天蓋のベッドで微睡んでいると、セジュムの確かな手応えがエマの肩を揺らした。
重い瞼を持ち上げた先には、墨をぶちまけたような濃密な暗闇が広がっていた。バファマの象徴であった黄金色の黄昏は消え去り、まるで異界へ放り出されたような錯覚に陥る。けれど、隣でランタンを掲げるセジュムの横顔が、ここが紛れもない現実であることを繋ぎ止めていた。
「真っ暗……」
「エマ。服を着て。シリウスが待っています」
二人はシリウスの研究室へと向かった。かつては眩いばかりの光に満ちていた廊下を、ランタンの心細い灯りだけを頼りに進む。
闇そのものが怖いのではない。平穏が終わり、未知の儀式が始まるという非日常の重圧に、エマは堪らずセジュムの腕を強く掴んだ。
「大丈夫ですよ」
そう告げるセジュムの声も、心なしか緊張を孕んで硬い。
研究室の扉を開けると、そこはモニターの冷たい光とランプの灯火に彩られた、異質な空間だった。高揚感に声を上ずらせ、手ぐすねを引いて待つシリウスの姿は、この不気味な密室に酷く溶け込み、エマの背筋をひゅっと冷やした。
けれど、エマにもう迷いはなかった。セジュムのことは、悔いがないほど愛し抜いたという自負がある。
言葉を交わす必要もなかった。セジュムと視線を合わせると、彼は深く、静かに頷いた。その瞳に宿る確かな情熱に、エマは愛し抜かれたのだという無上の幸福感で胸を満たした。
「シリウス。――お願い」
ランタンの橙色の灯りの下、シリウスがエマの腕に消毒綿を滑らせた。ひんやりとした感触が意識を研ぎ澄ませる。手慣れた動きで構えられた注射器が、細い針先を迷いなく皮膚へと沈めた。
軽い圧迫感と共に、薬液が腕の内側へと重く広がっていく。針が抜かれ、消毒綿で押さえられる感触を最後に、シリウスが短く息を吐いた。
「おやすみ。また後で」
セジュムが、エマの唇に最後にして最上の口付けを落とした。
「ありがとうございます、エマ。永遠に……貴女を愛しています」
その言葉を遠くに聞きながら、エマの意識は急速に深淵へと沈んでいった。
***
次に目を開けた時、視界を支配していたのは、覚えのある薄暗闇だった。
意識が霞に包まれている。けれど、この空気の重さ、この閉塞感には、見覚えがあった。
(天蓋のベッドの……中?)
身体が鉛のように重だるい。エマはもう一度瞼を閉じ、大きく息を吐き出した。
その直後、閉じた瞼の裏を突き刺すような、暴力的な光が降り注いだ。驚いて目を開けると、その光の正体が懐中電灯の無機質な明かりであることに気づく。
「……え?」
あまりの眩しさに顔を歪め、目を細める。
「――こんなところで女の子が一人で寝てたら危ないよ。え?」
目の前に立っていたのは、青い制服の上にジャンパーを羽織った、40代ほどの警察官だった。
「え……? あ、え……?」
掌を突いた地面の感触。それは柔らかなシーツではなく、湿った冷たい芝生。次第に心臓が早鐘を打ち、手足の先から急速に体温が奪われていく。
起き上がり、狂ったように辺りを見回す。ここは、あの公園の小道だ。汚れた公衆トイレの裏。……バファマではない。
「お酒飲んでたのか? 未成年じゃないよな。名前は? 身分証、持ってる?」
警察官が屈み込み、事務的な口調で次々と問いを投げかけてくる。エマは状況を飲み込めぬまま、激しい震えを抑えるように己の身体を抱きしめた。
(失敗……したんだ。……戻っちゃったんだ)
元の世界。何一つ救いのない、この現実。
真っ青な顔で硬直するエマを、警察官が不審そうに覗き込む。
「おい、聞いてるか? 身分証を――」
「……て……」
「え?」
「嫌だ!! 私を、元の世界に戻して! バファマに戻して!!」
縋り付くように警察官の服を掴み、エマは絶叫した。
すでにエマにとって『元の世界』とはバファマなのだ。強く自覚すると奥歯を噛み締めた。
「みんなのところに戻りたい! シリウスが待ってるの! お願い、お願いだから、私をバファマに返して!!」
「……君、なんか薬やってない?」
警察官の目が険しくなり、エマの袖を強引に捲り上げた。
「……注射痕あり。……こちらイリエノ交番。薬物使用の疑いがある成人女性を保護。興奮状態にあり、自己制御不能。応援を要請する」
無線から流れる冷徹な交信。慈悲など欠片もない現実。
エマは力なく芝生に手をつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。涙が溢れて止まらず、視界はぐちゃぐちゃに溶けていく。
「おいおい、大丈夫か」
そう言って、警察官はエマの脇に手を差し入れ、その身体を抱き起こした。そして、耳元でヒヒッと笑いながら囁いたのだ。
「――また、ブス顔になるぞ」
(え……)
警察官の声色が一瞬、別人へと変わる。