雄英高校の入学試験から四日が経過した。
暦の上では春が立ち始めているとはいえ、関東平野を吹き抜ける午後の風にはまだ冬の鋭い爪痕が残っている。
閑静な住宅街の一角。
整然と並ぶ建売住宅の中でもひときわ個性的で、かつ手入れの行き届いた一軒家の前に、難羽は立っていた。
表札には力強く、どこか荒々しささえ感じさせる筆致で爆豪の二文字が刻まれている。
難羽は一度、自身の学生服の襟元を正した。
彼にとって他者のテリトリーに足を踏み入れるという行為は、単なる友人訪問ではない。
それは社会というシステムを構成する最小単位——家庭への敬意を示すべき儀式であり、同時に自身の立ち位置を調整する重要なプロセスでもあった。
手土産の紙袋を持ち直し、彼は躊躇なくインターホンを押した。
電子音が鳴り終わるか終わらないかのうちに家の中からドタドタという足音が響き、勢いよく玄関扉が開かれた。
「はーい! どなた!?」
現れたのは、この家の主婦であり、爆豪勝己の母親である爆豪光己だ。
息子と瓜二つの勝気な吊り目と、金色の髪。
しかし、その表情は息子のそれとは対照的に春の日差しのように明るく、快活なエネルギーに満ちている。
彼女は来訪者が誰かを確認すると、パッと顔を輝かせた。
「あら、難羽くん! いらっしゃい!」
「こんにちは、お母さん。突然お邪魔してすみません」
難羽は深々と頭を下げ、手にした老舗和菓子店の紙袋を両手で差し出した。
「これ、駅前のひだまりの羊羹です。季節限定の桜餡が出たと聞きまして。お口に合うと良いのですが」
「まぁ! そんな気を使わなくていいのに! いつもありがとうねえ」
光己は嬉しそうに頬を緩め、紙袋を受け取った。
彼女にとって難羽輪太郎という少年の存在は、ある種の「奇跡」に近いものだった。
息子である勝己はその激情的な性格と言動の粗さゆえに、対等に付き合える友人が極めて少ない。
かつての幼馴染である緑谷に対してすら、歪んだ敵対心を剥き出しにしている有様だ。
そんな勝己が、文句を言いながらも師匠と呼び(あるいは便利な道具として扱い)、定期的に交流を持っているこの少年。
礼儀正しく、博識で、あのアクの強い勝己を掌で転がすような度量を持つ難羽に光己は絶大な信頼を寄せていた。
「あの子ったら家では全然話さないし、いつもムスッとしてるから……難羽くんみたいな礼儀正しいお友達が来てくれると、お母さん本当に安心するわ。どうぞ、上がって!」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
難羽が靴を脱ぎ、綺麗に揃えて上がろうとしたその時。
家の奥、リビングの方から、地を這うような低い唸り声と共に、ドカドカという乱暴な足音が近づいてきた。
「おいババァ!! 玄関でギャーギャー騒いでんじゃねーよ! 近所迷惑だろが!」
現れたのは黒いスウェットの上下に身を包み、両手をポケットに突っ込んだ爆豪だった。
不機嫌を絵に描いたような顔で、肩を怒らせて廊下を歩いてくる。
「何がババァよ! あんたねえ、友達が来てくれたのにもっとマシな態度は取れないの!? 難羽くんが来てくれたのよ!」
「あァ!? 知ってらァ! チッ……」
勝己は母親を一喝した後、玄関に立つ難羽を睨みつけた。
その視線には明確な敵意というよりは、自分の領域に土足で踏み込んでくる異物に対する、警戒と苛立ちが混ざっている。
「何の用だ、クソギーク」
吐き捨てるような悪態。
「お前の顔色を見に来たんだよ……それと、これだ」
難羽はもう一つ、別の紙袋から小さな包みを取り出し、無造作に差し出した。
「あ?」
勝己が怪訝そうに眉を寄せ、袋の中を覗き込む。
そこに入っていたのは、毒々しいほどに赤い液体が満たされた瓶——『地獄の業火・激辛食べるラー油(ハバネロ300%増量版)』だった。
ラベルには炎を吐く悪魔のイラストが描かれ、見るからに胃袋を破壊しそうな代物だ。
「……テメェ、俺に喧嘩売ってんのか?」
勝己の声色が一段低くなる。
だが、難羽は淡々とまるで薬の処方箋を読み上げる医師のように解説を始めた。
「好みだろう? それに、ただの嗜好品じゃない。カプサイシンによる強力な発汗作用は、君の基礎代謝を強制的に引き上げ、個性の燃料となる汗の生成サイクルを促進する……つまりこれは、極めて実用的な燃料補給だ」
難羽は薄く笑った。
それは勝己の強くなりたいという欲求を的確に突きつつ、同時に彼を実験動物のように観察する、マッドサイエンティストのような視線を含んでいた。
