世界に触れて、私は私になる 作:浅風境
巨大な城壁に囲まれたオラリオは、遠目にも異様な威圧感を放っていた。
おそらく石で築かれたその輪郭は、外界と内界を明確に分断し、内部にだけ許された秩序を主張しているかのようだった。
集落での穏やかな日々とは、あまりにも異なる風景。
無数の人々が行き交い、露店の呼び声と武器の擦れる音が混じり合い、空気そのものが熱を帯びている。
ここには、最初からの役割は用意されていない。
だが、役に立たねば、存在する意味すら与えられない。
まだ名を刻むこともなく、誰の役にも立たず、ただ「存在している」だけの己は、この都市の喧騒の中で、ひどく透明なものに思えた。
集落では、薪を割り、畑を耕し、水を汲み、誰かの役に立つことで、自然と居場所が生まれていた。
だがここでは、役に立つ前に、立つ資格を証明しなければならない。
それが、ファミリアへの帰属だった。
幾つかの神々の名を耳にしながら、都市を歩く。
門構えの立派なファミリア、活気に満ちた派閥、溢れる冒険者。
そのいずれにも、容易には近づけなかった。
選ぶとは、選ばれることでもある。
だが、同時に、己の生を、他者の名のもとへ差し出す行為でもある。
迷いながら歩く己に、背後から声がかけられた。
振り返った先に立っていたのは、
黒髪に白いリボンを2つ結んだ小柄な少女だった。
その雰囲気は、都市に溢れる冒険者とも、これまで出会ってきた如何なる人間とも、どこか異なっていた。
気取らず、威張らず、それでいて、確かに「人ではない」と感じさせる、不思議な存在感。
炉の神、ヘスティア。
勧誘という名の、あまりに素朴な誘い。
それとは裏腹な熱意に押され、断る理由も、強く拒む理由も見当たらず、気がつけば、その背を追って、都市の外れへと歩いていた。辿り着いた先にあったのは、廃墟と呼ぶほかない、崩れかけの教会だった。
それでも、そこには、確かに生活の痕跡があった。
神が住まうには、あまりにも質素で、人が住まうには、あまりにも奇妙な空間。この不釣り合いさに、むしろ奇妙な安堵を覚えた。
神と人。
その距離を、必要以上に誇張しない場所。
ここならば、己という不確かな存在を、過度な重みを持たせずに置いていける気がした。
神の指が背に触れたとき、熱とも冷たさともつかぬ感覚が走った。
〈ステイタス〉
神の血を媒介に刻まれる紋様。
それは祝福であり、同時に、迷宮あるいは都市への参加資格だった。
刻印の完了とともに与えられた数値は、すべて0。
力、耐久、器用、敏捷、魔力。
いずれも等しく「0」。
三十年分の知識も、集落で培った労働の経験も、
この都市では、ひとつの数値としても換算されない。
一瞬、理不尽だという感情が胸を掠めた。
だが、その感覚は、すぐに別の思考に押し流される。
それは、不思議なほど、残酷で、そして納得のいく仕組みだった。
ここでは、過去ではなく、未来だけが評価される。
積み上げたものではなく、積み上げ続ける意志だけが問われる。
集落で完成したはずの自己は、この零地点の前では、再び解体される。
だが、それは否定ではない。
再構築のための、静かな準備にすぎなかった。
その日も、都市の通りを歩き、日が傾く頃に廃教会へと戻った。
遠くからでも分かる、古びた尖塔。
崩れかけた石壁と、蔦に覆われた外観。
今ではすっかり、帰る場所として認識するようになったその建物の前で、ふと、微かな違和感を覚える。
――人の気配。
扉を開け、中へ入る。
静寂の支配する礼拝堂。
だが、その奥、地下室へと続く階段の先から、かすかな声が漏れ聞こえていた。
慎重に足を進め、地下室の扉の前に立つ。
一瞬の躊躇ののち、扉を押し開け中に入る。
そこには、ヘスティアと、ひとりの少年の姿があった。
白い髪。
赤い瞳。
細く、頼りなげな体躯。
だが、その瞳には、紛れもなく、刻印の直後にしか宿らない高揚と緊張が同時に張りついている。
――眷属となったばかりの者。
視線が合う。
ほんの一瞬。
だが、その刹那に、己の内側に、かすかな感覚が走る。
己の中にまだ残る、幼い頃の不安や好奇心の残像が、この少年の瞳に反射しているように見えたのだ。
重ね合わせるのではなく、ただ――似たものを感じる。
かつての自分の片鱗を、遠くから眺めるように。
それは、守りたいという感情とも、導きたいという衝動とも、違う。
ただ、この存在が、どこへ辿り着くのかを、
見届けてみたいという、奇妙な予感だった。
名も知らぬこの少年は、未知の可能性を秘めた存在だ。
そして、己の中で微かに震えるものは、この瞬間、まだ言葉にならないまま胸に留まった。