弱肉強食の世界。
力を持つ者が、持たざる者を蹂躙し支配する世界。
それは自らを強者だと信じて疑わない者にとって極めて心地よく、都合の良い理屈である。
しかし、その絶対的なルールは致命的な欠陥を抱えている。
自分よりもさらに強い力を持つ者が現れた瞬間、その世界とアイデンティティは根底から崩壊するという残酷な真理である。
今、深い森の中で繰り広げられているのは、戦いと呼ぶことすら烏滸がましいただの解体作業であった。
漆黒の装甲に身を包んだ死の顕現、仮面アクター。
彼の放つ連打が寸分の狂いもなく、そして無慈悲にナインの肉体へと叩き込まれていく。
ナインの身体には複数の強力な個性が宿っている。
しかし、彼自身がそれらの個性を強奪してからまだ半年も経過しておらず、練度は素人に毛が生えた程度に過ぎない。
何より、彼の持つ個性群には互いを高め合うような相乗効果が全く存在せず、肉体への凄まじい負荷のせいで同時使用すら不可能であった。
近接戦闘において彼が頼みとするのは、透明なエネルギーの盾を展開する防御の個性だ。
しかし、それも自身の周囲全方位に自動で発生するような便利なものではなく、あくまで自身の掌から発生させる指向性のタイプである。
その程度の防御で、仮面アクターの超高速の挙動を捉えきれるはずがなかった。
仮面アクターの拳はナインの急所や致命傷となる部位をあえて外し、彼の両腕へと集中的に叩きつけられた。
肉が割れ、骨が軋む鈍い音が森に響く。
腕の骨を精緻な打撃でへし折り、物理的な操作性を完全に奪い去る。
それと同時に骨折による強烈な激痛を脳に叩き込むことで、ナインが複数の個性を切り替えて使用するための集中力を根こそぎ刈り取っていく。
すべては相手の反撃の芽を論理的に摘み取るための、極めて冷酷な戦術であった。
「……あ、ガァァァッ!!」
激痛に顔を歪めながら、ナインは背中から青色のエネルギーを爆発的に噴出させた。それは二匹の巨大な竜の形を構成し、強大な質量と破壊力を持って仮面アクターを噛み砕こうと襲い掛かる。
だが、仮面アクターは迫り来る巨大な竜の顎を見上げることもなく、自身の両腕の装甲に備わった機構を静かに起動させた。
『ダブルアーム・ヘラクレス』
無機質な電子音声と共に、彼の両腕に重厚な甲虫を思わせる油圧式の巨大な装甲腕が展開される。
仮面アクターは襲い掛かる竜の頭部ではなく、そのエネルギーが放出されている根本──ナインの背中の直上へとその強靭な腕を突き入れた。
そして二匹の竜を発生源ごと強引に掴み上げると、自らの身体を反転させてナインの身体を頭から地面へと激しく叩きつける。
大地が震え、クレーターが形成される。
あらゆる個性を複合させて襲い掛かってきた魔王が持つ個性オール・フォー・ワン。
その本家本元の持ち主をすでに屠っている仮面アクターにとって。
彼と同じような個性の強奪能力を持ちながら、個性の連携も知らず、自身の肉体すら制御できていないナインなど完全なる下位互換でしかない。
現在の戦場は深い森の中であり、島民はすでにナガンの手によって安全な場所へと避難が完了している。
さらに、先ほど海上で狙撃した二人のヴィラン、そしてホークスが相手取っていた獣人も無事に捕縛したという通信が入っていた。
もはや仮面アクターの行動を制限する人質も、ハンデとなる要素も一切存在しない。
安全装置を完全に解除された漆黒の暴力人形がナインの誇りも肉体も、ただ淡々と粉砕していく。
「あ、アアアアアアアアアアッ!!!」
もはや言葉としての意味を成さない、絶望と怒りの絶叫。
追い詰められたナインは天に向かって血を吐くように叫びながら、彼が持つ最強の個性である天候操作を全開で発動させた。
晴れ渡っていた南の島の青空に、一瞬にして墨汁を流し込んだような分厚い暗雲が立ち込める。