「ハッ……余計なお世話だ」
勝己は乱暴に手を伸ばし、その瓶をひったくるように奪い取った。
拒絶するかと思いきや、彼はその瓶をしっかりと握りしめ、ラベルをじっと確認している。
「……ま、今日の晩飯にぶっかけてやるよ。テメェの予測通りに汗が出るか、試してやる」
その光景を見ていた光己が、突如として両手で顔を覆い、大げさに身を震わせた。
「……っ! 勝己が……! 友達からプレゼントをもらって、それを投げ捨てずに素直に(?)受け取るなんて……! お母さん、感動だわ……!!」
目元をハンカチで押さえる光己。
その目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。
この家庭において、勝己が他者からの好意を(彼なりのやり方とはいえ)受容すること自体が事件にも等しい驚きなのだ。
「どこが素直だクソババァ!! 泣いてんじゃねえ! うっぜえんだよ!!」
勝己は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
その怒声は、単なる反抗期のものではなく、図星を突かれた恥ずかしさと、自分のペースを乱されることへの苛立ちが混ざった複雑な響きを持っていた。
「さっさと部屋行くぞクソギーク! ここにいたら鼓膜が腐る!」
「はいはい。お母さん、お茶は結構ですから」
難羽は光己に軽く会釈をすると、怒り肩で階段を上がっていく勝己の背中を追った。
騒がしくも温かい、エネルギーに満ちた家庭。
難羽はその光景を好ましく思いながら、階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
爆豪勝己の部屋に入ると、そこには意外なほどに整然とした空間が広がっていた。
床に散らかった雑誌や服はなく、机の上も整頓されている。
ただ、部屋の隅に置かれたトレーニング器具と、壁に掛けられた登山用のギアだけが、この部屋の主が持つ破壊と挑戦への渇望を無言で主張していた。
「……チッ」
爆豪は舌打ちを一つ落とすと、ドカッとベッドの上に胡坐をかいて座り込んだ。
難羽に椅子を勧めることもしない。
ここは俺の城だ、とでも言うような不遜な態度だ。
難羽はそれを気にする風もなく学習机の椅子を勝手に引き寄せ、背もたれを前にして跨るように腰を下ろした。
「で、なんだよ。試験の答え合わせでもしに来たのか?」
爆豪が腕を組み、挑発的な視線を向ける。
難羽は冷静な瞳で、目の前の猛獣を見据えた。
「それもある……試験の手応えはどうだった?」
「愚問だな。問題ねえよ」
爆豪は鼻を鳴らし、口角を吊り上げた。
その笑みには根拠のない過信ではなく、確かな実力に裏打ちされた自負が宿っている。
「雑魚ばっかだ。実技も筆記も、余裕でクリアだ……俺が一位じゃなきゃ、雄英の採点システムが狂ってるとしか思えねえな」
「だろうな……結果が出たぞ」
難羽は制服のポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を見もせずに、まるで明日の天気を告げるように淡々と告げた。
「ヴィランポイント86点、レスキューポイント0点。合計86点……文句なしの1位だ。おめでとう」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
爆豪の眉間の皺が深くなり、怪訝な色が瞳に浮かぶ。
「……あ? なんでテメェが点数知ってんだ。結果発表はまだ先だろ」
「雄英のメインサーバーにバックドアから侵入し、採点データベースを直接閲覧した」
難羽は、さも「近所のコンビニに寄ってきた」と言わんばかりの平然とした口調で言い放った。
「は……?」
さすがの爆豪も、目を見開いて硬直した。
数秒の沈黙の後、事態を理解した彼の顔が驚愕に歪む。
「ハッキングだァ!? テメェ、何やってんだ! バレたら合格取り消しどころじゃ済まねえぞ! 犯罪じゃねえか!」
「私が清廉潔白な善人だとは、一度も言った覚えはないが?」
難羽は薄く笑った。
それは悪戯が成功した子供のような、それでいて底知れない深淵を覗かせる、食えない大人の笑みだった。
「それに私の痕跡は残らない。君の結果を確認する程度のアクセスなど、散歩のついでだ」
爆豪は呆れたように息を吐き、乱暴に頭をかいた。
「……イカれてやがる。ま、1位なら文句はねえ」
彼は難羽の異常性を再認識しつつも、それ以上追求するのをやめた。
