ノックの音。シリウスは読んでいた古い書物に栞を挟むと、重い腰を上げてチェアから立ち上がった。
研究室のドアを開けると、そこには並んで立つエマとセジュムの姿があった。
シリウスは、弦を限界まで張り詰めたような二人の表情を交互に眺め、満足げに口角を歪めた。
「ヒヒッ……待ってたよ」
シリウスは二人を招き入れ、研究室の奥へと通した。いつもの丸椅子を差し出されたエマは、まるで重大な病名を宣告されるのを待つ患者のように、神妙な面持ちでそこへ腰を下ろす。
三人の間に重苦しい沈黙が流れる。誰が最初に沈黙を破るべきか探り合っていたが、やがてエマが自身の下腹部にそっと手を添え、耳まで真っ赤に染めながら、意を決して口を開いた。
「い、いま、ここ……私の中に、セジュムの……ッ」
「エマ、エマ! 言わなくていいです、シリウスは分かってますので!」
「えー、分からないな。セジュムの何? 最後まで詳しく教えてよ」
ニヤニヤと意地悪く顔を近づけるシリウス。セジュムは「それ以上言わせるものか」とばかりにエマの手を握って落ち着かせると、鋭い視線をシリウスへ向けた。
「エマの身体はまもなく神の子を産む準備が始まります。そして、この世界も……」
「僕のところに来たってことは、エマ。君はこのバファマに残る道を選んだ。それでいいんだね?」
シリウスの問いに、エマは迷いなく深く頷いた。
「ここまで、私もシリウスも必死に頑張った。その努力を無駄にしたくない。私の後に来る黎明の女神にも、失わなくていい希望があることを見せたい。……それに何より、セジュムとの、みんなとの思い出を失いたくない」
シリウスは安堵したようにチェアに深く背を預け、微かな微笑を浮かべた。それから彼は、これから訪れる「儀式」の全容を淡々と説明し始めた。
約24時間後、バファマは永い眠りに落ちるかのように闇に包まれる。
黄金色の黄昏が終わり、漆黒の夜の世界へと変貌するのだ。
空が割れ、天界から新世代の神を迎える使者が、光り輝く道と共に降りてくる。
バファマの塔の最上層、遮るもののない風の吹き抜ける場所で、セジュムとエマは待機し、そこで神の子を産み落とす。
本来であれば、そこで『深更(しんこう)の入口』と呼ばれる、エマが元いた世界へ繋がるゲートが顕現する。
セジュムは天界へと昇り、新しく生まれた神の子は独り塔を下る。
エマはそこで役目を終え、ゲートを潜り、元の世界へと戻る。それが本来のこの世界の理。
今回はエマが仮死状態となっているため、自らゲートを潜ることはできず、そのまま放置されるだろう。
使者が居なくなった後は、新しく生まれた神の子に塔下まで運んでもらうか、もしくはエマが目覚めるまでそこで待つか。シリウスが回収しに行くという手もあるが、非力なため、エマを担いで塔を下ることは極力したくないようだ。
「まあ、そこはいいや。……投薬は、バファマが完全に暗くなってからでいいだろう。前回、ヒメカが途中で目を覚ましてしまったのは、闇が訪れる前に打ってしまったせいだ。タイミングは僕が計る」
シリウスが説明を終えると、エマが何かを深く考え込んでいることに気づき、眉を上げた。
「何? まだ理解できないところでもあった?」
「……ううん。そうじゃなくて。まだ……結構、時間があるよね」
エマはそっとセジュムを見上げた。セジュムもまた、愛しげにエマを見つめ返す。そのあまりに親密な空気に、シリウスは毒気を抜かれたように腕を組み、足を組み替えた。
「……残りの時間をどう過ごそうが君たちの自由だけど、僕の目の前でそんな目配せをするのはやめてくれない? さっさと自分たちの部屋に戻りなよ」
「……エマ。何か、したいことがあるのですね?」
シリウスの卑俗な想像とは裏腹に、エマが別の「願い」を抱いていることを、セジュムは即座に見抜いていた。エマは嬉しそうに微笑み、力強く頷いた。
***
エマとセジュムは、まずジェルドの私室の扉を叩いた。
何度目かのノックで現れたジェルドは、眠たげに目を擦り、長い睫毛に覆われた瞳を細めていた。
「んん……」
「ごめんね、寝てた?」
「ああ……どうかしたのか……」
欠伸を噛み殺すジェルドに、エマは弾んだ声で「ついてきて」と促した。
「次は、レオール!」
レオールは浴場にいた。湯船に浸かってだらだらと過ごしていたところを、着衣のままのジェルドとセジュムが迎えに来たため、彼は驚愕して慌てて湯から飛び上がった。
急いで服を引っ掛け、脱衣所を出ると、そこには腕を組んで待つエマの姿があった。
「おぉ、エマ。オレになんか用か?」
「ついてきて!」
3人はエマの後ろを付いて4階から1階まで降りる。
「ん? なんだこれ」
「まあまあ」
「エマが楽しそうで何よりだ」
一行は晩餐室の前に辿り着いた。エマは扉の前でくるりと振り返り、3人を見渡す。
「ジェルド、レオール。もう少しでこのバファマに夜が来る」
その言葉の重みを瞬時に悟った2人は、ハッとした表情で息を呑んだ。
「最後に、みんなで楽しい思い出を作りたいの。……今日は、黎明の女神による、黎明の女神のための宴です。どうぞ、お入りください!」
わざと仰々しく、芝居がかった仕草でエマは恭しく頭を下げる。
扉を開け、晩餐室に足を踏み入れると、そこには巨大な食卓を埋め尽くすほどの酒とつまみが並んでいた。そしてその隅で、ひどく不機嫌そうに膝を抱えて椅子に座るシリウスの姿があった。
「シリウス!」
ジェルドが驚きと喜びの混じった声を上げた。シリウスがこうした場に顔を出すのは極めて稀だ。仲間外れにされているわけではなく、彼自身が研究室に引きこもり、群れることを嫌っていたからだ。
シリウスは、ジトッとした目で4人を一瞥した。
「……エマが、どうしても最後は全員で呑みたいってうるさいからね。仕方なくだよ」
シリウスが両手を上げ、呆れたように言い放つと、ジェルドとレオールは笑いながら彼の元へ駆け寄った。
「賑やかな宴になりそうですね」
セジュムが呟くと、エマはその隣で彼の脇腹を肘でつついた。
「……シリウスとも、ちゃんと仲良くしてよね」
セジュムは少しだけ困ったように首を傾げ、首元を軽く掻いた。
「……最大限の努力を、約束します」
素直になれないその回答に、エマはこらえきれず笑い声を零した。彼女はセジュムの手をしっかりと引き、賑やかな光に満ちた食卓へといざなうのだった。