大気が異常な静電気を帯び、次の瞬間、鼓膜を破るような轟音と共に、天から極太の
それは仮面アクターを狙ったものではない。
ナイン自身と彼を押さえつけている仮面アクターの両方を巻き添えにする自傷前提の一撃であった。
しかし、落雷の凄まじい閃光と熱線の中にあっても仮面アクターの動きが止まることはなかった。
この超人社会において、特殊な強化服や強固な装甲服といったものを着込んで戦うヒーローやヴィランは極めて少ない。
自身の肉体そのものが鎧となるような個性が多いことや、一定以上の強度を持つ兵器規格の防具を作ろうとすれば、厳しいサポートアイテムの法律規定に引っかかるといった要因はある。
詰まるところ、生身の延長線上で戦う者がほとんどなのだ。
ナインがこれまで蹂躙してきた敵たちも皆そうであった。
だが、目の前の漆黒の死神は違う。
仮面アクターは個性を伸ばすためではなく、純粋に敵を殺戮するためだけに一世紀をかけて人工的に設計・製作された究極の戦闘用ボディである。
当然、現代のヒーローたちが直面するであろう火炎、氷結、そして電撃に対する幾重もの防御機能があらかじめ完全に組み込まれていた。
落雷の直撃を受ける刹那。
仮面アクターの両腕の装甲から、無数の細い紐のような特殊繊維が一斉に伸びて展開された。
その形状は、まるでかつての古いアメリカのロックスターが着ていたステージ衣装の腕の装飾──いわゆるエルヴィス袖のような長く優雅なフリンジに似ている。
『サンダー・ウールワーム』
空間に満ちた絶大な電撃のエネルギーに反応し、その無数の繊維が生き物のように逆立つ。
それは莫大な電圧を完全に吸収・蓄電する特殊な絶縁と伝導の複合素材であった。
落雷の直撃をその袖で完全に吸い上げた仮面アクターの腕は、今や純粋な雷光の刃を纏った恐るべき兵器へと変貌していた。
仮面アクターは自身の身体を抱きしめるように両腕を交差させて構え。
そしてその雷刃を、空へ向かって大きく外側へと振り抜いた。
吸収された莫大な雷撃のエネルギーが、強烈な逆位相の刃となって空へ向かって放たれる。
雲を切り裂き、大気のバランスを強制的に崩壊させる一撃。
ナインが命を削って生み出した暗雲と嵐はその一振りによって一瞬にして空へと霧散し、再び強烈な夏の陽射しが森へと降り注いだ。
天候すらも力でねじ伏せられたナインが、呆然と空を見上げる。
『チェーン・センチピード』
仮面アクターの背中から、重厚な鋼鉄で構成された巨大な
生き物のように蠢く鋼の多関節チェーンが地に伏すナインの肉体に瞬時に巻き付き、彼の両腕と胴体をミシミシと音を立てて締め上げ、完全に拘束した。
「ガ、ハッ……!」
限界を超えた無茶な個性の連続使用による代償で、自身の体内の細胞が次々と死滅していく明確な感覚。
ナインの口から大量の黒黒とした血が止めどなく溢れ出し、土を赤く染めた。
ここに、一切の反論の余地がないほどの完全な決着が着いた。
一世紀という途方もない時間をかけて組み上げられた圧倒的な物理的暴力の塊。
その前に、他者から強奪した付け焼き刃のたった九つの個性など役にも立たない。
「……俺は、王になる……ならなければ、ならないのに……」
血の混じった泡を吹き、全身を鋼鉄の百足に縛られながら、ナインが虚空を見つめてうわ言のように呟いた。
「俺たちを化け物と迫害した、あの弱者どもを……強者である俺たちが、絶対的な力で支配する世界を、創らなければ……」
「……しまったな。隙を見せたか」
仮面アクターは静かにため息をついた。
隙あらば自分語り。
彼がこれまで叩き潰してきたヴィランの中にも、肉体的にも精神的にも完全に追い詰められ、敗北を悟った瞬間、突如として自身の悲惨な過去や境遇を語り出す者が一定数存在した。
