駒王学園、2年B組。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、教室は喧騒に包まれた。
平和な日本の、ありふれた高校の日常。
その中心で、兵藤一誠――イッセーは、友人である松田、元浜と共に、今日も今日とて盛大なため息をついていた。
「あーあ、彼女欲しいなぁー! なんで俺には春が来ないんだよ、チクショー!」
机に突っ伏して嘆くイッセーの背中には、哀愁と、それ以上に煮えたぎるような煩悩が漂っている。
「ハイスクールD×D」の主人公にして、現時点ではただのスケベな一般人(と本人は思っている)。
彼の日常は、エロ動画の鑑賞と、女子の身体測定データの妄想、そして「いつかハーレム王になる」という野望だけで構成されていた。
「諦めろイッセー。俺たち変態トリオに近寄ってくる女子なんて、保健室のオバちゃんか食堂のオバちゃんくらいだぜ」
「バカ言え! 俺は諦めねぇぞ! いつか巨乳のお姉さんと付き合って、あんなことやこんなことを……グヘヘ」
イッセーは拳を握りしめる。その瞳は純粋な欲望で濁っていた。
本来の歴史――正史においてであれば、この日の夕方、彼は運命の転換点を迎えるはずだった。
歩道橋の上で、夕日を背にした美少女、天野夕麻こと堕天使レイナーレから「付き合ってくれませんか?」と告白されるイベント。
それは彼を殺すための罠でありながら、彼が赤龍帝として覚醒するきっかけとなる、残酷で甘い毒。
だが。
この世界線において、その「運命の女」は現れない。
なぜなら――彼女は既に、この世に存在しなかったからだ。
◇
駒王町の上空、あるいは路地裏、廃ビルの陰。
そこには、いくつかの「染み」だけが残されていた。
かつて堕天使や、その配下の神父たちであったモノの残骸。
『神器(セイクリッド・ギア)所有者の調査および排除』。
そんな任務を帯びてこの街に潜伏していた彼らは、昨日から今日にかけて、文字通り「蒸発」していた。
悲鳴を上げる暇もなかった。
何が起きたのか理解する時間すら与えられなかった。
ただ、銀色の閃光が走ったと思った次の瞬間、彼らの肉体は分子レベルで分解され、魂ごと消滅したのだ。
実行犯は、たった一人。
銀髪の、美しき龍の妖精。
『……汚らわしい』
彼女は、路地裏に残った黒い羽の燃えカスを、冷徹な瞳で見下ろして呟いた。
『私の愛しい人(赤龍帝)の周りを、羽虫が飛び回っているなんて。……目障りだ』
最強の白龍皇、ヴァーリ・ルシファー(現在は妖精騎士ランスロットの特性を強く発現中)にとって、赤龍帝とは自身の半身であり、運命の恋人(予定)であり、何よりも神聖な「獲物」である。
その獲物に、下級の堕天使風情が罠を仕掛けようなどと、万死に値する不敬だった。
だから、掃除した。
部屋を片付けるように。ゴミをゴミ箱に捨てるように。
彼女は街に巣食う悪意を、圧倒的な暴力で「無」へと帰した。
『これで綺麗になった。……さあ、会いに行こうか』
邪魔者は消えた。
舞台は整った。
彼女は、血の一滴すら付着していない純白の肌を夜風に晒しながら、獲物が通るであろう通学路へと、音もなく滑空していった。
◇
「はぁ……帰ってエロ動画でも見るか……」
イッセーは肩を落とし、夕暮れの道を一人で歩いていた。
友人たちと別れ、孤独感が胸をよぎる。
結局、今日も何もなかった。
ドラマのような出会いも、ラノベのような展開も、現実はそう甘くない。
本来なら、あの校門で声をかけられるはずだった。
だが、そこには誰もいない。
カラスが二、三羽、夕焼け空を横切っていくだけだ。
「……なんか、すげぇ寂しいな、俺」
自嘲気味に呟き、ポケットに手を突っ込んで歩く。
その時だった。
ヒュオッ!!
突如、背後から猛烈な突風が吹いた。
いや、それは風というにはあまりに鋭く、重かった。
まるで透明な壁が高速で通り過ぎたかのような、衝撃波に近い突風。
道端の看板がガタガタと揺れ、イッセーの学ランがバタバタと激しく煽られる。
「うおっ!? なんだ今の風!?」
イッセーは慌てて髪を押さえ、周囲を見回す。
天気予報では強風なんて言っていなかったはずだ。
今の感覚……何かが、俺の真横を一瞬で駆け抜けたような?
