水簾洞のカツ丼   作:タロットゼロ

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本編の構想中に。思いついて書いてみました。好きなんですよ原作の空白の時間の一時を妄想するのが


水簾洞のカツ丼

 

 

瓦礫と夜気の匂いが残る路地で、緑谷は立ち尽くしていた。

限界はとうに越えている。

それでも足を止められなかった――その背後から、

「相変わらず、無茶な顔してるね」

聞き覚えのある、気の抜けた声。

振り返った瞬間、緑谷は息を呑んだ。

「……孫、さん?」

ふらりと立つ小柄な影。

戦闘の緊張感とは無縁の、いつもの調子。

「来ちゃだめだ」

緑谷は即座に言った。

「巻き込みたくない。今は……危険で……」

玄麗は首をかしげる。

「僕を誰だと思ってるんだい?」

軽く肩をすくめて、続けた。

「今の時点では、まだ僕のほうが強いよ」

言い切りだった。

差し伸べられる、小さな手。

「いい風呂場知ってるんだ。来なよ」

――抗う理由は、もう残っていなかった。

白い雲が夕焼け空を切る。

緑谷は思わず玄麗にしがみついていた。

「ご、ごめん……!」

「気にしないで。人間は觔斗雲に乗れないんだ」

背中におぶさり女子に身体を密着させるそんな姿のまま、雲は音もなく進んでいく

やがて雲を抜けた先――富士山の麓の樹海にある穴に2人は入って行った

視界いっぱいに広がる、常識の外側の景色。

「……ここ、は……?」

「花果山、水簾洞。僕の実家だ、、、意外に思うかもしれないけど。西遊記は実話だし斉天大聖孫悟空は実在するんだよ。」

玄麗は淡々と告げる。

「オール・フォー・ワンだろうが、なんだろうが……

ここには来れないよ」

雲が静かに下降し、地に足がつく。

岩と水と、静けさ。

世界から切り離されたような場所。

玄麗は歩き出し、洞の前へ進む。

「パーパ」

空間に向かって、気軽に声を投げる。

「前に話してたやつ連れてきた。

取り敢えず、風呂に入れさせるよ」

返事はない。

それで十分だというように、玄麗は頷く。

露天温泉の前で足を止め、振り返った。

「服はその辺に置いときな」

それだけ言って、踵を返す。

 

その背中は、もう振り返らない。

緑谷は湯気の向こうで、しばらく立ち尽くしていた。湯に肩まで沈めた瞬間、緑谷の喉が小さく鳴った。

熱い。

けれど、それがいい。

張り詰めていたものが、じわじわと溶けていく。

湯気の向こうで、視界が滲むのを誤魔化すように、緑谷は顔を伏せた。

――安心、してしまった。

その事実が、少し怖くて。

それでも、涙は止まらなかった。

しばらくして、背後で水音とは違う気配がした。

振り向くと、数匹の猿がいた。

皆、浴衣を丁寧に抱え、ナックルウォークで近づいてくる。

驚く間もなく、猿たちは浴衣を湯船の縁にそっと置き、

代わりに緑谷の汚れ切ったコスチュームを抱えると、

きゃっ、きゃっと短く鳴いて、洞の奥へ走り去っていった。

「……あ」

もう少し浸かっていたい気持ちは、確かにあった。

だが、着替えが用意され、コスチュームも持っていかれた今、

なぜか気分が切り替わってしまった。

湯から上がり、用意された浴衣に袖を通す。

柔らかい。

不思議と、身体より先に心が温まる。

水簾洞の玄関に戻ると、視界に飛び込んできたのは――

岩の上だった。

高さ、ざっと四メートルほど。

その頂で、玄麗が桃を齧っている。

無造作に、気楽に。

岩の周囲には、十を軽く超える桃の種が散乱していた。

(……長風呂、だったんだ)

気づいた玄麗が、こちらを見下ろす。

「ごめんな」

どこか照れたように、言う。

「サルたちが気になって、ゆっくり入れなかったかな」

最後の一口を口に放り込むと、

桃の種をぽいっと無造作に投げ捨てる。

次の瞬間、玄麗は岩から軽く飛び降りた。

音もなく着地し、いつもの距離で立つ。

その表情は、いつも通り穏やかで、

だからこそ――ここが“守られた場所”なのだと、緑谷は実感するのだった。

 