それは決して相手に同情を求めているわけではない。
他者に受け入れられず社会から弾き出された者が、最後にせめて、自分の行動は決して間違っていなかったのだと自分自身に強く主張し、肯定したいがために無意識に漏れ出る防衛反応の言葉だ。
難羽も戦ってきたすべてのヴィランを無慈悲に殺してきたわけではない。
真の巨悪や更生不可能な外道は殺すが、状況によっては生かして情報を引き出したり、利用したりすることもある。
だからこそ、こうした死の間際のうわごとを呟くヴィランに遭遇する経験は幾度となくあった。
そうした自分語りをする者の共通点。
それは、どれも社会一般的なまともな思考を持ち合わせていないこと。
あるいは幼少期の極めて異常な環境や迫害が、彼らの人格形成に致命的な影響を与えているということであった。
先ほどの『化け物と迫害した弱者ども』という発言から推測するに。
このナインという男もまた、自身の特異な個性に対する強烈な偏見と差別が蔓延る、閉鎖的な環境で育ってきたのだろう。
そして、難羽の分析はさらにその先を見透かしていた。
この男はおそらく、最低限の義務教育すら満足に受けていない可能性が高い。
彼の戦闘における個性の使い方、そして彼が現在陥っている細胞の死滅という体質を見て、すでに真実にたどり着いたからこその推測だ。
「……ナイン。その名前は、お前を改造した人間が付けたものだな」
ナインに逃げ場がないことを確認した上で、仮面アクターは低い声で問いかけた。
ナインは痛みに顔を歪めながらも肯定する。
「……そうだ。強大すぎる個性に耐えられず、崩壊していくこの身体を治すため……俺は自ら、実験体となることを決めた」
ナインの瞳に、絶望と狂気が混ざり合う。
「複数の個性を宿しても、決して壊れることのない最強の肉体を創り上げる……それが、俺に『ナイン』というこの名を付けた男の、真の目的だったからだ……」
その言葉を聞いた仮面アクターは演身を解除する。
二十代の青年の姿となった難羽は拘束されて動けないナインを見下ろしながら、心底呆れたように深々とため息をつき、その場の大地に腰を下ろした。
(……やはりな)
この男を改造し、複数の個性を与えた犯人が
そして何より。
ナインと名付けられ、自分を新しい世界の王だと信じて疑わなかったこの男。
その正体が、実際にはどこまでも殻木に利用されているだけのただ搾取される弱者でしかなかったことが、難羽には分かってしまった。
殺意が薄れ、憐れみを覚える。
ヴィランという存在は、誰もが最初から純粋な邪悪であるわけではない。
持って生まれた暴力性や支配欲からではなく。
社会のルールを知らないがゆえに、世界がどう回っているのかという真理に無知であるがゆえに、ただ本能のままに暴れるだけの者がいる。
そういった無知なるヴィランは、どこまでも冷酷で、真に邪悪な知性を持つ者の掌の上で都合の良い駒として利用されるだけだ。
ナインという男は、強奪した九つの個性を力任せに操る。
たったそれだけだ。
彼が裏社会に築いたネットワークはなく。
付き従う部下はたったの三人。
彼が思い描く「強者によって支配される社会」という夢にも、国家の運営や経済の維持といった明確なヴィジョンや設計図は一切存在しない。
ただの子供の腹いせと変わらない妄想だ。
捕縛した他の三人から聞いた目的とナインの体質について難羽はナガンたちから報告を受けていた。
そして今、ナイン自身の口から語られた過去の断片と、彼の体質。
それらの情報は難羽の中で結びついた。
知らないことは人間を苦しめる。
しかし、知りすぎることも人間を苦しめる。
ナインの個性が生み出した暗雲は完全に消え失せ、南の島の空はどこまでも高く、青く澄み渡っている。
