水簾洞のカツ丼   作:タロットゼロ

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桃酒の星空。

 

私室の扉が、静かに閉まる。

 

一拍。

 

玄麗はその場で小さく伸びをした。肩の力が抜け、骨がわずかに鳴る。

 

洞の奥は、もう夜の気配だった。

 

足音を殺すでもなく、いつもの歩幅で廊下を進む。

 

厨房の前を通り過ぎかけて——ふと、足が止まった。

 

棚の奥にしまってあった、桃を漬けた甘い飲み物の瓶を思い出す。

 

寮に入ってから、口にしていない。

 

ここでは誰に咎められることもない。

 

「……たまにはいいか」

 

独り言は、空気に溶けた。

 

扉を押し開けると、石造りの厨房はひんやりとしている。

 

手慣れた動作で小ぶりの徳利に少量だけ移し、杯を一つ取った。

 

迷いはない。

 

長居する気もなかった。

 

厨房を出る。

 

その時だった。

 

玄麗の足が、もう一度だけ止まる。

 

視線は向けない。

 

代わりに、意識だけを私室の方へ滑らせた。

 

――静かだ。

 

気配が、深く沈んでいる。

 

寝返りの揺れも、衣擦れもない。

 

落ちるように眠っているのだろう。

 

私室へ向かいかけた足を、玄麗は途中で止めた。

 

そして、そのまま踵を返す。

 

「……熟睡か」

 

確かめる必要はない。

 

客が眠っている夜に、扉を開けるほど無粋でもなかった。

 

杯と徳利が触れ合い、小さく音を立てる。

 

玄麗は指の位置を直し、それ以上鳴らないよう持ち替えた。

 

廊下の先。

 

湯気が、淡く揺れている。

 

水簾洞の夜は深い。

 

岩肌を伝う湯の音だけが、絶えず響いていた。

 

玄麗はその中へ、何事もない顔で歩いていく。

 

 

 

湯気を抜けた先に、空があった。

 

地下世界にも、星空はある。

 

地上のそれより近く、どこか硬質で、冷たい光だった。

 

玄麗は岩縁に腰を下ろし、徳利を傾ける。

 

とくり、とくり。

 

杯に満ちていく液体は、淡い琥珀色。

 

揺れるたび、星の光を砕いて閉じ込めたように瞬いた。

 

まず、香りを確かめる。

 

桃の甘さ。

 

だが、べたつかない。

 

長く寝かせた果実特有の、角の取れた丸い匂い。

 

玄麗は小さく息を吸い、そして——

 

一息に飲んだ。

 

熱が、喉を滑り落ちる。

 

遅れて、柔らかな甘みが広がった。

 

「ふぅ……」

 

白い吐息が、夜気にほどける。

 

「……毎年のことながら、やっぱりうまいな」

 

独り言に、応える者はいない。

 

ただ湯の音だけが続いている。

 

玄麗は杯を膝に置き、空を見上げた。

 

星は変わらない。

 

少なくとも、人間が一生を終える程度の時間では。

 

416年。

 

数え慣れたはずの年月が、ふと指の隙間から零れ落ちる。

 

季節が巡るたび、同じ酒を口にする。

 

同じ星を見上げる。

 

変わるものと、変わらないもの。

 

どちらが尊いのかは、未だに分からない。

 

湯に指先を浸す。

 

波紋が広がり、星を揺らした。

 

「……まぁ、いいか」

 

考える夜もあれば、考えない夜もある。

 

今夜は、後者でいい。

 

もう一杯だけ飲んだら、湯に入ろう。

 

客人が眠る夜くらいは——

 

ただの長生きの猿に戻っても、罰は当たらないだろう。

 

 

 

衣を脱ぎ、湯に身を沈める。

 

熱が、ゆっくりと筋肉をほどいていく。

 

肩まで浸かったところで、小さく息を吐いた。

 

夜は静かだった。

 

地下世界の星空が、水面に揺れている。

 