「……飯にしようか」

玄麗はそれだけ言うと、踵を返して水簾洞の奥へ向かった。

すいれんだの中へ、迷いのない足取りで二歩、三歩。

そしてふと立ち止まり、振り返る。

「来なよ」

それだけ。

理由も説明もなく、促すだけ促して、また前を向く。

緑谷が一瞬遅れて歩き出す頃には、玄麗の背中はもう洞の闇に溶けかけていた。

ズンズンと進み、やがて大きな扉の前に立つ。

高さ二メートルはある、両開きの石の扉。

玄麗は片手でそれを押し開いた。

ぎ、と低い音。

次の瞬間――

洞内に、香ばしい匂いが一気に広がった。

「……あ」

思わず声が漏れる。

揚げ油の香り。

甘辛いタレ。

空腹を、いや、心そのものを直撃する匂い。

玄麗は振り返らずに言った。

「カツ丼で、良いんだよね?」

確認というより、当たり前の前提みたいな口調だった。

緑谷は喉を鳴らし、ただ一言、頷いた。

「……はい」

それで十分だというように、玄麗は中へ進む。

その背中を追いながら、緑谷は思った。

(……戦場じゃない場所で、

誰かと“飯にしよう”って言われたの、いつぶりだろう)

香りに包まれた水簾洞の奥で、

ようやく――身体だけじゃなく、心も休める時間が始まろうとしていた。

 

食卓に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

広い。

だが、無駄はない。

岩と木で組まれた質実な空間の中央に、どっしりとした卓が据えられている。

その主座にいたのは――

赤髪。

赤い作務衣。

精悍な顔立ちに、黄金の瞳。

年の頃は三十代後半ほどだろうか。

人の姿をしているが、どこか“サル”を思わせる荒々しさと、圧倒的な存在感。

無理に言葉にするなら――

かっこいいサルのような男。

頬杖をついたまま、面倒くさそうに口を開いた。

「おっせぇな。待ちくたびれたぞ」

低く、よく通る声。

その名を、隣に座る女性がが短く呼ぶ。

「……悟空」

たしなめるように、静かな声。

その声の主、

隣に座る女性が、穏やかに微笑む。

黒髪のショートボブ。

白い作務衣が驚くほどよく似合っていた。

もし――

菩薩がこの世に現れるとしたら、

きっと、こんな人なのだろう。

そう思わせる、不思議な安心感。

女性は緑谷に視線を向け、柔らかく頭を下げた。

「いらっしゃい。緑谷くん、というんだったかな?」

その声だけで、

胸の奥に残っていた緊張が、すっと溶けていく。

緑谷は慌てて背筋を伸ばし、深く頭を下げた。

「は、はい……!

緑谷出久です。今日は……その……」

言葉に詰まる。

玄麗は、そんな様子を見て肩をすくめた。

「堅くならなくていいよ。

ここは“戦場”じゃない」

そう言って、空いた席を指差す。

「ほら、冷める」

卓の上には、湯気を立てるカツ丼が並んでいた。

悟空はにやりと口角を上げる。

「ま、飯食ってからだな。

話はそれからでいい」

菩薩のような女性は自分を玄嬢と名乗り、くすりと笑った。

「緊張するでしょうけど、どうぞごゆっくり」

水簾洞の奥。

誰にも追われない場所で、

緑谷は初めて“家族の食卓”に迎え入れられた。

 