「……授業をしよう。お前のその体質と、お前の持つ『個性』の真実について」
難羽は胡座をかいたまま、ナインに向かって静かにそう告げた。
活真たちに向けたものとは全く意味合いの異なる。
死神によるの青空教室である。
「……そんな説明は、いらない」
縛り上げられたまま土に顔を擦り付け、ナインはうなだれるようにして低く答えた。
彼の声には、先ほどまでの傲慢さは微塵も残っていなかった。
鋼鉄の百足に全身の骨を軋ませられ、細胞が死滅していく激痛の中で、彼は己の完全な敗北を悟っていた。
仮にこの身動きの取れない状態から脱出できたとしても、目の前の男に一瞬で再び捕縛されることは実力差から理解している。
もはや自分は警察に引き渡され、あのタルタロスへと送られる以外の結末は残されていない。
彼はすべてを諦めた者の空虚な声で言葉を紡いだ。
「俺は、自分の身体が長くないことを理解した上で、あの子供の個性を狙った……俺が敗れたのは力が足りなかったからだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「いや。お前は何も理解していない」
難羽はナインの言葉を冷酷に否定した。
「そもそも、自身の肉体の崩壊を止めるために医療や科学ではなく、個性という奇跡に頼ろうとしたその時点で。お前は個性の本質というものを、一ミリも理解していない」
難羽は、これから自分が口にする言葉が決して敗者への慈悲などではなく、彼が縋り付いている最後の自尊心を完全に叩き折り、諦めすら許さない底なしの絶望へと突き落とすほどの劇薬であることを理解していた。
しかし、彼は容赦なくそれを浴びせる。
「お前は、自身の身体が崩壊していくこの激痛を、強大な個性を宿しているがゆえの代償だと高尚に受け取っているようだが……違うぞ、ただ単にお前が馬鹿だからだ」
「……ふざけるな!」
突然の強烈な侮辱にナインは顔を上げて激昂し、怒鳴り声を上げた。
初めて会った得体の知れない男に、己が背負ってきた壮絶な苦痛と体質を、あろうことか「当たり前のことが理解できない愚か者だから」という身も蓋もない理由で馬鹿にされることなど、彼のプライドが許さなかった。
しかし、難羽の彼を見下ろす瞳は氷のように冷たく、ひどく静かであった。
難羽は相手を挑発するために暴言を吐いているわけではない。
人類の進化と個性の研究を続けてきた彼からすれば、ただ純粋な事実を述べているに過ぎない。
「役所に登録されている個性の名称やその使い方の定義というものは、決して高度な科学的検証や遺伝子レベルの解析によって判別・決定されているわけではない……個性発現時に、親や本人が『こういう能力が出た』と役所に紙を提出し、更新手続きを行うだけのものだ」
「……それが、どうしたというのだ!」
ナインが血を吐きながら睨みつける。
「お前の個性……天候操作とでも名付けたところか。奪った個性にそれは無かった。生まれつきお前自身に備わっていた個性だな。その個性だが……お前の使い方は、根本から間違っている」
難羽は自身の言葉を理解させるため、極めて単純な例え話を始めた。
「例えば、手から炎を放つ個性を持った人間がいるとしよう。その個性は、使用者の意思と使い方によって出力が変わる。メモ用紙一枚を燃やす程度の種火。太い丸太を燃やす程度の火力。そして、人間を骨まで焼き尽くすほどの爆炎」
難羽は指を折りながら続ける。
「出力を上げれば上げるほど、当然、肉体には凄まじい熱とエネルギーの負担がかかる。だからこそ、通常の使用者は自身の肉体が熱に耐えきれなくなり、疲労を感じれば自然と出力を抑えるか、使用を停止するはずだ」
そこまで語り、難羽はナインの瞳の奥を真っ直ぐに射抜いた。