最後の一口を楽しむ。

 

酔うほど飲んではいないが、思考の輪郭が少しだけ柔らいでいる。

 

何も考えない時間。

 

それを贅沢だと思うようになったのは、いつからだったか。

 

湯音だけが続く。

 

——ちゃぷん。

 

微かな気配。

 

玄麗は振り返らない。

 

この花果山で、自分に害をなすものはいない。

 

足音は遠慮がちで、しかし隠れる気もない。

 

やがて岩陰から、一匹の猿が現れた。

 

両腕で抱えているのは、青い作務衣。

 

湯気に濡れないよう、どこか不器用に掲げている。

 

玄麗は肩越しに振り返った。

 

そして、ほんの少しだけ目を細める。

 

「ありがとな」

 

それだけ言う。

 

猿は嬉しそうに喉を鳴らし、作務衣を岩の上へ置いた。

 

去り際、ちらりと玄麗を見る。

 

褒められた子供のような顔だった。

 

玄麗はまた空へ視線を戻す。

 

星は相変わらず瞬いている。

 

昔からずっと、変わらない。

 

——いや。

 

変わったものもある。

 

ふと、思い出す。

 

洞の奥。

 

慣れない呼吸の客人。

 

静かな寝息。

 

誰かがこの場所で眠っている夜など、

 

これまで何度あっただろう。

 

湯に指を沈める。

 

波紋が広がり、星を崩した。

 

「……妙なもんだな」

 

独り言は、湯気に溶けた。

 

嫌ではない。

 

むしろ——少しだけ、落ち着かない。

 

それをどう呼ぶのか、まだ知らないが。

 

玄麗は目を閉じる。

 

今夜くらいは考えるのをやめよう。

 

湯はまだ温かい。

 

夜も、長い。

 

 

 

 

 

「さて……と」

 

湯の中で大きく伸びをする。凝り固まっていた背筋がほどけ、思わず小さく息が漏れた。露天の縁から見上げる夜空は、山の空気のせいか街中よりもずっと澄んでいる。瞬く星々が、静かな湖面のように広がっていた。

 

こんな時間も悪くないな――そんな柄でもない感想が胸に浮かぶ。

 

長湯になりすぎる前に立ち上がると、岩肌を伝う湯がさらさらと流れ落ちた。用意されていた青い作務衣に袖を通す。肌触りの良い布が、火照った体に心地いい。

 

猿はすでにいない。いつものことだ。必要なことだけ済ませ、気配を消すように去る。

 

「相変わらず、手際がいい」

 

誰に言うでもなく呟き、軽く帯を締めた。

 

廊下に出ると、床板がわずかに軋む。夜の屋敷は昼間とは別の顔を見せていた。人の気配がほとんどなく、静寂が支配している。

 

――緑谷は起きてないだろうな。

 

ふと、私室に寝かせた少年の顔が浮かぶ。あれだけ疲弊していたのだ。簡単に目を覚ますとは思えないが、それでもどこか気になる。

 

居間へ向かいながら、押し入れから布団を取り出す。慣れた手つきで敷布団を広げ、掛け布団を重ねる。動作は自然で、無駄がない。

 

本来なら、客を私室に寝かせるなどしない。

 

だが――。

 

「……まあ、例外だな」

 

ぽつりと零れた言葉は、思ったより柔らかかった。

 

A組。騒がしくて、真っ直ぐで、面倒で。それなのに、不思議と嫌いになれない連中。

 

あの少年も、その中心にいる一人だ。

 

自分の寝床を整え終えると、玄麗は一度だけ私室の方へ視線を向けた。襖越しに気配を探る。

 

静かだ。

 

規則正しい寝息までは聞こえないが、落ち着いた空気がそこにある。

 

「……ちゃんと休めよ、緑谷」

 

聞こえるはずもないのに、小さくそう言って灯りを落とした。

 

夜は、まだ深い。

 

だがどこか――悪くない静けさだった

 

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