カツ丼を、半分ほど平らげたあたりだった。

箸の音が一瞬止まり、玄麗が視線を落としたまま口を開く。

「……緑谷」

声は低く、静かだった。

「食べながらでいいから、聞き流してほしい。

今から話すことは、A組とは関係ない。僕の、勝手な独り言だ」

緑谷は箸を持ったまま、息を詰める。

玄麗は、湯気の立つ丼を見つめたまま続けた。

「さっきさ、巻き込みたくない、とか言ってたよね」

責める調子ではない。

確認するような、淡々とした声音。

「それが雄英に戻らない理由なんだろうけどさ……」

そこでようやく顔を上げ、緑谷を見る。

黄金の瞳ではない。

いつもの、少し気だるげな目。

「雄英や、A組ってのは――

そんな“腑抜け”の集まりなのかい?」

言葉は強い。

けれど、声は荒れていなかった。

緑谷の喉が鳴る。

「……ち、違います」

即答だった。

玄麗は何も言わず、続きを促すように箸を動かす。

「みんな……強いです。

怖くても、逃げたくても、それでも前に出る人たちです」

言葉が、少しずつ熱を帯びていく。

「だから……だから、巻き込みたくなかったんです。

失いたくなかった」

玄麗はふっと息を吐いた。

「……なるほどね」

それだけ言って、丼に目を落とす。

「じゃあさ」

箸で一粒、米をすくいながら。

「君が今やってることは、

“守ってる”つもりで、

実は“信じてない”ってことにならない?」

緑谷は、言葉を失った。

玄麗は淡々と続ける。

「一人で背負って、一人で壊れて、

それで誰も巻き込まなかったって言える?」

視線が、再び緑谷に向く。

「ヒーローってさ、

強いから立つんじゃなくて、

立ち続ける仲間がいるから強くなるんじゃないの?」

少し間を置いて、玄麗は肩をすくめた。

「……まぁ、

僕が言える立場でもないんだけどさ」

そう言って、最後の一口をかき込む。

「でもね」

箸を置き、静かに言った。

「君が信じてる“みんな”は、

君が思ってるより、ずっとしぶといよ」

食卓には、再び箸の音だけが戻った。

けれど緑谷の胸の奥では、

何かが、確かに揺れ始めていた。

 

「……とっ」

玄麗は、少しだけ気まずそうに頭を掻いた。

「つまんないこと言ったね。

冷めないうちに、食べてほしいな」

ふっと、いつもの軽さが戻る。

「マーマがカツ丼作るなんてさ、

十年に一度あるかないかの――めったにお目にかかれないレア物なんだぜ」

緑谷は一瞬きょとんとして、

次の瞬間、慌てて箸を動かした。

「そ、そうなんですか……!」

その様子を見て、玄麗は満足そうに頷く。

そして自分の丼を一気にかき込んだ。

迷いも余韻もない、豪快な食べっぷり。

空になった丼を置くと、両手を合わせて。

「ごちそうさま」

短く、はっきりとした声。

気づけば、悟空の丼もとっくに空だ。

玄麗はそれを当然のように重ねて持ち上げ、

立ち上がりながらちらりと悟空を見る。

「……」

悟空は何も言わず、にやりと笑っただけだった。

玄麗はそのまま踵を返し、

丼を抱えて奥へと下がっていく。

食卓には、

湯気の残り香と、

ほんの少し軽くなった空気が残った。

緑谷は、箸を動かしながら思う。

(……怒られたわけじゃない)

(でも、逃げ道も、許された気もしない)

それでも――

この場所に連れてこられた意味だけは、

はっきりと胸に残っていた。

カツ丼は、まだ温かかった

 

事の起こりは、夜だった。

悟空と玄嬢が並んで立ち上がり、

「先に休むよ」

と告げて奥へ向かうのを、玄麗は見送った。

洞の中は静まり返り、

昼間の湯気や食事の匂いも、すっかり落ち着いている。

(さて、僕も風呂入って寝るか)

そう考えた、その時だった。

――客間。

一瞬で、気づいてしまった。

「……あ」

水簾洞に、客間がない。

正確に言えば、“用意していない”。

来客そのものが、ほとんどあり得ない場所なのだから。

玄麗は小さく舌打ちし、居間に戻った。

浴衣姿の緑谷が、少し居心地悪そうに座っている。

「緑谷」

声をかけると、緑谷は顔を上げた。

「今日は……僕の部屋で寝なよ」

一瞬の沈黙。

「えっ!? い、いえ! ぼ、僕はここで――」

そこまで言わせてから、玄麗はぴしりと言った。

「客間を用意してなかった僕たちが悪い。

でもさ」

一歩、距離を詰める。

「僕に恥をかかせるのかい?」

緑谷が言葉を失う。

「客さんを居間になんて寝かせられるわけないだろ」

語気は強いが、怒っているわけではない。

当たり前のことを説明しているだけだ。

玄麗は腕を組み、淡々と続ける。

「良いかい、緑谷。

僕は家主側、緑谷は客」

指を一本立てる。

「客を“床で寝かせた”なんて、

水簾洞の誇りが許さないんだよ」

もう一本。

「それに、客は基本、

家主側が提供した寝床で寝るもんだ」

最後に、少しだけ肩をすくめた。

「これは好意じゃない。

家の決まり」

緑谷はしばらく固まっていたが、

やがて小さく息を吐いた。

「……分かりました」

頭を下げる。

「じゃあ……お言葉に甘えます」

玄麗はそれを聞いて、ようやく満足そうに頷いた。

「そうして。

でないと、僕が落ち着いて眠れない」

そう言って、踵を返す。

洞の奥へ向かうその背中は、

少しだけ誇らしげだった。

水簾洞にとって――

客を正しく迎えることは、戦いと同じくらい大事なことなのだから。

 

