世界に触れて、私は私になる   作:浅風境

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無の輪郭

 

 

事件以来、ダンジョンに足を踏み入れていなかった。

 

理由を言語化することは、できなくはない。

だが、それを言葉にした瞬間、すべてが確定してしまう気がして、無意識のうちに避けていた。

 

ただ、身体が動かなかった。

 

通路の湿った空気。

岩壁に反響する咆哮。

あの質量と圧力。

 

それらの記憶が、わずかな想像だけで、容易く現在を侵食する。

 

理性は、前に進めと命じている。

だが、思考は、あの日の地点から一歩も動いていなかった。

 

一方で、ベルは、変わらずダンジョンに潜り続けている。

 

毎朝、短剣を握りしめ、深呼吸をして、扉をくぐる。

その背には、以前のような怯えはない。

代わりに宿り始めているのは、拙くも、ひたむきな憧憬。

 

彼はまだ、強さを渇望してはいない。

ただ、追いかけているだけだ。

 

金色の剣閃。

風のような踏み込み。

あの日、見上げた背中。

 

その幻を、胸に抱いたまま。

 

彼女に救われたあの日から、ベルの意識は、無意識のうちに、あの背の残像を追いかけるようになっていた。

 

あの人に見られたい。

あの人に認められたい。

あの人に、応援してもらいたい。

 

幼く、甘く、未熟な願望。

 

だが、それこそが、今のベルを迷宮へと向かわせる、唯一の原動力だった。

 

 

 

一方で。

 

自分は、何も変わっていなかった。

 

――理解できなかった。

 

その事実だけが、

静かに、胸の奥に沈んでいく。

 

何が起きているのか。

何が足りなかったのか。

どうすれば回避できたのか。

 

思考は、

そのどれにも、答えを出せなかった。

 

だからこそ、

あの日の出来事は、致命的だった。

 

――破綻した。

 

前に立つことも、

剣を振るうことも、

ただ、そこに立つことさえできなかった。

 

その事実を、後から、

「思考という構造の破綻」と呼ぶしかなかった。

 

その事実が、

静かに、だが確実に、自己の輪郭を侵食していく。

 

思考は、答えを出せなかった。

 

戦術も。

予測も。

判断も。

 

あの瞬間、何一つ、役に立たなかった。

 

それは、

「失敗」ではなく、「否定」だった。

 

思考を武器としてきた自分という存在そのものが、

迷宮という現実に、否定された。

 

 

 

 

その日もベルは、ひとりでダンジョンへ向かった。

 

途中、見知らぬ少女に声をかけられ、

その流れで〈豊穣の女主人〉へ誘われたらしい。

 

夕刻、廃教会の扉が、控えめな音を立てて開いた。

 

「……その、今日さ。一緒に、夕飯、どうかな」

 

ほんの一瞬の、躊躇。

 

それだけで、十分だった。

 

以前なら、気取らず、気安く、声をかけてきただろう。

 

それが今は、

一線を引いた言葉遣いになっている。

 

拒む理由はなかった。

 

ただ、頷くのが、少し遅れただけだった。

 

 

 

〈豊穣の女主人〉は、初めて足を踏み入れる場所だった。

 

酒と料理と笑い声。

冒険者たちの熱気に満ちた空間。

 

圧倒されるベルの隣で、

店内の構造、客層、動線を、無意識に観察している自分がいる。

 

思考は、まだ、癖として残っていた。

 

だが、それはもはや、

「武器」ではなく、

ただの「反射」に近い。

 

 

 

シルの案内で、カウンター席に腰を下ろす。

 

店主のミアの豪快な歓迎。

次々に運ばれてくる料理。

 

ベルは、完全に飲まれていた。

 

その様子を横目で見ながら、

ふと、ベルが、店内の奥の空席を気にしていることに気づく。

 

「どうして、あそこだけ空いているんですか?」

 

「ロキ・ファミリアの皆さんの、予約席なんですよ。今日は遠征帰りの打ち上げで」

 

その名を聞いて、

ベルの身体が、わずかに跳ねた。

 

 

 

しばらくして、

店の扉が大きく開く。

 

数十人規模の集団。

 

