黎明の女神   作:浮月 愁

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黎明の女神 52話 安撫

エマがセジュムに向ける愛情より、セジュムがエマへと向ける愛情のほうが大きいと感じていた。

だからこそ、傲慢にも安心しきっていたのだ。これほど愛されている自分の要求を、彼が拒絶するはずがない、と。

『エマ。貴女はそこまで私のことを。ありがとうございます』

そう言って、慈しむような微笑みと共に、すべてを包み込んでくれる。それが自分の知るセジュムだと疑わなかった。

 

(最悪……。全部私が悪いんだ)

 

エマは、鉛のように重い足取りで階段を一段ずつ登る。溢れ続ける涙は、枯れ果てる兆しすら見せない。

 

もう、ここに留まる意味など何処にもない。

エマはふらつく足取りで風見台を目指す。

あそこから、真っ逆さまに身を投げれば、この焼けるような苦痛から逃げられるだろうか。

 

(私は誰も、照らせなかった。ごめんね、テンカ)

 

セジュムは「神」になりたいのだ。

このまま彼と子を成し、ここにいたすべての記憶を抹消されて、あの小汚い公園のトイレの裏で目覚めるというのなら——。

それが今であっても、後であっても、結果は同じではないか。

 

ドラマや映画で、愛する人と結ばれない絶望から「死んでやる!」と叫び、崖っぷちに立つヒロインの姿を思い出した。かつてのエマなら、そんな演出は非現実的だと鼻で笑っていただろう。けれど今、自分はその滑稽なまでの悲劇を、自らの肉体で体現しようとしている。まさか、あの陳腐な名シーンの真理を、こんな形で理解する日が来るなんて。

 

足を止め、俯いていると、背後から声をかけられた。

 

「エマ?」

 

少し高めで、神経を逆撫でするような粘着質な響き。シリウスだ。

ゆっくりと、革靴の乾いた音が近づいてくる。ここは4階から5階へ続く階段の途上。4階に研究室を構える彼がここに居ても不思議ではない。

 

「無視すんな」

 

苛立ちを孕んだシリウスの声。弾かれたようにエマは駆け出した。こんな、涙でぐちゃぐちゃになり、鼻水まで垂れ流している無様な顔を、彼にだけは見られたくなかった。

だが、弱りきった女の足が、執念深い男から逃げ切れるはずもない。5階へ辿り着く前に、エマの腕はシリウスの細く冷たい指に捕らえられた。

後ろへ強く引き戻され、バランスを崩したエマは、シリウスの肩に不本意にも凭れかかる形になった。シリウスは無言でエマの顔を覗き込むと、拒絶を許さぬ力で彼女の手を引き、そのまま4階の研究室へと引きずり込んだ。

彼は実験台に無造作に置かれていたティッシュケースを掴み、エマに突きつける。

 

「その汚い顔、拭いて。不衛生」

 

エマは言われるがまま、ぐちゃぐちゃに濡れた顔を力任せに拭った。

シリウスはエマの顔を至近距離で覗き込み、顔が拭かれたのを確認するとティッシュケースを奪い返して卓上へ放り投げた。

 

「僕、あまりこういうの得意じゃないんだけど」

 

そう毒づきながら、シリウスは細い腕を回し、エマの頭を強引に己の身体へと引き寄せた。エマの頬が、彼の肩に自然と沈み込む。

シリウスはその重みを受け止めるように腰を引き寄せ、抱きしめる力を僅かに強めた。片手で腰を支え、もう片方の手で、彼女の頭を一定のリズムで叩く。ポン、ポン、と。子供をあやすような、静かな振動。

 

「……は?」

「……久しぶりに感じたよ。『罪悪感』ってやつ」

 

彼からの予期せぬ抱擁に、エマは岩のように身体を硬直させた。首筋から漂う消毒液のツンとした匂い。耳元に触れる、冷たいピアスの金属感。

 