「……ん?」
違和感。
ズボンの後ろポケット。
いつも感じているはずの、あの「厚み」がない。
なけなしの小遣いと、TSUTAYAの会員証と、大事なポイントカードが入った、俺の命綱。
「あ、あれ? ない? ないないない!?」
イッセーは顔面蒼白になって尻をまさぐる。
ない。
財布がない。
「嘘だろ!? 今の風で飛んだのか!? やっべ、今月の新作借りる金が入ってんのに!」
パニックに陥り、地面を這いつくばって探そうとした、その時。
「……ねぇ、君」
背後から、声がした。
それは、イッセーの鼓膜を震わせ、脳髄に直接響くような、不思議な音色の声だった。
鈴を鳴らしたような透明感がありながら、どこか艶っぽく、そして絶対的な「格」を感じさせる響き。
イッセーは弾かれたように振り返る。
「は、はいっ!?」
そして、息を呑んだ。
時が止まった、と錯覚するほどだった。
そこにいたのは、一人の少女だった。
夕日を背負って立っているせいで、その姿は神々しい逆光に縁取られている。
月光をそのまま糸にしたような、流れる銀髪。
透き通るような白い肌は、夕焼けの朱色を受けてほんのりと桜色に染まっている。
服装は、このあたりの学校の制服ではない。黒を基調とした、どこかゴシックな雰囲気漂う私服。それがまた、彼女の浮世離れした美貌を際立たせていた。
(な、なんだこの子……!? めちゃくちゃ可愛い……いや、綺麗すぎる……!)
イッセーの貧困な語彙力では、「天使」か「芸能人」くらいしか例えが出てこない。
だが、本能が告げている。
この子は、ヤバい。
何がヤバいのか分からないが、とにかく俺なんかが直視していい存在じゃない気がする。
少女は、イッセーの反応を楽しむように、小首をかしげた。
その手には、見覚えのある安っぽい革の財布が握られている。
「財布、落としたよ?」
彼女はイッセーとの距離を詰める。
一歩。
その動きには、一切の無駄がなかった。地面を蹴る予備動作もなく、まるで空間を滑るように近づいてくる。
「あ……そ、それ、俺の……!」
イッセーは我に返り、慌てて財布を受け取ろうとする。
だが、少女の手と触れ合う寸前で、指先が震えた。
冷たい。
彼女の指先から漂う冷気は、冬の寒さとは違う。もっと硬質で、研ぎ澄まされた刃物のような冷たさ。
少女――ヴァーリは、イッセーのその反応を観察していた。
(……ふーん。気付かないか。私の魔力に触れても、反応なしか)
彼女の内側で、白龍アルビオンが嘆息する。
『まだ覚醒には程遠いな。器としては未熟もいいところだ』
(そうだね。拍子抜けするくらい弱い。……でも)
ヴァーリの爬虫類めいた瞳孔が、微かに収縮する。
(匂いはする。魂の奥底、そのさらに深淵に眠る、熱くてドロドロとした赤の気配。……ああ、間違いない。こいつが私の『赤』だ)
彼女の中で、捕食本能と、歪んだ恋心が同時に鎌首をもたげる。
弱いなら、強くすればいい。
眠っているなら、叩き起こせばいい。
この手で。私の愛で。
ヴァーリは財布をイッセーの手に押し付けた。
その瞬間、わざとらしく指を絡める。
「っ……!」
イッセーが顔を赤くして硬直する。
初心な反応。チョロい。
かつてのヴァーリなら鼻で笑って切り捨てていただろうが、今の彼女(妖精騎士)の感性では、その無防備さが逆に愛おしく、嗜虐心を煽られる。
「あ、ありがとう! マジで助かった! これないと今月死ぬとこだったし!」
イッセーは財布の中身を確認し(金は減っていない)、安堵の息を吐く。
そして、目の前の超絶美少女に向き直り、背筋を伸ばした。
「あの、本当にありがとう! 拾ってくれて……いや、あの風で飛んでったのに、よくキャッチできたね?」
「……たまたまだよ。運が良かったね」
ヴァーリはしれっと嘘をつく。
運などではない。彼女が音速で彼を追い越し、すれ違いざまに抜き取り、風を起こし、そして「拾った」というシチュエーションを演出したのだ。
全ては、自然な形で接触するためのマッチポンプ。
「そ、そうか……。と、とにかく! 何かお礼をさせてくれ! ジュース奢るとか、そんなんじゃ釣り合わないかもしれないけど……なんかできることあれば!」
イッセーは必死だった。
こんな美少女と接点を持てたのだ。ここで「じゃあね」で終わらせては、男が廃る。あわよくば名前を聞きたい。連絡先を知りたい。
