世界に触れて、私は私になる   作:浅風境

6 / 7
再定義された輪郭

 

 

夜の迷宮は、静かだった。

だが、その静寂は、安らぎではない。

 

それは、無数の生と死が折り重なった末に生じる、

張りつめた均衡だった。

 

ベルは、走っていた。

 

石畳を蹴り、肺を焼くように空気を吸い込み、

ただ前へ、前へと。

 

思考は、ほとんど働いていない。

戦術も、計算も、冷静な判断もない。

 

あるのは、内側から突き上げる衝動だけだった。

 

――強くなりたい。

 

それは、願いではなく、

自己否定の裏返しだった。

 

弱さ。

無力。

嘲笑。

憧憬。

 

それらすべてが、ひとつの塊となり、

彼の背を押している。

 

迷宮に潜るという行為は、

もはや成長のためではない。

 

自分という存在の価値を、

痛みと恐怖によって測り直すための行為。

 

倒す。

進む。

傷つく。

立ち上がる。

 

だが、敵を屠るたび、

胸の奥に残るのは、達成感ではなく、

より深い否定だった。

 

――まだ足りない。

 

――まだ弱い。

 

否定を、求めている。

 

否定され続けることでしか、

前に進めないと、

信じ込もうとしているかのように。

 

 

 

 

 

 

廃教会。

 

冷たい石床に腰を下ろし、

自身は、静かに時を待っていた。

 

ベルが、戻っていない。

 

その事実は、思考の空白に、

ゆっくりと沈殿していく。

 

時間。

階層。

消耗。

 

どれを考えても、

帰還していておかしくはない。

 

理由は、考えなくても分かる。

 

酒場。

嘲笑。

雑魚。

 

それらが、一本の線で繋がる。

 

止めるべきだった。

そう、思う。

 

だが、止められなかった。

 

なぜか。

 

――分からない。

 

恐怖だったのか。

無力感だったのか。

あるいは、

自分自身の存在を信じきれなかったのか。

 

思考は、そこから先へ進めず、

同じ地点を、何度も巡る。

 

「……」

 

言葉にならない。

 

考えることで世界と距離を取ってきたはずなのに、

その思考が、今は、

何ひとつ機能していない。

 

それが、

何よりも、耐え難かった。

 

 

 

「ねえ」

 

背後から、小さな声。

 

振り返ると、

そこに、ヘスティアが立っていた。

 

いつもの姿。

だが、その瞳だけが、

異様なほど静かだった。

 

「ベル君、まだ帰ってこないね」

 

頷く。

 

彼女は、隣に腰を下ろす。

 

しばらく、沈黙。

 

「君さ」

 

「もう考えるの、やめちゃった?」

 

その一言が、

胸の奥に、静かに落ちる。

 

否定できなかった。

 

思考は、動いている。

だが、それは、

意味を持たない反射に過ぎない。

 

「考えても、何も変わらなかったから?」

 

「考えても、守れなかったから?」

 

守る、という言葉に、

微かな違和感が走る。

 

だが、それすら、言語化できない。

 

「ね」

 

ヘスティアは、静かに言う。

 

「思考ってさ」

 

「役に立たなきゃ、意味がないと思う?」

 

 

 

――役に立つ。

 

その言葉が、

思考の深部を、微かに揺らす。

 

 

 

「君は、ずっと、考えることで生きてきた」

 

「世界を理解しようとして」

 

「構造を見つけようとして」

 

「意味を掴もうとして」

 

「でもさ」

 

「それって、本当に」

 

「生き残るためだった?」

 

 

 

思考が、軋みながら、動き出す。

 

生き残るため。

 

そう、思い込もうとしていた。

 

だが――

 

違う。

 

もっと根源的な衝動。

 

理解したかった。

知りたかった。

世界の正体を、

構造を、

法則を。

 

それは、生存とは別の、

存在理由だった。

 

 

 

「思考はね」

 

ヘスティアは、穏やかに続ける。

 

「武器じゃない」

 

「盾でもない」

 

「命を守る力でもない」

 

 

 

「でも」

 

「考えなくなったら」

 

「人は、人でいられなくなる」

 

 

 

胸の奥で、

何かが、音もなく崩れる。

 

 

 

思考が役に立たなかった。

それは、事実だ。

 

だが――

 

それは、

思考が「無意味」だったことを、

意味しない。

 

思考とは、

勝つための道具ではない。

 

生き残るための装置でもない。

 

 

 

――思考とは、

世界と向き合い続けるための、

唯一の手段だ。

 

 

迷宮は、思考を嘲笑う。

 

圧倒的な暴力で、

すべてをねじ伏せる。

 

