世界に触れて、私は私になる   作:浅風境

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現実の牙

 

 

湿った空気が、肺の奥にまとわりつく。

岩肌を伝う水滴の音が、やけに大きく、やけに規則正しく、思考の隙間を埋めていく。

 

天井は高く、光源の淡い輝きが、複雑に屈折しながら通路を照らしていた。単調な構造。直線と曲線の反復。

 

初めて踏み入れてから幾日の階層であるにもかかわらず、そこにはすでに「慣れ」が入り込みつつあった。

 

ベルと二人、三階層、四階層へと探索を進める中で、

索敵、迎撃、退路確保、魔物の連携への対処。

それらは、繰り返される戦闘と失敗を通して、次第に身体と感覚へと沈殿していった。

 

情報は、力になる。

理解は、生存確率を押し上げる。

経験は、判断を速める。

 

それらが積み重なるにつれ、無意識のうちに、ひとつの感覚が芽生えていた。

 

――安定。

 

それは、成長の証であると同時に、

危機感の摩耗でもあった。

 

ダンジョンという不確実性の塊に対して、人は「慣れ」という名の仮初の秩序を築こうとする。

それが錯覚であると知りながら、なお、そこに足場を求めてしまう。

 

危険を理解している、という感覚。

それは、いつの間にか、危険を制御している、という錯覚へと変質していた。

 

そのことに、気づけぬまま。

 

瞬間、地鳴りが走った。

 

空気が、震えた。

鼓膜が、低く軋む。

 

これまで遭遇してきた魔物のいずれとも異なる、圧倒的な質量の振動。

存在そのものが、空間を歪めているかのような感覚。

 

洞窟の奥。

闇の中から、それは姿を現した。

 

巨大な体躯。

隆起した筋肉。

紅に染まる双眸と、血の色を宿す角。

 

ミノタウロス。

 

中層に生息するはずの怪物。

それが、上層――しかも第四階層に現れたという事実だけで、この状況が、単なる不運や偶然ではなく、構造的な「異常」であることを悟る。

 

 

ダンジョンが、殺しに来た。

 

 

そう理解するほか、なかった。

 

思考が、急速に冷却される。

逃走経路、地形、距離、視界の抜け。

あり得る限りの要素を、直感と理性の境界で掴み取ろうとする。

 

だが、それらは形を成す前に、次々と霧散していった。身体は、すでに動き出していた。

 

ベルの手を引き、走る。

背後から、空気を引き裂く咆哮。

 

音が、内臓を叩く。

心臓が、無秩序に脈打つ。

 

曲がり角を選び、わずかでも視界の遮られる通路へと身を滑り込ませる。

ただ、追われているという事実から、ほんの一瞬でも逃れるために。

頭の中では、冷静な判断が、なおも回転を続けていた。

 

だが。

 

足音が、近い。

 

岩を砕く衝撃。

通路全体が、わずかに揺れる。

 

距離は、急速に縮まっていく。

 

やがて、行き止まり。

 

前方は、岩壁。

退路は、ない。

 

視界が、一瞬、白くなる。

 

振り返った刹那、

巨影が、すべてを覆い尽くした。

 

視界いっぱいに迫るその影を前に、

逃げ場も、抗う余地も、言葉にする間もなく、

ただ「終わり」という感覚だけが、理解よりも先に流れ込んできた。

 

思考は、なおも何かを掴もうと足掻いていた。

だが、その営み自体が、既に空回りしていることに、

気づく余裕はなかった。

 

ベルの叫び声。

震える両手で、ただ顔を覆うだけのその姿。

 

その光景が、奇妙なほど、遠くに見えた。

 

死。

 

その輪郭が、はっきりと、視界の中心に浮かび上がる。

 

ここに至って、ようやく理解した。

 

考えるという営みが、

生存を保証する万能の盾だという前提が、

音を立てて崩れ落ちたのだと。

 

情報も、理性も、論理も、

この圧倒的な存在感の前では、

ただ、薄く脆い膜のように引き裂かれていく。

 

思考は、答えを出せない。

 

否。

 

答えの出ない問いを、突きつけられただけだった。

 

恐怖が、全身を満たす。

血流が、異常な速度で巡り、視界が狭まっていく。

 

理性が、沈黙する。

 

代わりに浮上してきたのは、

原始的で、無秩序な、生存本能。

 

逃げられない。

死にたくない。

考えるな。

何も考えるな。

 

その瞬間、

これまで積み上げてきた「考える自己」が、

内側から、静かに崩れ始めた。

 

 

 

――刹那。

 

金色の閃光が、視界を貫いた。

 

轟音。

衝撃。

次の瞬間、巨体は塵と化し、魔石だけが床に転がっていた。

 

前に立つのは、金髪の少女。

剣を収め、何事もなかったかのような表情。

 

ベルの瞳は、恐怖と憧憬とがないまぜになったまま、彼女に釘付けになっていた。

 

理解できる。

その胸に、何が生まれたのか。

 

圧倒的な力。

死からの救済。

美しい存在への純粋な憧れ。

 

彼の内側では、確かに何かが、爆発的に芽吹いていた。

 

だが。

 

己の内側に残っていたのは、

静かな空洞だった。

 

恐怖。

安堵。

感謝。

そうした感情は、確かにある。

 

それでも、それらは、心の表層をかすめるだけで、

核心に触れることなく、虚空へと霧散していく。

 

思考は、そこで、意味を失った。

 

その事実だけが、

重く、沈黙したまま、内側に沈殿していく。

 

これまで、自身は信じてきた。

理解すれば、制御できる。

考え続ければ、生き延びられる。

 

だが、それは幻想だった。

 

思考とは、万能の盾ではない。

だが、無意味な装飾でもない。

 

それは、生き延びるための「答え」ではなく、

死に方を選ばないための「問い」にすぎない。

 

その問いが、

初めて、生存という現実と、真正面から衝突した。

 

そして、敗れた。

 

ダンジョンは、生きている。

人を選び、殺すために、

最も効果的な形で牙を剥く。

 

この日、

己の中でひとつの「自己」が、確かに死んだ。

 

思考する存在としての自分。

理性を拠り所に生きてきた、自分。

 

それが失われたとき、

時間もまた、そこで止まった。

 

 

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