玄麗の首元に回した腕の隙間から、桃が見えた。
ただそれだけなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
昨日まで、張りつめていた。
考え続けていた。
正しくあろうとして、間違えないようにして、期待に応えようとして――。
なのに今は、
誰かが「持っていけ」と放ってくれた果物が、こんなにも温かい。
視界が滲んだ。
――泣くな。
こんなところで。
緑谷は慌てて袖で目元を拭う。
だが、その拍子に背に回していた腕が外れてしまった。
「どうした?」
玄麗の声。
一瞬、言葉が詰まる。
喉の奥がひくりと震えた。
「……何でも、ないです」
笑ったつもりだった。
でも、声は少し裏返っていた。
気づかれてしまっただろうか。
そう思ったが、返ってくる言葉はなかった。
代わりに、觔斗雲が静かに上昇する。
風が強くなり、涙の跡を冷たく撫でていった。
――ああ、優しいな。
何も言わないことが、今は一番ありがたい。
緑谷はもう一度、しっかりと腕を回す。
掌に触れる桃の感触が、確かにそこにあった。
ほんの一時の休息。
それでも、胸の奥に灯がともるには十分だった。
背中越しに伝わる気配が、一瞬、揺らいだ。
腕が外れた感触。
それに続く、かすかな呼吸の乱れ。
「どうした?」
問いかけると、返事はすぐに返ってきた。
「……何でもないです」
だが、声が震えている。
玄麗は、あえて振り返らなかった。
背中に伝わる感情は、問い詰めるものではないと分かっていたからだ。
視界の端に、桃が揺れる。
ああ、なるほど――と、胸の中で納得する。
強さに囲まれて、
試され続けて、
それでも必死に前を向いてきた少年。
今さら言葉をかければ、きっと崩れる。
だから玄麗は、何も言わず、雲を上昇させた。
風を強め、空を高くする。
涙が乾くまでの時間を、与えるために。
やがて、背中に再び腕の重みが戻ってくる。
さっきより、少しだけ強く。
玄麗は口元をわずかに緩めた。
――それでいい。
協力はしない。
だが、歩き出す邪魔もしない。
少年が前に進むなら、
この一瞬くらい、黙って背中を貸してやる。
觔斗雲が、ゆっくりと高度を上げていく。
悟空はもう洞へ戻った。振り返りもせず、いつもの調子で。見送っているのは私だけだった。
空を見上げると、少年はまだ雲の上でこちらを向いている。
風に煽られ、コスチュームの布が小さくはためいた。
……首元に、手を回している。
ああ、と私は思う。
さっき渡した桃だ。
布越しでも分かる。
あの子は、ああいうものを大切に抱える。
次の瞬間、彼の肩が僅かに震えた。
涙かどうかまでは、ここからでは見えない。
けれど――
袖で何かを拭う仕草。
それで十分だった。
(あの子、ちゃんと泣けるのね)
それは弱さじゃない。
休めた証だ。
だから私は、何も言わない。
気づいていないふりをして、ただ觔斗雲の下を歩く。
(頑張って)
声には出さない。
言葉にすれば、重くなる。
雲はさらに高く昇り、やがて朝の空に溶けていく。
最後に見えたのは、こちらに向けられた小さな笑顔。
泣き顔を見せないところも、あの子らしい。
私は一つ息を吐き、洞の方へ踵を返す。
洗ったコスチュームの感触。
朝餉の湯気。
――これでいい。
協力は出来ない、見守る事も、出来ることは応援だけ。
それでも、あの子がまた戻ってきたなら、
今度も同じ朝を用意しよう。
水簾洞は、いつもここにある。
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