「しかし……もしその炎の個性の持ち主が、自身の限界を遥かに超えた出力で炎を出す以外の使い道を、全く知らなかったとしたらどうなる?」
ナインの呼吸が微かに乱れる。
「相手が誰であろうと、どんな状況であろうと。常に、周囲のすべてのものを焼き尽くすほどの出力で炎を放出し続ける……どれだけ自身の肉体に凄まじいダメージを負おうとも。どれほど自身の皮膚が焼き焦げ、細胞が死滅しようとも……なぜなら、彼にとってはそれが個性の正しい使い方だからだ」
難羽の言葉が、ナインの脳髄に冷たい刃のように突き刺さっていく。
「天候を操作し、強烈な雷を落とす。それも、雲一つない青空からいきなり雷雲を強制的に発生させて、天の怒りのような雷撃を振るう……それがどれほど自身の肉体のキャパシティを無視した、無茶で狂った使い方か。分かるだろう?」
ナインの顔が目に見えて醜く歪んでいく。
難羽の言わんとしている残酷な結論を、直感的に理解してしまったからだ。
未だ鋼鉄のムカデに強固に拘束されている彼は、耳を塞ぐことすら許されない。
「お前の個性は、お前が信じ込んでいるような神の如き強大な個性ではない」
難羽は一切の同情を交えず無慈悲に宣告した。
「現在の第四世代と呼ばれる個性の基本的なスペックの平均値を考えれば……お前の個性の本来の許容量は、曇り空を少し晴らすか、あるいは強い日差しを遮るために、小さな雲を発生させて日陰を作る程度……それがお前の肉体に負担をかけない、もっとも基礎的で正しい使い方だ」
その言葉はナインのこれまでの血を吐くような足掻きと苦悩を、完全に無駄な自傷行為であったと切り捨てる刃であった。
強大な力を持つがゆえに肉体が悲鳴を上げていると信じ込んでいた。
だからこそ細胞を活性化させる個性を探し求め、王になるのだと自らを奮い立たせてきた。
しかし、現実は。
彼はただの取るに足らない弱い個性の持ち主であり、その弱い個性の出力を自分の身の丈に合わないレベルで無理やり暴走させ続け、結果として自分自身で勝手に身体を壊していただけ。
哀れで滑稽な『弱者』に過ぎなかったのだ。
強者としてのアイデンティティを根底から破壊されたナインは激しく首を振り、口の端から血の泡を飛ばしながら絶叫した。
「ふざけるな……ッ! 俺は、お前の個性を知っているぞ!! 第一世代の人間であるお前の個性を考えれば、俺の個性が弱者のものだと決めつける根拠など、どこにもないはずだ!!」
ナインは自身の中にストックされた九つの個性のうちの一つを起動させた。
かつてヴィラン連合が強奪した、対象のすべてを見透かす解析の力──サーチ。
彼を実験体として改造した殻木は、
彼が超常黎明期から生きる第一世代であり、どんな個性を持っているかという予想まで。
だが、ナインがサーチの能力を難羽へと向け、その肉体の奥底を解析した次の瞬間。
「……あ?」
ナインは極度の混乱と恐怖に、大きく目を見開いた。
彼の脳内に流れ込んできた難羽の情報の羅列は人間のそれとはあまりにもかけ離れており、全く意味が分からなかったからだ。
「なんだ……その個性は……なんだ、その身体は……!?」
サーチの能力がナインの脳に伝えてきた情報。
目の前に座る二十代の男の肉体情報だけでなく、重なるように存在するもう一つの生命反応。
そしてそれらを結びつける異常なエネルギーの循環回路であった。
極限の驚愕に顔を引き攣らせるナインを見下ろし、難羽はゆっくりと立ち上がった。
そして、彼は着ている黒い革のジャケットを軽く払い、自身の腰に巻かれているベルト──アポリオンを、ナインの視界に明確に晒してみせた。
「……私は、二人で一人ではない。一人で二つの身体を使っている」
その言葉の意味を理解しようとナインの脳髄が激しく回転するが、常識という名の壁に阻まれて思考が完全に焼き切れる。
