黎明の女神   作:浮月 愁

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黎明の女神 57話 宴2

グラスがぶつかり合う澄んだ音が連なり、『黎明の女神の宴』が幕を開けた。

琥珀色の液体を透かし見ながら、エマは初めてこの地へ来たあの日を思い出していた。緊張と警戒が解けぬまま、この円卓の席に座ったあの日のことを。

 

「本当は逃げ出したい、帰りたいって思ってたんだけど、ジェルドとセジュムが優しく接してくれて、ホッとしたんだよ」

「んだよ、オレもいたじゃねーかよ! 忘れんな!」

 

レオールがワイングラスを掲げながら、抗議するようにエマを指さす。

 

「レオールは私に悪態ついて、すぐに潰れてたでしょ」

「ヒヒッ……目に浮かぶ」

 

シリウスが皮肉げに笑い、ウィスキーのグラスの中で氷を転がした。セジュムは懐かしそうに目を細める。

 

「エマの緊張が徐々にほどけていく姿を見て、私も安心しました」

「エマは酔うと少し大胆になる。今日も気をつけて呑むように」

 

ジェルドの茶目っ気のある忠告に、エマは心当たりがあるのか慌ててチェイサーの水を啜った。

 

卓上を揺らす琥珀の光。5人は重なる思い出を語り、楽しい時間は氷が溶けるようにゆるやかに過ぎていく。瞬く間に空のボトルが増え、真っ先にレオールがテーブルに突っ伏した。弾みでグラスが割れ、深紅のワインが溢れ出すと、セジュムとジェルドが手際よくその処理に回る。

 

その甲斐甲斐しい姿を一瞥し、シリウスがふいと背を向けた。その微かな拒絶の色が気になり、エマは彼の隣に腰を下ろした。

 

「……どうしたの?」

「いや……別に」

 

珍しく言葉を濁すシリウス。彼は背中を丸め、ボソボソとエマにだけ聞こえるような掠れた声で漏らした。

 

「レオールの酒が弱いのは、僕がアイコの身体で実験を繰り返したせいだと思っている。神の核に影響を与えるようなことをたくさんしたからね。だから、本当はレオールと酒の席であまり一緒になりたくない」

 

いつもの冷酷で不遜な仮面が剥がれ落ち、そこには罪悪感に身を縮める、ひとりの脆弱な男の姿があった。

 

(……よ、酔ってる)

 

見たこともない彼の弱々しさにエマは驚き、思わず声を上ずらせる。

 

「……大丈夫だよ。レオールはそんなこと気にしてないし。それに、もう実験は終わったんでしょう?」

「ああ、それなんだけどさ……」

 

シリウスは自身の膝に頭を乗せ、潤んだ瞳でエマを上目遣いに見据えた。

 

「――バファマで『普通の子供』を妊娠できるか、実験してみたくない?」

 

ドクン、と心臓が跳ね上がった。

 

「え、え……?」

「理屈では不可能だ。君の生理は止まっているし、排卵もしない。でも、それを促す薬なら僕が作れる。……もっとも、着床したとしても細胞分裂は途中で止まるだろうね。ここはバファマだから。実験しがいがあるだろ。……ねえ、楽しそうだと思わない?」

 

抑揚のない声で語るシリウスに、エマは「酔った男の戯言」だと自分に言い聞かせ、適当に相槌を打つ。けれど、エマが本気にしていないことを悟ったのか、シリウスは強引に彼女の手を握りしめた。

 

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」

 

この距離をセジュムに見られたら。焦ったエマはシリウスの手を振り払った。

 

「わかった、わかったから! お水を持ってくるね」

 

立ち上がろうとしたエマの手を、シリウスはもう一度強く掴んだ。

 

「……僕の助手になってよ。約束だ」

 

強引にエマの小指を自身の小指と絡ませる。指切り。子供のようなやり取りにエマは少し笑って指を解く。

 

「酔ってるよ」

「僕は酔ってない」

 

シリウスは拗ねるように顔を背け、グラスに残ったウィスキーを煽るように飲み干した。エマは返答に窮し、逃げるようにセジュムの元へ駆け寄って片付けを手伝った。

 

 

レオールを晩餐室の隅で眠らせ、シリウスとセジュムが食器を下げにキッチンへ向かう。

頬を赤らめたジェルドが、ふらりとエマの隣へやってきた。

 

「……もうすぐエマやセジュムと、お別れかと思うと。……寂しくなる」

 

エマは複雑な微笑みを返した。「実験」のことは、ジェルドたちには伏せてある。希望を持たせて失敗した時の残酷さを恐れたからだ。

 

「俺にとって、初めての黎明の女神がエマで本当に良かった」

 

その眩いばかりの笑顔に、嘘はない。ふと、エマは禁断の仮定を口にしてみたくなった。もし、遊戯室であの日、ジェルドを選んでいたら——。

 

「もし、もしもの話。私がジェルドと、このバファマで『永遠に一緒にいたい』って願っていたら……なんて答えた?」

 

ジェルドはすぐさま穏やかな笑顔で答えた。

 

「……嬉しいが、それは無理な相談だ。ここはバファマ。俺は、神にならなきゃならない」

 

迷いのないその回答に、エマは思わず吹き出した。彼もまた、セジュムと同じなのだ。

 

「ふふ、ありがとう。ジェルドは本当に優しいね」

 

笑うエマを見て、ジェルドはつられて微笑み、その頭を優しく撫でた。

 

宴を閉じる潮時だった。キッチンから、シリウスとセジュムがどこか楽しげに談笑しながら戻ってくる姿を見て、エマは心の底から救われた気持ちになった。

長い歳月を共に過ごしてきた彼らに、最後くらいは、わだかまりのない笑顔を交わしてほしかったから。

 

「じゃあ、これでお開き! 本当にありがとう」

 

エマが丁寧に頭を下げる。

ジェルドはセジュムの胸を軽く叩き、「今だけは許せ」と断ってから、エマを優しく抱きしめた。

 

「今まで、ありがとう。……楽しかった」

 

エマもその背中に腕を回し、ギュッと抱き返す。肩越しに見えたセジュムは、嫉妬ではなく、慈しむような穏やかな表情で二人を見守っていた。

シリウスがジェルドの背を叩き、促す。

 

「戻るぞ。……じゃあ、また後で」

 

二人の背中が晩餐室の向こうへ消えていく。

まだ、バファマの空に夜は訪れない。

エマとセジュムは、顔を見合わせると、どちらからとも無く、セジュムの私室へと向かった。

最後の一時を、甘美な熱で埋め尽くすために。

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