案内された部屋は、幸か不幸か――

雄英の寮と、ほとんど変わらなかった。

広くも狭くもない空間。

床の隅に、無造作に置かれた小さな鉢植えが二つ。

あとは簡素な寝台があるだけ。

装飾も、余計な気配もない。

拍子抜けするほど、生活のためだけの部屋だった。

「……」

緑谷が辺りを見回していると、玄麗は入口で立ち止まり、

「ほんじゃ、おやすみ」

それだけ言って、振り返らずに扉を閉めた。

洞の奥へと去っていく足音が、すぐに聞こえなくなる。

残された静けさの中で、緑谷はゆっくりと寝台に腰を下ろした。

柔らかい。

きちんと整えられた、温かい寝床。

久しぶりの感触に、胸の奥がじんわりと緩む。

色々なことがあった。

考えなければならないことも、山ほどある。

それでも――

いつぶりかの安心感に、

思春期の男子らしい余計な思考が浮かぶよりも早く、

瞼は、自然と重くなった。

洞の静寂に包まれながら、

緑谷はそのまま、深い眠りへと落ちていった。

追われる夢も、戦う夢もない。

ただ、久しぶりに――

守られた場所での眠りだった。

 

翌朝。

時刻は六時頃だった。

よく眠ったはずなのに、身体の奥にだけ、奇妙な疲れが残っている。

筋肉痛とも違う、もっと深いところに引っかかるような感覚。

(……なんだろう)

緑谷は首を傾げつつ寝台を抜け出し、

朝の空気を吸おうと、水簾洞の外へ向かった。

そして――外に出た瞬間、足が止まる。

そこにあった光景は、

一瞬、理解が追いつかないものだった。

巨大な影。

山のような体躯。

金色の瞳を持つ――大猿の玄麗。

だが、その大猿が。

悟空の前で、完全に翻弄されていた。

「……え?」

緑谷の喉から、かすれた声が漏れる。

大猿の腕が振り下ろされる。

岩を砕くはずの拳。

だが悟空は、跳んだ。

信じられないほど軽やかに宙へ舞い、

その拳を紙一重でかわす。

次の瞬間――

悟空は大猿の腕に着地し、そのまま駆け上がった。

「クソッ!」

大猿の怒声。

しかし、もう遅い。

悟空の足が閃き、

横っ面へと正確に蹴りが叩き込まれる。

衝撃。

巨体が、嘘のように弾かれ、

大猿の玄麗は地面を転がった。

土煙が上がる。

緑谷は、ただ立ち尽くしていた。

「……信じられない」

それしか、言葉が出てこなかった。

昨日まで、

「まだ僕のほうが強いよ」

そう言い切った玄麗。

その“本気の姿”が、

今、目の前で――

手も足も出ずに、あしらわれている。

水簾洞の朝は、澄みきっている。

鳥の声すら聞こえるほどに。

それなのに、

緑谷の世界だけが、音を失ったようだった。

(……この場所は)

(……この家族は)

自分が足を踏み入れた場所の“深さ”を、

緑谷はようやく、思い知らされ始めていた。

 

倒れ伏した大猿のほうを一瞥しながら、悟空が肩を回した。

「おう、起きたか坊主」

軽い口調だが、先ほどまでの攻防が嘘のような余裕が滲む。

「どうだ?

うちの娘の“全力”は」

そう言って、にっと笑う。

「まだまだ修行が足りねぇなぁ。なぁ?」

最後の一言は、大猿に向けたものだった。

そのまま、悟空の視線が緑谷へと移る。

じろり。

上から下へ。

今度は少し間を置いて、もう一度。

まるで獲物を見るでもなく、敵を見るでもなく――

値踏みという言葉が一番近い、鋭い視線。

緑谷は背筋を伸ばしたまま、動けなかった。

そこへ。

土煙を上げながら、大猿がのそのそと起き上がり、こちらへ歩いてくる。

巨大な体躯のまま、緑谷の横まで来ると、

高い位置から、聞き慣れた声がした。

「おはよう、緑谷」

あまりにも普段通りの挨拶。

だが次の瞬間、

大猿の玄麗は、脇に脱ぎ散らかされていた青い作務衣を

指先でちょい、とつまんだ。

そして――視線だけで訴える。

見るなと。

緑谷は一瞬遅れて、その意味に気づいた。

「……あっ」

慌てて踵を返し、背を向ける。

心臓が、無駄に跳ねた。

(そ、そういう……!?)