「セジュムはね、見た目通りの糞真面目な男だ。我々が産まれた理由が『神』になることなら、愚直にその役目を全うしようとする。僕とは違ってね」

 

エマはハッとして顔を上げた。

なぜエマが泣いているのか、セジュムが何を選択したのか。シリウスは、すべてを見抜いているのだ。彼が口にした「罪悪感」が、エマのこの惨状を予見していたことの証明だった。

 

「……最初から、こうなるって分かってたの?」

「いやいや。薬が完成するまでに、セジュムの気が変わる可能性だって万に一つはあったでしょ。まだ、未確定だった」

 

やはり、これは慰めなのだ。

脳を揺らすほどの激しい怒りに襲われるかと思ったが、今更喚いたところで何も変わらない。それに、セジュムの「神になりたい」という決意を覆すほど、彼を自分に夢中にさせられなかったのは、動かしがたい事実だ。

再び胸に冷たい悲しみの波が押し寄せ、エマは抗うのをやめ、シリウスの肩に深く顔を埋めた。

彼が『罪悪感』を抱いているというのなら、そこに甘え大人しく慰められようではないか。

シリウスは、エマの微かな嗚咽を耳にすると、小さく鼻から息を抜き、その華奢な背中を宥めるように撫でた。

 

「まあまあ。あのセジュムのことだ。君が他の誰かに抱かれるくらいなら……なんていう独占欲も、はぁ、相当に強いはずだよ。……あー……」

 

不意に、シリウスがエマの背に回していた手を離した。

 

「僕、泣いてる子を見ると興奮するタチなんだよね。……反応しそうだから、離れて」

 

自分勝手な理由で、今度は突き放すようにエマの肩を掴んで距離を置く。やはりこの男に、セジュムのような紳士的な優しさを求めるのは筋違いなのだ。エマは諦めにも似た、深い軽蔑の色を込めてシリウスを睨みつけた。

しかし、彼はそんな視線を意に介する様子もなく言葉を継ぐ。

 

「そのブス顔、冷やした方がいい」

 

彼は手際よく氷嚢をあつらえると、それをエマに無造作に手渡した。シリウスはいつもの定位置であるチェアに深く腰を下ろすと、顎先で部屋の隅のベッドを指し示す。

 

「そっちを使っていいから、少し休んでなよ。セジュムが来たら、適当に理由をつけて追い返すから」

 

そのまま、彼は背を向けるようにデスクへと身体を戻した。意図の読めない彼の行動に、エマは氷嚢を手にしたまま立ち尽くす。

 

「……あの、シリウス」

「何?」

「……どうして、そんなに優しくしてくれるの?」

 

わずかな沈黙の後、小さく、そして重苦しい溜息が漏れた。シリウスはひどく面倒そうにチェアを回転させ、エマの方を向き直した。

 

「……気持ち悪いことを言わないでくれる? 僕が何を目的としているか、わかってるよね? 君は僕の計画通りに、忠実に動いてもらわないと困るんだけど」

 

苛立ちを含んだ、突き放すような声。

その冷徹な言葉を釈然としない思いで受け止めながら、エマは促されるままベッドへと向かった。その背中に向かって、シリウスが静かに声を投げる。

 

「エマ」

「ん?」

 

振り返ると、シリウスの瞳が真っ直ぐにエマを射抜いていた。

 

「セジュムは、君のことを愛しているよ」

 

彼はそれだけを告げると、ふいとチェアを回し、再びデスクの上の研究資料へと没頭し始めてしまった。

つい数分前まで、セジュムにとって自分は「神」への階段を登るための踏み台に過ぎないと思い込んでいた。けれど、いつでもすべてを透かして見るこの男が、皮肉も嘲笑も抜きにして口にした『愛してる』という言葉。

それが、不思議なほどストンと胸の奥に落ちてきた。

張り詰めていた絶望が、音を立てて和らいでいく。

エマは、彼の背中に「ありがとう」と伝えた。

シリウスからの返事はなかったが、その静寂は、先ほどまでのような冷たさを孕んではいなかった。

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