ロキ・ファミリア。

 

圧倒的な存在感が、酒場の空気を一変させる。

 

その中心に、

金色の髪。

 

アイズ・ヴァレンシュタイン。

 

ベルは、反射的に、目で追った。

 

命を救ってくれた美しい少女への憧憬が、

その赤い瞳に凝縮している。

 

 

 

宴が進み、

酒と笑い声が、さらに騒がしさを増した頃。

 

 

低く荒れた声が、場の空気を切り裂いた。

 

振り向いた先にいたのは、

灰色の耳と尾を持つ、獣人の男だった。

 

鋭い犬歯覗かせた笑み。

その立ち姿は、

冒険者というより、

迷宮の獣を思わせる。

 

 

「アイズ!そろそろ例のあの話、皆に披露してやろうぜ!」

 

話を振られたアイズにはよく解らなかったのか首を傾げる中、男は機嫌よさげに語る。

 

「あれだって、帰る途中で何匹か逃したミノタウロス!最後の一匹、お前が四階層で始末した時の、トマト野郎の事だよ!」

 

 

その瞬間、

ベルの呼吸が、わずかに乱れる。

 

 

語られるのは、

ロキ・ファミリアの遠征帰還途中に起きた出来事。

 

逃げ出したミノタウロスの群れ。

上層へとなだれ込む異常事態。

 

そして――

4階層で、

駆け出しの冒険者二人が、追い詰められていた話。

 

「ひょろくせぇガキでよ」

 

男の嗤い声。

 

「壁際で震えて、逃げ場もねぇって顔してやんの」

 

酒場に、どっと笑いが起こる。

 

ベルの手が、膝の上で、強く握り締められる。

 

 

 

「雑魚じゃあ、アイズ・ヴァレンシュタインには釣り合わねえ」

 

 

 

その言葉が、

決定打だった。

 

 

 

ベルは、席を蹴って立ち上がり、

そのまま、店を飛び出した。

 

泣きながら。

 

 

 

 

外の夜気が、肌に冷たい。

 

追いかけるべきだったと、

頭では理解している。

 

だが、足が、動かない。

 

 

 

――雑魚。

 

その言葉は、

誰に向けられたものか。

 

 

自分自身には、正確に突き刺さっていた。

 

 

 

迷宮の示す論理は、単純だ。

 

弱い者は、死ぬ。

強い者だけが、生き残る。

 

そこに、情も、理想も、介在しない。

 

思考を巡らせても、

その構造を、否定できなかった。

 

その事実だけが、

静かに、胸を満たしていく。

 

 

 

ベルは、泣きながらも、走っていた。

 

悔しさを、

その足に、確かに変換している。

 

一方で。

 

自分は、立ち尽くしたままだ。

 

 

 

考えれば考えるほど、

自分という存在の輪郭が、薄れていく。

 

思考は現実を止められない。

 

それでも、考えることしかできない。

 

どれほど考えても、

どれほど予測しても、

 

迷宮の暴力は、

それらを容易く踏み潰す。

 

思考だけで戦えるほど、

この世界は、甘くない。

 

 

 

――では、自分は、何のために存在している?

 

 

 

その問いに、

もはや、答えは返ってこなかった。

 

 

 

廃教会に戻り、

寝台に横たわる。

 

天井の染みを、ただ見つめる。

 

思考は、回らない。

 

問いを立てる力すら、失われている。

 

 

 

生きている。

それだけが、残っている。

 

だが、それは、

存在意義ではなく、

ただの、生命反応にすぎない。

 

 

 

かつて、

世界を理解できると信じていた感覚。

 

考えれば、

何かが見えると信じていた日々。

 

それらは、

都市と迷宮という現実の前で、

完全に、意味を失った。

 

 

 

この夜、

確かに、己は死んだ。

 

 

 

それは、悲劇ではない。

激情でもない。

 

ただ、

世界の構造に照らされたとき、

不要と判断された、

ひとつの存在の終焉だった。

 

 

 

静かな夜。

 

尖塔の影が、

廃教会の床に、長く伸びている。

 

その下で、

何者でもなくなった自分が、

ただ、息をしていた。

 

 

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