「……十秒ね」

背後から、落ち着いた声。

緑谷は律儀に数えた。

一、二、三……。

風の音。

衣擦れの気配。

そして。

「お待たせ」

その一言に、緑谷はゆっくり振り返った。

そこに立っていたのは、

いつもの――小柄な玄麗だった。

青い作務衣に身を包み、

ついさっきまでの大猿の面影は、どこにもない。

悟空が腕を組んだまま、愉快そうに笑う。

「朝の稽古は終わりだ。

坊主、驚いた顔してんな」

玄麗は少しだけ肩をすくめた。

「見せるつもりじゃなかったんだけどね」

そう言って、緑谷を見る。

「……疲れが身体の底に残ってるだろ」

その一言で、

緑谷はようやく、自分の身体の違和感の正体に気づき始めていた。

水簾洞の朝は、まだ始まったばかりだった。

 

水簾洞の空気は、重い。

湿度でも、圧でもない。

もっと根源的な――生き物の格そのものが違う場所の空気。

地下世界の花果山、水簾洞。

人外が日常として息をする場所。

人間にとっては、長居するだけで消耗する。

緑谷が感じていた、身体の奥に残る疲れ。

それは鍛錬の反動でも、寝不足でもなかった。

例えるなら――湯当たり。

温泉に入りすぎて、

身体は温かいのに、芯だけがぼんやりと重くなる、あの感覚。

悟空は腕を組み、緑谷を一瞥した。

「やっぱり一晩が限界だな」

結論は、迷いがなかった。

「置けるのは一晩程度。

これ以上いたら、回復より消耗のほうが勝つ」

悪く言えば、無神経。

良く言えば、正直そのもの。

遠回しな慰めも、希望的観測もない。

「朝のうちに出たほうがいい」

それが、悟空の“総合判断”だった。

緑谷は、反論できなかった。

自分の身体が、すでに答えを出していたからだ。

玄麗が、一歩前に出る。

「……ごめんな」

ほんの少しだけ、視線を落とす。

「二、三日くらいは、休ませたかったんだけど」

唇を結び、続ける。

「やっぱ、無理みたいだ」

その声には、

昨日までの軽さも、冗談もなかった。

緑谷は、首を振る。

「いえ……十分すぎるくらいです」

本心だった。

眠れた。

食べられた。

守られた。

それだけで、どれほど救われたか。

悟空はふん、と鼻を鳴らす。

「坊主」

視線が、真っ直ぐ刺さる。

「外は地獄だぞ」

脅しではない。

事実の提示。

「それでも行くなら、戻る場所があるってことだけは覚えとけ」

玄麗は、緑谷のほうを見る。

「……また来い、とは言わない」

少しだけ、口角を上げて。

「でも、来たくなったら来ればいい」

水簾洞は、人間の居場所じゃない。

それでも――

一晩だけ、帰れる場所にはなった。

緑谷は深く息を吸い、

朝の重い空気の中で、静かに頷いた。

 

