水簾洞のカツ丼   作:タロットゼロ

2 / 4
桃のくだりの緑谷と玄麗の心情を綴ってみました


桃の温度

玄麗の首元に回した腕の隙間から、桃が見えた。

 ただそれだけなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 昨日まで、張りつめていた。

 考え続けていた。

 正しくあろうとして、間違えないようにして、期待に応えようとして――。

 なのに今は、

 誰かが「持っていけ」と放ってくれた果物が、こんなにも温かい。

 視界が滲んだ。

 ――泣くな。

 こんなところで。

 緑谷は慌てて袖で目元を拭う。

 だが、その拍子に背に回していた腕が外れてしまった。

「どうした?」

 玄麗の声。

 一瞬、言葉が詰まる。

 喉の奥がひくりと震えた。

「……何でも、ないです」

 笑ったつもりだった。

 でも、声は少し裏返っていた。

 気づかれてしまっただろうか。

 そう思ったが、返ってくる言葉はなかった。

 代わりに、觔斗雲が静かに上昇する。

 風が強くなり、涙の跡を冷たく撫でていった。

 ――ああ、優しいな。

 何も言わないことが、今は一番ありがたい。

 緑谷はもう一度、しっかりと腕を回す。

 掌に触れる桃の感触が、確かにそこにあった。

 ほんの一時の休息。

 それでも、胸の奥に灯がともるには十分だった。

 

 

 

背中越しに伝わる気配が、一瞬、揺らいだ。

 腕が外れた感触。

 それに続く、かすかな呼吸の乱れ。

「どうした?」

 問いかけると、返事はすぐに返ってきた。

「……何でもないです」

 だが、声が震えている。

 玄麗は、あえて振り返らなかった。

 背中に伝わる感情は、問い詰めるものではないと分かっていたからだ。

 視界の端に、桃が揺れる。

 ああ、なるほど――と、胸の中で納得する。

 強さに囲まれて、

 試され続けて、

 それでも必死に前を向いてきた少年。

 今さら言葉をかければ、きっと崩れる。

 だから玄麗は、何も言わず、雲を上昇させた。

 風を強め、空を高くする。

 涙が乾くまでの時間を、与えるために。

 やがて、背中に再び腕の重みが戻ってくる。

 さっきより、少しだけ強く。

 玄麗は口元をわずかに緩めた。

 ――それでいい。

 協力はしない。

 だが、歩き出す邪魔もしない。

 少年が前に進むなら、

 この一瞬くらい、黙って背中を貸してやる。

 

觔斗雲が、ゆっくりと高度を上げていく。

悟空はもう洞へ戻った。振り返りもせず、いつもの調子で。見送っているのは私だけだった。

空を見上げると、少年はまだ雲の上でこちらを向いている。

風に煽られ、コスチュームの布が小さくはためいた。

……首元に、手を回している。

ああ、と私は思う。

さっき渡した桃だ。

布越しでも分かる。

あの子は、ああいうものを大切に抱える。

次の瞬間、彼の肩が僅かに震えた。

涙かどうかまでは、ここからでは見えない。

けれど――

袖で何かを拭う仕草。

それで十分だった。

(あの子、ちゃんと泣けるのね)

それは弱さじゃない。

休めた証だ。

だから私は、何も言わない。

気づいていないふりをして、ただ觔斗雲の下を歩く。

(頑張って)

声には出さない。

言葉にすれば、重くなる。

雲はさらに高く昇り、やがて朝の空に溶けていく。

最後に見えたのは、こちらに向けられた小さな笑顔。

泣き顔を見せないところも、あの子らしい。

私は一つ息を吐き、洞の方へ踵を返す。

洗ったコスチュームの感触。

朝餉の湯気。

――これでいい。

協力は出来ない、見守る事も、出来ることは応援だけ。

それでも、あの子がまた戻ってきたなら、

今度も同じ朝を用意しよう。

水簾洞は、いつもここにある。




お楽しみいただけたでしょうか?いただけたなら幸いです、
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。