温泉の湯気が、まだ岩肌に薄く残っている。
入口近くまで戻ってきた玄麗の前に、一匹の大きな猿が現れた。背筋を伸ばし、両手で恭しく掲げているのは、艶やかな桃。
「……あぁ、これは嬉しいなぁ」
玄麗は自然と頬を緩め、猿の頭を軽く撫でた。撫でられた猿は満足げに目を細める。
ひらり、と岩の上に跳び乗ると、そのまま腰を下ろして桃にかぶりついた。果汁が指を伝う。
去っていく猿の口元が、どこか悪そうに歪んでいたことに玄麗は気づかない。
食べ終える頃、また別の猿が現れた。今度は少し小柄だが、どこか誇らしげに胸を張っている。桃を差し出し、ちらりと周囲を睨んだ。
さらにもう一匹。
その頬はわずかに腫れ、耳の先が裂けている。
遠くの林から、甲高い怒声が響いた。枝が一本、ばきりと折れる音。
玄麗は首を傾げる。
「今日はやけに桃が豊作だね」
岩の周りには、いつの間にか十を超える種が転がっていた。
その頃、温泉では。
浴衣を抱えた猿がそろそろと岩陰から現れ、湯に浸かる緑谷の背後にそれを置いた。
緑谷が振り向いた瞬間、猿はびくりと肩を震わせる。
「わっ……」
思わず声を漏らした緑谷と目が合うと、猿は一目散に逃げ出した。
静寂が戻る。
湯気の向こうで、緑谷はしばらく考え――そして、湯から上がることにした。
その判断が、後に小さな波紋を呼ぶことになるとは知らずに。
林の奥では、桃を抱えた猿が立ち尽くしていた。
次に玄麗へ献上する栄誉は、自分のはずだった。
しかし温泉から上がる気配。
予定が狂った。
振り返った猿の目に、浴衣を運んだ猿たちの姿が映る。
キーッ!!
悲鳴のような怒声。
次の瞬間、取っ組み合いが始まった。
尻尾が絡まり、土が舞う。
だが――
その騒ぎを知る者は、誰もいない。
岩の上では、玄麗が新しい桃に手を伸ばしているだけだった。
見送り
もともとは一人で行くつもりだった。
洞を出ようとする玄嬢の背後から、足音が近づく。
「悟空」
振り返ると、悟空が桃を片手に立っていた。
「それは?」
どこから持ってきたのか、鼻先に近づけて匂いを嗅ぐ。
「猿たちから坊主にとよ……美味そうだ」
「食べちゃだめだよ」
「するわけねぇだろ」
軽く言い返しながら、悟空は桃をぽん、と上に放る。
くるりと回転したそれを、何事もないように受け止めた。乱暴に見えて、指先は驚くほど柔らかい。
もう一度、放る。
受ける。
ただそれだけの動作に、無駄が一切ない。
玄嬢は小さく息をついた。
「……子供みたい」
「五百年くらい子供やってるが?」
肩を並べ、二人は出口へ向かって歩き出す。
ありがとうございました