その言葉を、ヴァーリは待っていた。
彼女は目を細め、獲物を檻に誘い込む蜘蛛のように、艶やかに微笑んだ。
「ふーん……」
彼女はイッセーの周りを、ゆっくりと半周する。
品定めをするような視線。
イッセーは蛇に睨まれたカエル……いや、ドラゴンに見つめられた小動物のように縮こまる。
「お礼、か。……君、名前は?」
「え? あ、ひょ、兵藤! 兵藤一誠です!」
「イッセー……。ふうん、いい名前だね」
彼女は名前を舌の上で転がすように繰り返した。
その響きだけで、イッセーの背筋にゾクゾクとした電撃が走る。
ヴァーリは彼の正面に戻り、その顔を覗き込んだ。
距離が近い。
吐息がかかる距離。
銀髪から漂う香りは、甘い花のようでありながら、どこか鉄とオゾンの匂いが混ざっている。
「じゃあ……デートしてくれない?」
「…………へ?」
イッセーの思考回路が焼き切れた。
「デ……デト? でーと? デートって、あの、男女が遊ぶ、あのデート?」
「他にどんなデートがあるの?」
彼女は小首をかしげる。
その表情は無邪気そのものだが、瞳の奥には逃げ場のない光が宿っている。
「え、いや、だって俺たち初対面だし! 俺なんか全然イケてないし! 君みたいな超美人が、なんで俺と……!?」
「嫌なの?」
「嫌じゃないです!!」
即答だった。
男・兵藤一誠、煩悩と下心には正直である。
こんな美少女からの誘いを断る理由など、地球がひっくり返っても存在しない。
「なら、決まりだね」
ヴァーリは満足げに頷いた。
内心では、ガッツポーズを取りたい衝動を抑えている。
(やった。まずは第一段階クリアだ。これで公然と彼を観察できるし、干渉できる)
アルビオンが『……お前、本当に回りくどいことをするようになったな。昔なら即座に殴りかかっていただろうに』と呆れているが、無視だ。
「い、いつ!? いつがいい!?」
イッセーが食い気味に聞く。
「今から」
「えっ、今!?」
「そう。善は急げって言うでしょう? それに……」
彼女はイッセーの腕を強引に取る。
その力は、華奢な見た目からは想像もつかないほど強く、抗うことなど不可能だった。
「私は気が短いの。欲しいものは、すぐに手に入れないと気が済まないんだ」
彼女はイッセーを引っ張り、歩き出す。
帰宅路とは逆方向。
駅前の繁華街か、それとももっと静かな場所か。
「ちょ、ちょっと待って! 心の準備が! あと服とかこのままだし!」
「構わないよ。君がどんな格好でも、中身(ドラゴン)にしか興味ないから」
「え? 中身?」
「なんでもない。……さあ、行こうか、イッセー」
彼女は振り返り、夕焼けの中で微笑んだ。
その笑顔は、世界中のどんな宝石よりも美しく、そしてどんな魔王よりも危険な魅力を放っていた。
「私の名前は……そうだな」
少しの間。
彼女は自分の名乗るべき名を思案する。
ヴァーリ・ルシファーという名は、悪魔社会では有名すぎる。いずれバレるとしても、今の「デート」には不要なノイズだ。
ならば、今のこの姿、この魂の在り方を名乗るべきか。
「メリュジーヌ。……私のことは、そう呼んで」
「メリュジーヌ……ちゃん? 外国人?」
「まあ、そんなところだ。異郷の出身だからね」
あながち嘘ではない。異界の異界、剪定事象の果てから来た概念なのだから。
「よ、よろしく! メリュジーヌちゃん!」
イッセーは鼻の下を伸ばしながら、夢見心地でついていく。
彼にはまだ見えていない。
彼女の背後に、巨大なドラゴンの影が揺らめいていることも。
彼女が握ったその手が、かつて数多の戦士を葬ってきた最強の凶器であることも。
「……ねぇ、イッセー」
歩きながら、メリュジーヌ(ヴァーリ)が問いかける。
「君はさ、何になりたい?」
「え? 何って……」
「王様とか、英雄とか。あるいは……最強とか」
その質問に、イッセーは少し考え込んで、照れくさそうに頭を掻いた。
「いやぁ、そんな大層なモンじゃないけど……。ハーレム王? かな」
「……ハーレム?」
ピクリ、とメリュジーヌの眉が跳ね上がった。
繋いだ手に、ギリリと力がこもる。
「い、痛い痛い! メリュジーヌちゃん、握力すごくない!?」
「……へぇ。ハーレム、ね」
彼女の声の温度が、氷点下まで下がったことに、イッセーは気づかない。