このクソギークが、法や常識ではなく、独自のルールと美学に基づいて動いていることはこれまでの付き合いで嫌というほど理解している。
そして何より、爆豪自身も勝つためならば手段を選ばない貪欲さを持っているからだ。
「さて、評価の時間だ」
難羽は表情を引き締め、話題を切り替えた。
ここからが本題だと言わんばかりに、その声に熱が帯びる。
「今回の試験、動きは悪くなかった。特に私が課した特訓の成果が明確に出ていたな」
難羽は空中に指を走らせた。
まるで見えないホワイトボードに図解するかのように、流暢に解説を始める。
「以前は爆破という強力な飛び道具に頼り切りだった。遠距離から吹き飛ばし、近づかれる前に潰す……だが今回は、格闘術との融合が見られた」
難羽が評価したのは、試験会場で暴れていた巨大な仮想ヴィラン、3Pロボに対する爆豪の立ち回りだ。
通常の受験生なら距離を取って攻撃するところを、彼は爆風で加速して懐に飛び込んだ。
そして、その長い首を両脚で挟み込むクリンチの状態へ移行したのだ。
「至近距離での爆破の反動を利用し、自身の体を独楽のように高速回転させた。遠心力、爆発の推進力、そして自身の体重。その全てを乗せたねじ切りで、あの重装甲の首を物理的に引き千切った」
さらに別の重装甲ロボットに対しては、爆破で加速した勢いを殺さず、そのまま全体重を一点に集中させたドロップキックを叩き込み、分厚い装甲を貫通させていた。
「爆破一辺倒ではなく、爆発を身体操作のブースターとして使いこなしていた……鍛え上げた肉体そのものを兵器へと昇華させる戦い方だ。素晴らしい」
「当たり前だ。テメェのところのクソ硬いロボット相手に、散々やらされたからな」
爆豪はニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
難羽が秘密裏に用意した地下施設。そこで味わわされた数多の敗北と屈辱が、彼を単なる移動砲台から、人間兵器へと進化させていたのだ。
「だが、私が最も評価したのは攻撃ではない」
難羽は人差し指を立て、爆豪の目を射抜いた。
「移動だ……お前は今回派手な空中機動を捨て、地上での爆破移動を多用していた」
爆豪の個性は強力無比だが、燃料である汗を消費する。
空中を飛び続けるのは見栄えが良く他者を威圧するには最適だが、燃費が悪く、着地時の隙も大きい。
今回の試験で彼が見せたのは、地面スレスレに掌を向け、小規模な爆発を断続的に起こすことでまるでホバークラフトのように地を滑る高速移動だった。
「低空姿勢での移動は敵の視界や射線から消えやすく、回避の選択肢を増やす。そして何より、エネルギー消費を最小限に抑えられる」
難羽は満足げに頷いた。
それは、優秀な弟子を褒める師匠の顔であり、同時に子の成長を喜ぶ親のような顔でもあった。
「空を飛んで目立つことよりも確実に敵の懐に潜り込み、急所を突くことを選んだ……それは見世物としてのヒーローではなく、勝つための戦術だ。お前はヒーローである以前に、一人の戦士になった」
勝己はふんと鼻を鳴らし、先ほど受け取った激辛ラー油の瓶を掌で弄んだ。
瓶の中の赤い液体が、彼の瞳と同じ色で揺らめいている。
「俺は完膚なきまでに勝つのが好きなんだよ。そのためなら地を這うことぐらいやってやる……泥にまみれようが、最後に立ってるのが俺なら、それが最強だろ」
「その意気だ」
難羽は椅子から立ち上がった。
窓の外には、夕闇が迫りつつある。
「雄英に入れば、その戦い方はさらに磨かれるだろう。だが忘れるな……お前が目指すべきは学校が教える優等生の枠には収まらない、圧倒的な個だ。誰の真似でもない、自分だけの最強を定義しろ」
「言われなくても分かってるわクソギーク……次はテメェの作ったあのロボットも、スクラップにしてやるからな」
「楽しみにしているよ」
難羽は部屋のドアを開け、廊下へと出た。
その背中を見送りながら、勝己は手の中の瓶を強く握りしめた。
怪しい奴、犯罪者スレスレのハッカー、そして自分を導く奇妙な師匠。
難羽輪太郎という異物は、爆豪勝己という才能の中で、確実に化学反応を起こし始めていた。
それはやがて来る『オールフォーワン』という絶望に対抗するための、最強のワクチンの生成過程でもあった。
「……汗を爆破させる個性と汗をかくものを好む体質。やはり個性因子とはおぞましいものだ」
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