「それじゃ」

玄麗は、あっさりと言った。

「僕も雄英に戻るよ。……来る?」

問いかけは軽い。

だが、緑谷はすぐに答えられなかった。

視線が揺れる。

守りたいもの。

離れたくないもの。

それでも、怖いもの。

全部が絡まって、言葉にならない。

玄麗は、そんな様子を見て小さく息を吐いた。

「そうだね」

責めるでも、急かすでもなく。

「そう簡単に考えを変えられたら、苦労はないよな」

そう言って、空へと手を伸ばす。

觔斗雲が、音もなく現れた。

ふわり、と柔らかく揺れる雲に足を乗せながら、玄麗は背中越しに言う。

「取り敢えず、昨日のところまで送ってやるからさ」

一拍。

「考えておきな」

…………

「どうした?」

振り返らないまま、首だけ少し傾ける。

「早く掴まりなよ」

その時だった。

「まだ慌てる時間じゃないでしょ。朝ごはんくらい食べていっても、バチは当たらないよ」

横から、柔らかな女性の声がかかる。

洞の奥から現れた玄嬢は、手に畳んだ衣服を抱えていた。

それは、緑谷のヒーローコスチュームだった。

「緑谷君。どうぞ」

差し出されたそれは、汚れ一つなく洗い上げられている。

「ごめんなさいね。補修はあまり得意じゃなくて……だから、せめて洗濯だけしておいたの」

「……ありがとうございます」

言葉を選びきれず、緑谷はそう返すしかなかった。

「まぁ、着替えて飯食うくらいの時間はあるだろ。今すぐじゃなくてもいいんじゃねぇの」

そう言いながら、悟空が洞の中へ歩いていく。

「昨日の食卓で待ってるから、着替えたら来てね」

玄嬢もそれに続き、洞内へ姿を消す。

「なんなら一風呂浴びてきてもいいんだぜ」

悟空の声だけが残る。

緑谷が洞へ向かおうとした、その直前。

ふと思い出したように玄麗が振り返った。

「浴衣、風呂場に置いといていいよ」

それだけ言うと、再び洞の中へ入っていった。

温泉で浴衣を脱ぎ、コスチュームに着替えた緑谷は、昨日通った道を辿って食卓へ向かう。

「なんだ? 早かったな」

悟空が振り返る。

「まだ出来てねぇから、もう少し待ってな」

しばらくして運ばれてきたのは、中華粥の一種、及第粥。具に豚のモツを使ったスタミナを促進するモツ粥

「景気づけってわけか」

悟空が不敵に笑う。

「昔、試験前の景気づけに出されたそうだよ」

玄麗が続ける。

「緑谷、運がいいよ。マーマが二日連続で肉系出すなんて、百年に一度あるかどうかだからさ」

配膳が終わり、孫一家が揃って手を合わせる。

「いただきます」

慌てて、緑谷もそれに倣った。

匙を動かし、はふはふと粥を口に運ぶ。

不思議と、胸の奥が落ち着いていく。

食後、食器を片付ける玄嬢を手伝おうとするが、軽く手で制され、そのまま奥へ消えていった。

時計は七時五十分。

「さて……と」

玄麗が立ち上がる。

「マーマ、そろそろ行くね」

そう言って、緑谷を促し外へ向かう。

洞の外で、今度こそ觔斗雲が呼び出される。

「掴まりなよ」

背中に手を回した、その瞬間――

空から何かが飛んできた。

反射的に受け止めると、それは桃だった。

「土産だ。持ってけ」

洞の前には、悟空と玄嬢が並んで立っている。

二人に見送られ、觔斗雲がゆっくりと空へ浮かび上がる。

 

来た時と同じように――玄麗の背に、ぎゅっと腕を回した。

地下世界の空気を切り裂いて、

觔斗雲は上昇する。

重い空。

深い闇。

それらを抜けていく感覚は、

まるで“現実へ戻されていく”みたいだった。

その様子を、悟空は洞の入口から眺めていた。

「ま、頑張んな」

ぶっきらぼうな声。

「協力はしねぇが、

心の片隅で応援くらいはしてやるよ」

それだけ言うと、悟空は踵を返し、

水簾洞の奥へと姿を消した。

玄嬢に見送られながら空へ向かう雲の上。

緑谷は、玄麗の背に回した腕の隙間から、視界の端に桃が揺れていた。

 柔らかな色。

 朝の光を受けて、やけに穏やかに見える。

 ――ああ。

 その瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。

 昨日までの緊張。

 訳の分からない強者たち。

 試されるような空気。

 それらとはまるで別の場所にある、ただの「温かさ」。

 緑谷は思わず息を詰め、目元が熱くなるのを感じた。

 涙が溢れる前に、袖で乱暴に拭う。

 だが、その動きのせいで、背に回していた片腕がふっと外れた。

「どうした?」

 前から、玄麗の声が飛んでくる。

「……い、いえ。何でもないです」

 背中越しに答えた声は、自分でも分かるほど少し震えていた。

 笑顔を作ったつもりだったが、見えなくてよかった、と心底思う。

 一瞬の間。

 玄麗はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、觔斗雲が静かに高度を上げていく。

 風が強くなり、緑谷の頬を冷やした。

 その冷たさに、涙の名残が乾いていく。

 追及しない。

 慰めもしない。

 まるで――

 今はそれでいい、と分かっているかのように。

 緑谷は、もう一度しっかりと玄麗の背に腕を回した。

 その手に、桃の感触が伝わる。

 ほんの一瞬の休息。

 それでも確かに、心は救われていた。

玄麗の背中越しに、静かに目を閉じる。

戦いは、まだ終わらない。

答えも、まだ出ていない。

それでも――

一度、息をつける場所があった。

その事実だけが、

これからを戦うための、小さな支えになっていた。

觔斗雲は、地上へ向かって一直線に飛んでいく




楽しんでいただけたら幸いです
、今後の参考に感想いただけたら嬉しいです
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