彼女の瞳孔が、極限まで細くなり、殺意と独占欲の炎が揺らめいたことに、気づかない。
(なるほど。私の他にも女を侍らせたいと。……いい度胸だ、私の赤龍帝)
内心で、彼女は冷酷な計算式を組み立てる。
ハーレムという概念の破壊。
他の女という不純物の排除。
そして、自分だけを見るようにするための教育的指導(調教)。
「ふふっ……面白い夢だね。叶うといいね」
(私がその夢、悪夢に変えてあげるけど)
「だ、だろー! 男ならやっぱハーレムっしょ!」
無邪気に笑うイッセー。
その横顔を見つめながら、メリュジーヌは甘く、重く、底知れぬ愛を込めて囁いた。
「でも、まずは私だけで満足させてあげる。……覚悟してね?」
「え? 何か言った?」
「ううん。……あそこのクレープ屋、美味しそうだね。行こう」
二人の影が伸びる。
夕闇が迫る駒王町に、最強の龍と、まだ目覚めぬ龍の、奇妙で危険なデートが幕を開けた。
背後から吹く風が、まるでこれからの波乱を予感させるように、二人の髪を揺らして通り過ぎていった。
本来なら血なまぐさい悲劇で始まるはずだった物語は、今、銀色の“愛”による侵略の物語へと書き換えられたのだった。
駅前の喧騒は、夕暮れの茜色から夜の帳へと移り変わろうとしていた。
学校帰りの学生や仕事終わりのサラリーマンが行き交う駅前広場。その一角にある人気のクレープ屋の前に、明らかに場の空気を変えている二人がいた。
一人は、ごく普通の、いや、挙動不審さが目立つ平凡な男子高校生、兵藤一誠。
もう一人は、この世の者とは思えない美貌を振りまく銀髪の少女、メリュジーヌ。
周囲の視線は釘付けだった。「なんだあの美少女?」「アイドルか?」「隣の男、何者だよ」「前世で徳を積みすぎだろ」といった嫉妬と羨望、そして純粋な感嘆の声がさざ波のように広がっている。
だが、イッセーにとってそれは心地よい優越感であると同時に、胃が痛くなるようなプレッシャーでもあった。
(夢じゃねぇよな……? マジで俺、この超絶美少女とクレープ食ってるんだよな?)
彼は手にしたチョコバナナ生クリームのクレープを強く握りしめ、痛いほどの現実感を確かめる。
隣に立つメリュジーヌは、イチゴとベリーをふんだんに使った豪華なクレープを、まるで王室のティータイムのような優雅さで口に運んでいた。クリームが唇につくことさえ計算されたかのような、完璧な所作。
「ん……甘いね。ここのクリーム、悪くない」
彼女は満足げに目を細める。
その仕草一つで、周囲の男子数人が鼻血を出して倒れそうな破壊力があった。
イッセーもまた、直視できずに視線を泳がせる。
「そ、そうか! よかった! ここ、女子に人気だって聞いててさ……一度来てみたかったんだよな!」
「へぇ。イッセーは甘いものが好きなんだ」
「おう! 疲れた時は甘いもんに限るしな!」
虚勢を張って答えるが、内心はバクバクだ。
メリュジーヌはそんな彼の様子を、爬虫類を思わせる縦長の瞳孔でじっと観察している。
彼女が見ているのは、イッセーの表情ではない。その内側、魂の器に眠る「赤龍帝」の力の奔流だ。
(まだ眠っている。……でも、私の近くにいることで、少しずつ活性化しているね)
彼女の内側で、白龍アルビオンが小さく唸る。
『……悪趣味な楽しみ方をするな、ヴァーリ。餌付けか?』
(失礼な。愛の育み合いと言ってほしいな)
メリュジーヌはクレープを一口食べると、ふとイッセーの手元に視線を移した。
彼が食べているチョコバナナ。
黒いチョコレートソースと、白い生クリーム。
「……ねぇ」
不意に、彼女が顔を近づけた。
甘い香りがイッセーの鼻孔をくすぐる。
「イッセー、そっちのクレープ美味しい?」
「え? あ、うん! チョコとバナナは最強の組み合わせだからな!」
「ふーん……」
彼女はイッセーのクレープと、自分のクレープを見比べる。
そして、悪戯っぽく、しかし拒否を許さない響きを含んで言った。
「ひとくちちょうだい? 私のもあげるから」
「ぶふっ!!?」
イッセーは危うくクレープを握りつぶすところだった。
一口ちょうだい。
それは、女子同士なら普通のやり取りかもしれない。
だが、異性間で、しかも出会って数十分の相手とする行為としては、あまりにもハードルが高い。
それはつまり――。
(か、かかか、間接キッス!? これって間接キッスのお誘いですよ!?)
