黎明の女神   作:浮月 愁

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黎明の女神 53話 決意

研究室の硬いベッドに身を横たえながら、エマはシリウスから感じた優しさとその後の真逆の冷酷な言葉の意味を紐解いていた。

 

シリウスは何としても今回の実験を完遂させたいのだ。エマが絶望に折れ、通常通りの方法で黎明の女神として役割を全うしてしまうこと。あるいは、最悪の結末として、彼女がバファマの地で命を絶ち、盤上から退場してしまうこと。それだけは、なんとしても避けたいのだろう。

 

けれど、彼の計画が実を結んだとしても、その先に待つのはエマが望んだ幸福ではない。セジュムとの永遠を求めて捧げてきたすべての努力は、残酷にも灰へと帰してしまった。

 

(……やるせない。けど……)

 

まぶたに乗せた氷嚢の冷たさが心地よく、張り詰めていた意識はいつの間にか眠りの深淵へと吸い込まれていった。

 

エマが次に目を覚ました時、研究室は静まり返っていた。

 

「……シリウス?」

 

主のいない室内。バファマ特有の琥珀色の光が、整然と並ぶビーカーやフラスコの曲面に反射し、宝石のように煌めいている。実験台の滑らかな金属には器具が影を落とし、時折、静寂を破るように薬品の泡が弾ける小さな音が響く。

 

かつて蹂躙された記憶から、ここは不気味で埃っぽい忌むべき場所だと思い込んでいた。けれど、今改めて見渡せば、ここは驚くほど静謐で、美しい秩序に守られた場所だった。

 

氷嚢の氷はすっかり溶け、生温くなっている。エマは身を起こすと、薬品棚のガラス扉を鏡代わりに、自分の顔を映した。

 

「良かった……腫れ、引いてる」

 

ふいにドアが開き、マグカップを手にしたシリウスが戻ってきた。

 

「あ、起きた? 飲む? 僕のだけど」

 

香ばしいコーヒーの匂い。けれどエマは小さく首を振った。シリウスは自身のデスクにカップを置くと、深くチェアに身体を沈める。

 

「……しばらくここにいなよ。セジュムが君の不在に狂って、渇望するまで、雲隠れしてればいい」

 

鼻で笑ってシリウスはコーヒーを飲む。

エマは、彼がなぜ自分をここに留まらせたのか、その真意をようやく理解した。突き放すような物言いの裏にある、不器用極まりない「助言」。彼の掴みどころのなさに、エマは思わず苦笑を漏らした。

 

「シリウス」

「何?」

「シリウスは研究の結実を求めてる。セジュムは神になりたい。私はセジュムと一緒にいたい。……全部は叶わない。だから、誰かが何かを妥協しなきゃいけない」

 

シリウスはカップを口に運びながら、ゆっくりとチェアを回してエマに向き直った。

 

「私、さっきまで風見台に行こうとしてたの。この世界で、死を選ぼうとしてた」

「……やば。引き止めて正解だったよ」

「うん。止めてくれてありがとう。危うく、誰の願いも叶わずに終わるところだった」

 

エマは、憑き物が落ちたような穏やかな微笑を浮かべた。

スッと深く息を吸い込み、緊張を胸の奥に押し込める。

 

「私、バファマに来てずっと不安だったんだ。こんな普通な女。誰からも愛されないかもしれない。愛されたとしても、それは神になるための建前で仮初めかもしれない」

 

晩餐室のテラスで、彼に胸中を吐露した日を思い出す。目の前の男は、あの時と同じ、射抜くような無機質な瞳でエマを見つめていた。

 

「そんな中で、セジュムから真っ直ぐに愛されて、不安だった分、依存しちゃった。勝手に期待して、セジュムはなんでも私の思い通りになるって思っちゃった。神の子はただの男で、黎明の女神の人形じゃないのに」

 

エマは一歩踏み出すと、頬を支えていたシリウスの手を取り、握った。彼は驚いて目を見開く。

 

「価値観や愛の比重が違ってても、セジュムから私への愛はきっと嘘じゃない。私たちは支配し、支配される関係じゃない。シリウス、ありがとう。セジュムともう一度話す決意が出来た」

 

シリウスは、一瞬だけ重たげにまぶたを伏せると、拒絶するようにエマの手を振り払った。

 

「……別に、僕は」

「『君たちの関係なんてどうでもいい』? その割には首を突っ込んでくるくせに。それはセジュムのため? それとも、私のことが心配だった?」

 

エマが悪戯っぽく小首を傾げると、シリウスは不快そうに舌打ちし、ゆっくりと立ち上がった。

 

「君は本当に、人の言葉の真意を読むのが下手だね。僕はただ、自分の実験が最高の結果で終わればそれでいいんだよ。……ヒヒッ、言っただろう。僕はもう、神になることさえ厭わないと」

 

冷酷な色を湛えた瞳で見下ろし、彼は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。後ずさるエマの腰が、実験台の冷たい縁に当たった。

 

「そうだ……」

 

シリウスは両手を台につき、エマを自身の身体と実験台の間に閉じ込める。

 

「セジュムに見せつけながらしようか? 僕たちの……」

 

エマの耳元に唇を寄せ、吐息とともにシリウスが低い声で囁く。ゾクリと耳から全身に向けて鳥肌が立つ。

ゆっくりと顔を離し、意地悪そうに口角を上げ、昏い笑みのシリウスと目が合った。

耳が熱くなりエマの心臓は一瞬跳ねるが、これは脅しではなく煽りだ。エマがシリウスを茶化したため、やり返そうとしているだけだ。ただの煽りのくせに不愉快なほどの色気。エマは煩わしそうに顔を背け、眉間を歪めた。

 

(子供みたいなやつだな……)

 

その瞬間。

 

「シリウス! やっぱり、どこ……にも……」

 

ノックも無しに研究室のドアが力強く開かれた。そこに居たのは髪も服も乱れ、いつもの穏やかさを失い、顔の青ざめたセジュムの姿だった。

 

「……は?」

 

シリウスはセジュムと目が合った瞬間、勝ち誇ったような、あるいは挑発的な笑みを浮かべ、小さく笑うとエマの肩に腕を回し、彼女を引き寄せた。

 

「見なよ。狂って渇望する男の姿」

 

身体の密着したエマとシリウスの姿は、言わずもがなセジュムの怒髪天を衝いたのだった。

 

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