だが、

それでも、考え続ける。

 

理解できなくても。

答えが出なくても。

 

それでも、問いを手放さない。

 

 

 

それこそが、

己という存在の、

唯一の輪郭だったのではないか。

 

 

 

「……」

 

言葉にならない。

 

だが、

確かに、何かが戻ってくる。

 

 

 

「君はさ」

 

ヘスティアは、微笑む。

 

「戦う人じゃない」

 

「走る人でもない」

 

「でも」

 

「考える人だよ」

 

「迷う人」

 

「立ち止まる人」

 

「問い続ける人」

 

 

 

「ベル君は、走る」

 

「だからこそ、時々、崖へ向かう」

 

 

 

「その時」

 

「止めなくていい」

 

「前に立たなくていい」

 

 

 

「ただ」

 

「問いを、差し出してあげて」

 

 

 

――問いを。

 

 

 

思考が、

静かに、像を結ぶ。

 

自分は、

世界の正解を示す存在ではない。

 

だが、

問いを手放さずにいられる存在。

 

迷宮の中で、

考えることをやめなかった人間。

 

 

 

それで、いい。

 

 

 

 

 

 

夜明け前。

 

扉が、ゆっくり開く。

 

ベルが、戻ってきた。

 

全身、傷だらけ。

 

血と汗にまみれ、

それでも、その目は、燃えている。

 

「……すみません」

 

「……遅くなりました」

 

息を整えながら、膝をつく。

 

 

 

「……僕は……強くなりたいです」

 

掠れた声。

だが、揺れてはいない。

 

 

「笑われても」

 

「怖くても」

 

「それでも」

 

 

言葉が、詰まる。

 

 

「……前に、進みたい」

 

 

思考が、静かに働き始める。

 

戦術ではない。

判断でもない。

 

ただ、

この言葉の意味を、

受け止めるために。

 

 

「……ベル」

 

名を呼ぶ。

 

「強さは、答えじゃない」

 

 

ベルが、息を詰める。

 

「……迷っていい」

「考え続けていい」

 

「走り続けなくていい」

 

「でも、立ち止まって」

「疑って」

 

「問いだけは、捨てないで」

 

 

 

「それが」

 

「生き残るよりも、難しいことだから」

 

 

 

ベルは、しばらく黙っていた。

 

やがて、小さく、頷く。

 

 

 

 

 

 

こうして。

 

自身は、再び、思考を取り戻した。

 

それは、武器ではない。

それは、防具でもない。

 

だが、

世界と向き合い続けるための、

唯一の輪郭。

 

 

――再定義された輪郭。

 

 

それは、

思考が否定された場所からしか、

立ち上がらない。

問いを捨てなかった者だけが、

辿り着ける場所だった。

 

 

 

 

ベルは、眠っている。

 

傷だらけの身体で、

それでも、穏やかな寝息を立てて。

 

その横顔を一瞥し、

自分は、静かに立ち上がった。

 

ゆっくりと地下室を抜け、

礼拝堂へ。

 

 

夜明け前の風が、

廃教会の割れた窓から吹き込んでいた。

 

冷たいはずの空気は、不思議と、心地よい。

 

胸の奥に残っていた澱のような重さが、

ゆっくりと、外へ押し流されていく。

 

やがて、扉を開け、

教会の外へ。

 

思考は、止まっていない。

 

だがもう、

それは自分を縛る鎖ではなかった。

 

問いを立て、

迷い、

立ち止まり、

それでも進むための――灯り。

 

 

遠く、迷宮都市オラリオの灯が、

まだ淡く瞬いている。

 

英雄も、神々も、怪物も、

すべてを呑み込むこの街で。

 

自分は、

刃でもなく、

盾でもなく、

ただ考え続ける存在として、歩いていく。

 

 

――それでいい。

 

 

束ねていた髪を解く。

 

指先をすり抜けて、

肩口にさらりと落ちた感触が、

現実を、静かに連れ戻す。

 

 

この世界で、

自分がどんな形をしているのか。

 

それを、ようやく、

肯定できる気がした。

 

 

夜が、明けていく。

 

再定義された輪郭を携え、

新しい一日が、始まろうとしていた。

 

 

 







強さは、答えではない。

生き延びるための解答は、世界のどこにも用意されていない。
あるのは、問い続けるという選択だけだ。

走ることをやめず、
考えることをやめず、
立ち止まることを恐れず、

それでもなお、世界に触れ続ける。

この物語が描いたのは、
英雄の誕生ではなく、
ひとつの「思考の姿勢」である。

もし、この物語のどこかに、
あなた自身の問いが重なったのなら、
それこそが、この物語唯一の結末だろう。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。