イッセーの脳内で警報が鳴り響く。
まだ自分が口をつけていない部分を差し出すべきか? いや、もう結構食べてしまっている。どこをどう回しても、唾液の接触は避けられない。
「ど、どうしたの? 嫌?」
メリュジーヌが小首をかしげる。その瞳が「まさか断らないよね?」と語りかけてくる。
「いや! 嫌とか滅相もない! ただ、その、俺の食べかけだし、汚いかなーって!」
「イッセーのなら、汚くないよ」
彼女はサラリと言ってのけた。
そして、イッセーが差し出すのを待たず、自ら顔を寄せた。
彼の手首を、あの華奢で冷たい指先がそっと掴む。逃さないように。
「いたーだき」
パクッ。
小さな音がして、彼女の薄い唇が、イッセーのクレープの端を食んだ。
そこは、数秒前にイッセーが口をつけた場所そのものだった。
「~~~~ッッ!!??」
イッセーの顔が沸騰する。
唇の感触こそないが、視覚的な情報は強烈だ。
自分の唾液がついたであろう場所を、美少女が躊躇なく口に含み、咀嚼している。
その喉が、ゴクリと動く。
メリュジーヌは、ゆっくりと味わっていた。
舌の上で広がるのは、安っぽいチョコレートと植物性油脂のクリームの味。
だが、彼女が求めていたのは「それ」ではない。
(……あぁ)
物質的な味の奥にある、霊的な風味。
イッセーの唾液を介して伝わってくる、微弱だが確かに存在する「赤龍帝」の残り香。
それは、マグマのように熱く、泥のように濃く、そして未熟な果実のような青臭さを含んでいた。
(微かに感じる赤龍帝の痕跡、美味だね)
背筋がゾクゾクと震える。
かつてのヴァーリ・ルシファーなら、戦場での血の味こそを求めたかもしれない。
だが、今の彼女――妖精騎士としての本能は、この「交わり」にこそ至上の悦びを見出していた。
捕食。融合。愛液の交換。
間接的とはいえ、彼の因子を体内に取り込んだという事実が、彼女の細胞を甘く疼かせる。
『……お前、変なスイッチが入っていないか?』
(静かにしててよ、アルビオン。今、味わってるんだから)
メリュジーヌは口元のクリームを舌先でペロリと舐め取った。
その妖艶な仕草に、イッセーは石化したまま動けない。
「ん、美味しい。……チョコの味だけじゃないね。もっと深く、熱い味がする」
「あ、あつい……?」
「イッセーの味ってこと」
彼女はニッコリと笑う。
それは獲物を前にした捕食者の笑みではなく、愛しいペットを愛でる飼い主の顔だった。
だが、イッセーにはその「深意」は分からない。ただただ、ドギマギするばかりだ。
「さ、約束通り」
彼女は自分の食べかけのクレープを、イッセーの口元に差し出した。
「ほら、あーん」
「えっ、ええっ!?」
「私のを上げるって言ったでしょう? それとも、私に食べさせてもらうのは嫌?」
「いやいやいや! 最高のご褒美ですけど! いいの!?」
「もちろん。……ここ、食べて」
彼女が指し示したのは、やはり彼女が一口かじった跡のある部分。
真っ赤なイチゴが、誘うように艶めいている。
イッセーは覚悟を決めた。
ここで引いたら男じゃない。
震える口を開き、彼女のクレープへと顔を寄せる。
ガブッ。
勢い余って、少し大きく頬張ってしまった。
口いっぱいに広がる甘酸っぱいベリーの香り。そして、上品なクリームの甘さ。
だが、それ以上にイッセーの脳を揺さぶったのは、「彼女の食べかけを食べている」という背徳感と高揚感だった。
(う、うめぇ……! なんかめっちゃ良い匂いするし! これが美少女の味……!?)