難羽輪太郎の腰に巻かれた、仮面ライダーの代名詞とも言える変身ベルトを模した装置。
しかし難羽にとってこの装置は、特撮番組のように自身の肉体を別の物質へと再構築するための変身アイテムなどではない。
「……これは二つの肉体を繋ぎ、生命活動を維持するためのへその緒に相当する装置だ」
難羽はバックルの中心を指先で軽く叩きながら、講義を続ける。
「私の本来の十五歳の肉体と、仮面アクターに変身できる戦闘用のボディ……その二つの肉体をこのベルトが接続している。そして片方の肉体がこの世界で活動している間、もう一つの身体は物理的に圧縮され、休眠状態に入る。仕組みはサポートアイテムと変わらん、折りたたんでいるだけだ……つまり、私が行っているのは変身ではない。二つの肉体の交代だ」
難羽は自身に施した狂気の改造を説明する。
それはまさに、特撮作品の撮影現場そのものである。
変身前の姿を演じる役者と、ヒーロースーツを着込んで激しい戦闘の演技を行うスーツアクター。
その二人の人間が交代することで、
難羽の特異な肉体の構造は、その映像作品のシステムを現実世界で再現しているようなものであった。
「い、意味が分からない……!」
ナインは自身の常識を凌駕するそのシステムの説明に、狂乱したように叫んだ。
「二つの肉体を入れ替える技術があったとして……なぜ、お前は記憶と自我を保っていられる!? なぜ、別の肉体になって別人に乗っ取られない!?」
一つの精神が、二つの肉体を自在に行き来する。
ナインからすれば目の前に立つ男がもはや人間ではなく、人智を超えた化け物であると自白しているのと同じであった。
「……個性因子には、持ち主の『人格』が宿る」
難羽は、まるで小学生に足し算を教えるような平坦な声で答えた。
「私は自身の精神の核である個性を、二つの肉体で完全に共有しながら動かしているというわけだ……一人の操縦士が、二つの全く異なるロボットに乗り換えて操縦しているイメージと言えば分かりやすいか?」
分かりやすく説明されようと、ナインの頭は致命的なエラーを起こし続けていた。
目の前に立つ、涼しい顔をした男。
こいつは人間ではない。
人間の形をした、何か別の悍ましい概念だ。
「……理解できなくとも構わん。ただ、私がお前よりも個性の本質について深く熟知しているということだけが分かればいい」
難羽はナインの目の前でしゃがみ込み、冷酷に宣告した。
「今、お前は専門医から『これ以上個性を使えば死ぬぞという』最終的なドクターストップを告げられている状態だ……素人がどれだけ知識不足で喚き散らそうと、お前の細胞が死滅し、崩壊しているという真実は絶対に変わらんぞ」
そして、難羽は言葉を紡ぐ。
ナインという男がどこまでも他者に利用されているだけの弱者であるという、決定的な証拠を。
「……ちなみにな。お前を改造した男は『超再生』という個性のコピーを持っていたはずだ」
難羽の銀色の瞳が、ナインの絶望する顔を映し出す。
「もし奴自身が持っていなくとも、脳無に使っている超再生の因子をお前に分けてやれば済む話だ。お前の細胞が死滅するのなら、死滅する端から再生させればいいのだからな」
ナインの呼吸がピタリと止まった。
「なぜ、そうしなかったのか……分かるか?」
難羽は一切の感情を交えずに、残酷な真理を口にした。
「それはお前が最高傑作でも、新たな世界の王でもないからだ……本当にデータを取るためだけに用意した、使い捨ての実験体。それ以上でも以下でもない」
難羽は過去に、殻木が作り出した別の実験体を殺害している。
超高速で動く六番目の実験体を。
彼は『シックス』と名乗っていた。
「お前に与えられたナインという名前……それは、九つの力を持つ偉大な王を意味する称号などではない……単なる
