黎明の女神   作:浮月 愁

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黎明の女神 58話 おやすみ、また後で

天蓋のベッドで微睡んでいると、セジュムの確かな手応えがエマの肩を揺らした。

重い瞼を持ち上げた先には、墨をぶちまけたような濃密な暗闇が広がっていた。バファマの象徴であった黄金色の黄昏は消え去り、まるで異界へ放り出されたような錯覚に陥る。けれど、隣でランタンを掲げるセジュムの横顔が、ここが紛れもない現実であることを繋ぎ止めていた。

 

「真っ暗……」

「エマ。服を着て。シリウスが待っています」

 

二人はシリウスの研究室へと向かった。かつては眩いばかりの光に満ちていた廊下を、ランタンの心細い灯りだけを頼りに進む。

闇そのものが怖いのではない。平穏が終わり、未知の儀式が始まるという非日常の重圧に、エマは堪らずセジュムの腕を強く掴んだ。

 

「大丈夫ですよ」

 

そう告げるセジュムの声も、心なしか緊張を孕んで硬い。

研究室の扉を開けると、そこはモニターの冷たい光とランプの灯火に彩られた、異質な空間だった。高揚感に声を上ずらせ、手ぐすねを引いて待つシリウスの姿は、この不気味な密室に酷く溶け込み、エマの背筋をひゅっと冷やした。

 

けれど、エマにもう迷いはなかった。セジュムのことは、悔いがないほど愛し抜いたという自負がある。

言葉を交わす必要もなかった。セジュムと視線を合わせると、彼は深く、静かに頷いた。その瞳に宿る確かな情熱に、エマは愛し抜かれたのだという無上の幸福感で胸を満たした。

 

「シリウス。――お願い」

 

ランタンの橙色の灯りの下、シリウスがエマの腕に消毒綿を滑らせた。ひんやりとした感触が意識を研ぎ澄ませる。手慣れた動きで構えられた注射器が、細い針先を迷いなく皮膚へと沈めた。

軽い圧迫感と共に、薬液が腕の内側へと重く広がっていく。針が抜かれ、消毒綿で押さえられる感触を最後に、シリウスが短く息を吐いた。

 

「おやすみ。また後で」

 

セジュムが、エマの唇に最後にして最上の口付けを落とした。

 

「ありがとうございます、エマ。永遠に……貴女を愛しています」

 

その言葉を遠くに聞きながら、エマの意識は急速に深淵へと沈んでいった。

 

***

 

次に目を開けた時、視界を支配していたのは、覚えのある薄暗闇だった。

意識が霞に包まれている。けれど、この空気の重さ、この閉塞感には、見覚えがあった。

 

(天蓋のベッドの……中?)

 

身体が鉛のように重だるい。エマはもう一度瞼を閉じ、大きく息を吐き出した。

その直後、閉じた瞼の裏を突き刺すような、暴力的な光が降り注いだ。驚いて目を開けると、その光の正体が懐中電灯の無機質な明かりであることに気づく。

 

「……え?」

 

あまりの眩しさに顔を歪め、目を細める。

 

「――こんなところで女の子が一人で寝てたら危ないよ。え?」

 

目の前に立っていたのは、青い制服の上にジャンパーを羽織った、40代ほどの警察官だった。

 

「え……? あ、え……?」

 

掌を突いた地面の感触。それは柔らかなシーツではなく、湿った冷たい芝生。次第に心臓が早鐘を打ち、手足の先から急速に体温が奪われていく。

起き上がり、狂ったように辺りを見回す。ここは、あの公園の小道だ。汚れた公衆トイレの裏。……バファマではない。

 

「お酒飲んでたのか? 未成年じゃないよな。名前は? 身分証、持ってる?」

 

警察官が屈み込み、事務的な口調で次々と問いを投げかけてくる。エマは状況を飲み込めぬまま、激しい震えを抑えるように己の身体を抱きしめた。

 

(失敗……したんだ。……戻っちゃったんだ)

 

元の世界。何一つ救いのない、この現実。

真っ青な顔で硬直するエマを、警察官が不審そうに覗き込む。

 

「おい、聞いてるか? 身分証を――」

「……て……」

「え?」

「嫌だ!! 私を、元の世界に戻して! バファマに戻して!!」

 

縋り付くように警察官の服を掴み、エマは絶叫した。

すでにエマにとって『元の世界』とはバファマなのだ。強く自覚すると奥歯を噛み締めた。

 

「みんなのところに戻りたい! シリウスが待ってるの! お願い、お願いだから、私をバファマに返して!!」

「……君、なんか薬やってない?」

 

警察官の目が険しくなり、エマの袖を強引に捲り上げた。

 

「……注射痕あり。……こちらイリエノ交番。薬物使用の疑いがある成人女性を保護。興奮状態にあり、自己制御不能。応援を要請する」

 

無線から流れる冷徹な交信。慈悲など欠片もない現実。

エマは力なく芝生に手をつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。涙が溢れて止まらず、視界はぐちゃぐちゃに溶けていく。

 

「おいおい、大丈夫か」

 

そう言って、警察官はエマの脇に手を差し入れ、その身体を抱き起こした。そして、耳元でヒヒッと笑いながら囁いたのだ。

 

「――また、ブス顔になるぞ」

 

(え……)

 

警察官の声色が一瞬、別人へと変わる。

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