イッセーが咀嚼して飲み込むのを見て、メリュジーヌは満足げに頷いた。
「どう? 私の味」
「す、すげぇ美味しい! なんかこう、食べたことないくらい上品で……!」
「ふふっ、そう。私の一部がイッセーの中に入ったね」
彼女の意味深な言葉は、駅前の雑踏にかき消されることなく、イッセーの耳にこびりついた。
一部が入った。
その言葉に、イッセーの左手――神器(ブーステッド・ギア)が宿る左手が、一瞬だけ熱を持った気がした。
『……ほう。向こうも反応したか』
アルビオンが興味深そうに呟く。
白龍の因子を含んだ食物(唾液)が体内に入ったことで、赤龍の因子が防衛本能、あるいは対抗意識から微弱な活性化を見せたのだ。
「さて、お腹も満たされたことだし」
メリュジーヌは残りのクレープを一口で平らげると、空いた手で再びイッセーの手を握った。
今度は、先ほどよりも強く。指を絡める「恋人繋ぎ」で。
「ちょ、メリュジーヌちゃん!?」
「デートはまだ終わらないよ。……少し、静かなところに行こうか」
彼女はイッセーを引いて歩き出す。
賑やかな駅前を離れ、人通りの少ない公園の方角へ。
「ねぇ、イッセー」
「は、はい!」
「君はさ、自分の中に『何か』がいるって感じたことはない?」
唐突な質問。
だが、その声はひどく真剣で、イッセーはふざけて返すことができなかった。
「何か……? いや、特には……。たまに左手が熱くなったりとか、変な夢見たりとかはあるけど……」
「そっか。……まだ、眠っているんだね」
彼女は少し寂しそうに、けれど愛おしそうに呟く。
そして、イッセーの耳元で囁いた。
「もし、君の中に恐ろしい怪物が眠っていたとしても……私は君を愛してあげるよ」
「え……」
「だから、早く起きてね。……私、待ちきれないから」
夕闇の中、公園のベンチに座る二人のシルエット。
イッセーは心臓が破裂しそうだった。
こんなに可愛くて、不思議で、積極的な子が、なんで俺なんかに?
そんな疑問は、彼女の甘い体香と、繋がれた手の温もりに溶かされていく。
メリュジーヌは、イッセーの肩に頭を預けた。
その銀髪が、イッセーの制服にかかる。
彼女は目を閉じ、イッセーの鼓動と、その奥にあるドラゴンの脈動を聞いていた。
(赤龍帝、ドライグ。お前の宿主は、こんなにも無防備で、温かいよ)
彼女は、イッセーの手の甲に、そっと自分の爪を立てた。
痛みを感じさせないほど静かに、しかし確実に痕跡を残すように。
(この子は私のものだ。誰にも渡さない。天使にも、悪魔にも、堕天使にも)
「……イッセー」
「な、なに?」
「今日は楽しかった。……また、明日も会ってくれる?」
上目遣いの最強種。
断れるはずがない。
「も、もちろん! 俺で良ければいつでも!」
「約束だよ。……破ったら、針千本じゃ済まさないからね」
彼女は悪戯っぽく笑い、そして――
チュッ。
「え」
イッセーの頬に、柔らかい感触が走った。
一瞬の出来事。
メリュジーヌが、背伸びをして彼の頬にキスをしたのだ。
「これは、予約金。……残りは、君が『本当の姿』を見せてくれた時にね」
呆然とするイッセーを残し、メリュジーヌは軽やかに立ち上がった。
「じゃあね、イッセー。気をつけて帰ってね」
彼女は手を振り、夜の闇へと消えていく。
まるで、夢幻のように。
だが、頬に残る熱と、口の中に残るイチゴの甘さは、確かに現実だった。
「……すげぇ。マジですげぇ……」
イッセーはその場にへたり込んだ。
彼の左手が、ドクン、と大きく脈打った。
まるで、去り行く白龍の気配を惜しむように、あるいは警戒するように。
覚醒の時は近い。
だがそれは、本来の悲劇的な覚醒ではなく、銀色の愛による強制的な孵化となるだろう。
最強の白龍皇に見初められた赤龍帝の運命は、もう誰にも――神にさえも止められない軌道に乗り始めていた。