その言葉が、ナインの精神を支えていた最後の柱を粉砕した。
自分は王になるために選ばれたのではなかった。
ただ、本命の誰かを完成させるための、踏み台としてのデータを収集するモルモットに過ぎなかった。
ナインは抵抗の言葉を紡ぐことも、怒りの声を上げることもできず。
ただ深くうなだれ、口を完全に閉ざした。
彼らは、ある本土から離れた辺境の農村に住んでいた。
異形の姿や特異な力を持って生まれた彼らは、その閉鎖的な村の共同体の中で日常的に陰惨な迫害を受けていた。
『化け物』『気味が悪い』と石を投げられ、社会の隅へと追いやられる日々。
しかし、その同じ村には、もう一人だけ極めて特異な力を持っていた少年がいた。
では、その少年の扱いはどうだったか。
彼は迫害されていたのか。
否。
彼は村の大人たちから、極めて重宝される特別な存在であった。
その少年は、作物を実らせるための恵みの雨を降らせる。
ただ、それだけの役割を与えられた存在であった。
重宝されているとはいえ、それは決して人間としての尊厳を持った扱いではない。
彼は基本的に、村の奥にある古く薄暗い蔵の中に、外から鍵をかけられて一年中閉じ込められていた。
なぜか。
それは村の人間にとって、彼という存在が村の命運を握る財であると同時に、決して外部に知られてはならない罪を意味する存在だったからである。
少年の個性は何もない空間から雨という物質を生み出したり、特定の天候そのものを創造する個性ではない。
あくまで、既存の大気の流れや気圧を操作して、望みの天気に変換しているに過ぎなかった。
つまり、特定の村の頭上にだけ作物が育つための都合の良い雨雲を集めれば、当然その反動が起こる。
彼の村が豊作に恵まれる一方で、周囲の別の地域では極端に雲が奪われ、雨の全く降らない深刻な干ばつ地域が意図的に生み出されてしまうのだ。
そして広範囲の気圧を操作し、雨を降らせ続けるほどの極端な天候の改変は、少年の脆弱な肉体に細胞を破壊するほどの凄まじい負担を強いていた。
彼は蔵の中で血を吐きながら、大人たちの命令に従って空を操作し続けていた。
しかし、自然の摂理を無視したその行為は長くは続かなかった。
結果としてあまりにも不自然な局地的な天候の偏りに気づいた周囲の村の人間たちが、怒り狂って武器を手に、少年の住む村へと大挙して押し寄せてきたのだ。
松明の炎が夜の村を照らし、怒号が響き渡る。
隣村の者たちは、蔵から引きずり出された少年の姿を指差してこう叫んだ。
『この悪魔が、俺たちを苦しめるために、俺たちの土地に雨を降らないようにしていたんだ!!』
それは完全な逆恨みであり、因果の逆転であった。
元々、その土地は雨の少ない厳しい地域であった。
必死に雨を降らせていたのは、村の大人たちに強制されていた少年の方だ。
だが、彼を囲んでいた、彼と同じ村の大人たちは。
怒り狂う暴徒たちの責任追及の矛先から自分たち自身の身を守るため、彼をあっさりと生贄として差し出した。
『そうだ! こいつが勝手にやったことだ!』
『私たちは騙されていた! こいつは、土地を呪う悪魔だ!』
つい昨日まで、彼が血を吐きながら降らせた雨の恩恵を受け、作物を収穫して笑っていた大人たちが。
いざ自身の命が危うくなると、すべての罪をその少年の背中へと押し付け、彼を悪魔だと他の村の人間に向かって声高に語り始めたのである。
そこから語るべきことは、あまり多くはない。
ついに悪魔の怒りを買った彼らの村は、未曾有の巨大な嵐に完全に呑み込まれ、地図上から跡形もなく消え去った。
瓦礫と泥水だけが残された廃墟の中。
悪魔となった少年は、同じように村の人間たちから『化け物』と迫害され続けていた者たちを瓦礫の中から助け出し、共にその滅びた村を出た。
ただ、それだけのことである。