼差しのセジュムがいた。
「……すべて、知っていました」
「え……?」
「……ようやく完成したのですね。黎明の女神をただの女性へと変え、バファマのルールを覆す薬」
セジュムはそう言って立ち上がり、エマから距離を置くようにソファを離れた。
「いつになったら、私に打ち明けてくれるのかと……ずっと待っていました。一人で抱え込まないでほしいと言ったはずなのに。私はそれほど、貴女にとって頼りない存在だったのでしょうか」
振り返ったセジュムの瞳には、ひどく寂しげな色が浮かんでいた。エマの胸に、鋭い罪悪感の棘が突き刺さる。穏やかで献身的に振る舞う裏側で、彼もまた、ずっと独りでこの残酷な真実に苛まれていたのか。エマもソファから立ち上がる。
「セジュム、ごめん。……でも、これで、ずっと一緒に居られるよ」
ようやく言えた。安堵が胸に広がる。しかし、そんなエマの言葉を切り裂くように、セジュムの低い声が部屋に響き渡った。
「エマ。――私は、神になりたいのです」
バファマの天窓から降り注ぐ光が、彼を白々と照らし出す。それはまるで救いの光か、あるいは祝福の光のように。
エマは呼吸を忘れ、言葉を飲み込んだ。目の前の愛する男が口にした言葉が理解できず、脳が処理を拒絶する。
「え……?」
「私たちは、永遠に共に過ごすためにここに居るわけではありません。叶わぬと知っているからこそ、この刹那の尊き愛を育んでいるのです」
「……え。何……何を言っているのか、よく、わからない」
全身から急速に力が抜け、エマは崩れるように再びソファへと座り込んだ。まるで、見えない鈍器で頭を殴りつけられたような衝撃だった。
なんのために今までシリウスの実験に付き合ってきたのだ。
――そうだ。
セジュムと未来を共にするためだ。けれど、当のセジュムは、エマとの「永遠」など望んでいなかった。
――そうだ。
彼は、最初から言っていたのだ。
『私は新世代の神になりたい』と。
それは、エマへの愛よりも優先される、彼の揺るぎないアイデンティティだったのだ。
――なんだ。
ただの独りよがりだったのか。
指先から体温が奪われ、激しい震えが襲う。胸の奥で何かが決壊したように、熱いものが一気に込み上げてきた。視界が急速に歪み、呼吸を整えようとするほど喉が詰まる。こぼれ落ちた涙は止まる気配を知らず、言葉にならない絶叫が喉の奥で砕けた。
「エマ」
駆け寄ろうとするセジュムを拒絶し、エマは弾かれたように立ち上がった。そのまま部屋を飛び出そうとする彼女を、セジュムが必死に引き止める。
「エマ! 待ってください!」
腕を強く引き寄せられ、エマは彼の広い胸の中に閉じ込められた。いつもなら安らぎをくれるその温もりに触れても、短く途切れる呼吸の合間から激しい嗚咽が漏れ出す。エマは狂ったようにセジュムの背を叩いた。
「……離して……離してよ!!」
「嫌です。離しません」
「……触らないで! もう二度と、私を抱きしめないで!」
「エマ……っ」
腕の力が抜けたセジュムの胸を、エマは必死に手で突き放し、彼を見上げた。涙は崩れるようにボロボロと溢れ出し、瞬きするたび頬を伝って落ちていく。
「終わりを迎えるだけじゃない! どうして終わりがわかっていて、愛し合えるの? ……無理だよ、そんなの」
熱が込み上げ、喉の奥が焼ける。止めようという意志さえ、涙に押し流されていく。ただ流れるままに、感情は外へ溢れ続ける。
「セジュムは、やっぱり私のことなんて好きじゃなかったんだ」
「違います……」
「神になるためだけに、私を利用したんだ!」
「違う!」
鼓膜を震わせるほどの怒号。急に声を張り上げたセジュムに、エマの身体がビクリと跳ねた。セジュム自身も、思わぬ自らの声量に驚愕したのか、咄嗟に口元を掌で覆った。
「す、すみませ……」
エマは溢れる涙を無理やり飲み込むと、そのまま背を向け、脱兎のごとく部屋を飛び出した。震える足が向かったのは、自分自身の私室だった。
しかし、自室の扉の前で、彼女はピタリと足を止める。
今、自分が行くべき場所は、ここではない。
バファマの塔の上層階を真っ直ぐに睨みつけた。