石造りの冷たい階段を一段ずつ降り、エマは浴場へと足を踏み入れた。
そこには、巨大な円形の浴場が広がっていた。高い天窓から差し込む金色の陽光が、立ち昇る濃密な湯気に溶け合い、甘い花の香りが胸の奥まで満たしていく。乳白色の湯面はゆらゆらと生き物のように波打ち、視界を覆う白い霧が現実感を奪っていく。その非現実的な美しさに、エマは思わず小さく吐息をついた。
幸い、深い湯煙のおかげで、既に湯に浸かっているレオールの姿はほとんど見えない。エマは胸を撫で下ろした。
「……レオールさん?」
湯船の奥から、くぐもった低い声が返ってきた。
「……おぉ」
声の反響からして、彼はかなり奥の方に陣取っているようだ。この視界の悪さと白濁した湯ならば、湯浴み着など不要だったかもしれない。エマはそっと湯船の縁に腰を下ろし、つま先から湯に滑り込ませた。じんわりと身体を包み込む温度は、まさに至福だった。
「はぁ、気持ちいい……。ねえ、レオールさんはお風呂好きなの?」
「……嫌いな奴がいんのかよ」
返ってきたのは、相変わらずの不機嫌な響きだ。先ほど手を振り払ったことへの苛立ちが、まだ尾を引いているらしい。そういえば、勢いで「バカ」と口走ってしまった記憶が蘇り、エマは少しだけ反省する。
「二日酔いは大丈夫? もしかして、意外とお酒弱かったりする?」
「うるせえな。……黙って浸かってろ」
口調こそ荒っぽいが、ぶっきらぼうでも会話には付き合ってくれる。エマは次第に緊張を解き、気楽な調子で言葉を続けた。
「あのね、二日酔いの時はお味噌汁を飲むといいんだよ。私のいた世界では定番の食べ物なんだけど」
提案に、レオールは少しの間をおいて、ぽつりと零した。
「……味噌汁、か。ああ、昔、作ってもらったことがあったか。もう、味も忘れちまったけどな」
「本当? じゃあ、今度私が作ってあげようか?」
その瞬間、レオールの返答がピタリと途絶えた。
静まり返った空間に、湯が波打つ音だけが不気味に響く。
「……レオールさん?」
急な沈黙に不安がよぎる。湯あたりでもしたのか、それともまさか溺れているのでは。
エマは意を決して立ち上がり、重たい湯煙を掻き分けながら、声のした奥の方へと歩み寄った。霧の向こうに、湯船の縁に頭を預けて脱力しているレオールの輪郭が、かろうじて浮かび上がる。
「レオールさん、大丈夫?」
エマがすぐそばまで歩み寄り、その顔を覗き込んだ刹那、レオールは弾かれたように目を見開いた。
瞳は激しく揺れ、エマの顔を映し出しているはずなのに、彼の唇からこぼれたのは全く別の、知らない女の名前だった。
「――ヒメカ」
その声には、押し殺した苦悶と、狂おしいほどの切望が混じり合っていた。痛々しいまでの響きに、エマは息を呑む。
「えっ……? ヒメカ?」
問いかけられ、レオールは一気に現実に引き戻されたように動揺を見せた。
「……じゃねえ。……悪りぃ、間違えた」
彼は気まずそうに目を泳がせると、エマから逃げるように背を向けた。
「ヒメカって……前の、黎明の女神?」
レオールの逞しい背中がピクリと強張る。返事はないが、その反応が何よりの肯定だった。
「あ……もしかして、そのヒメカさんがお味噌汁を作ってくれた、とか?」
エマが推測を口にすると、レオールは深く、重い溜息を吐き出して、ゆっくりとエマの方へ振り返った。
「……女ってのは、やたらと勘が鋭い時があるよな」
苦々しい表情を浮かべた彼は、そのまま湯を割って勢いよく立ち上がった。ギリギリのところで下半身から目を逸らし、エマは慌てて下を向く。溢れた湯が波打ち、彼はそのまま湯船の縁に腰を掛けたようだった。
「きゅ、急に立たないでよ!」
「……ヒメカは、オレが愛した前の黎明の女神だ」
レオールの声が、僅かに震えていた。
「オレは、あの女を信じていた。オレが選ばれて、新しい神になるんだって信じて疑わなかった。……なのに、あの女はファズを選んだ。オレを、裏切りやがったんだ」
湯煙の向こうから届く告白は、感情を押し殺している分、剥き出しの傷跡のように痛々しかった。聞いたことのない名前、ファズ。それが、彼から愛する人を奪った男の名なのだろうか。
「黎明の女神ってやつは、そうやって平気で裏切る生き物なんだ。どんなに口で愛してると囁いても、何度も身体を許し合ったとしても……最後には……」
そこで言葉が途切れ、沈黙が落ちた。
エマは無言で彼の背中を見つめていた。結婚を誓い合った恋人が、土壇場で別の男に寝取られたと考えたらわかりやすい。しかも、神になるという唯一無二の椅子も奪い取られた。……酷い女だ。
そこまで考えて、エマは自分自身もまた「黎明の女神」であることを思い出した。
「なるほどね。……だから最初から、私を突き放すような態度ばかり取ってたわけね。また裏切られるのが怖いから。はいはい、納得した」
理解はしたし、同情もできる。けれど、それとこれとは話が別だ。
理不尽な扱いに憤慨したエマは、自身も湯の中から立ち上がり、レオールの顔を真正面から見据えた。
「だからって、ブスブスブスブス言うことないでしょ! すっごく失礼だし、私、ずっと我慢してた。 レオールは確かに可哀想だけど、私はそのヒメカって女とは別だか……ら……」
レオールの瞳が、驚きに大きく見開かれた。エマのあまりの気迫に圧されたのか、彼は僅かに身体を引き、たじろぐ。
「あ、ごめん……」
「お……おぅ。そうだよな。……そうだな。悪かった」
彼は気圧されたまま、視線を気まずそうに下へと落とした。……そして、そのまま固まった。
エマの視線が自分の足元へと向かう。濡れて肌にぴったりと張り付いた湯浴み着が、胸元の起伏や身体のラインを露骨に、生々しく浮き彫りにしていた。
レオールは隠そうともせず、その光景をまじまじと凝視している。
エマの顔から一気に火が噴き出した。彼女は悲鳴のような声を上げ、首まで一気に湯の中に沈んだ。
「見るなっ!」
エマは唇を震わせながら、逃げるように湯船を飛び出した。そのままレオールに背を向け、バチャバチャと派手な足音を立てて脱衣所へと駆け込んでいく。
レオールは、湯煙の中に消えていくその華奢な後ろ姿を、少しだけ口角を上げて、眩しそうに眺めていた。