難羽しか存在を知らない、完全なる隔離空間。
空間を跳躍する特殊な転移系の個性を使用することでしか立ち入ることのできないその場所は、彼研究のすべてを詰め込んで造り上げた、世界で最も進んだ秘密のラボであった。
ラボの空間は、およそ科学研究施設という言葉の響きからはかけ離れた異様な荘厳さに満ちている。
広大な床の冷たい金属の質感とは対照的に、空間の中央には天を貫くほどの巨大さを誇る大樹が静かに聳え立っていた。
樹皮は黒曜石のように滑らかで、枝葉はまるで血管のように複雑に絡み合い、空間全体に得体の知れない静寂と重圧を落としている。
最新鋭の医療機器と計算機が整然と並ぶその場所は無機質な研究所というよりも、命の理を司る神を祀る、古い神殿のような神聖さと冒涜的な気配を同時に孕んでいた。
その黒い大樹の根元に設置された無影灯の下で、難羽はある一人の男の手術を黙々と行っていた。
それは現代の医学の常識に照らし合わせれば、到底治療と呼べる代物ではない。
戦闘によって修復不可能なまでに破損した内臓器官を、難羽が設計した人工臓器へと物理的に交換する。
酸素欠乏によってすでに完全に死亡している脳細胞の領域へ、極小のナノマシンを直接投与してニューロンの役割を強制的に代替させる。
断裂して機能が停止した神経網を、蜘蛛の糸よりも細い特殊な導線で繋ぎ合わせる。
粉砕された脊髄の深部に、細胞を強制的に結合させる修復剤を打ち込む。
そして最後に、身体能力を再現するよう調整された疑似個性因子を肉体の中へと静かに馴染ませていく。
それは治療ではない。
破損した精密機械のパーツを一つ一つ交換し、再起動を試みる修復作業そのものであった。
難羽が現在処置を行っているこの手術台の上の肉体は、すでに完全に命の灯火が消え去った死体である。
最新の設備を誇る総合病院で医師たちが尽力した結果。
残念ながら命を落としたという公式な死亡診断書が発行されたばかりの男。
難羽はその病院の霊安室から、この死体を丸ごと掻っ払ってきたのだ。
「……おい。そのスーツ、ファブリケーターに乗せてくれ」
血に染まったメスを置いて作業を一時中断した難羽が、手術台の傍らで立ち尽くす男に向けて指示を出した。
この隔離空間に難羽が初めて外部から連れてきた人間。
世界最高の頭脳と謳われた科学者にして、オールマイトの親友、デヴィッド・シールドであった。
「……あ、ああ」
デヴィッドは難羽の指示に従い、傍らに置かれていた黄色と白のツートンカラーのボロボロのスーツを抱え上げる。
そして、部屋の隅にある万能製造機、オクタビアスの巨大なスキャナーの上へと乗せた。
しかし、彼の表情は深い困惑と、目の前で行われている常軌を逸した光景への恐怖に完全に支配されていた。
少し前。
デヴィッド・シールドは、かつての親友であるオールマイトの全盛期の力を取り戻すため、I・アイランドにおいてヴィランを意図的に招き入れ、自身の発明品を強奪させるというテロの偽装事件を引き起こした。
そのテロ共謀罪の首謀者として逮捕され、厳重な刑務所に収監されていたはずの彼を、難羽は予告通り回収したのだ。
デヴィッドの罪状に対して、刑務所のセキュリティはあまりにも脆弱であった。
それは彼が戦闘系の個性を持たないこと、彼の目的から情状酌量の余地があると判断された結果だが、難羽からすればもっとセキリュティを上げるべき人物だろうと、自分の行動を棚に上げて考えていた。
難羽は彼を連れ出すにあたり、ダミーを用意した。
研究室で培養された、デヴィッドと全く同じDNAを持つクローンの失敗作。
つまり、自我も意識も持たない単なる肉塊である。
それをデヴィッドの独房のベッドに置き去りにし、心不全で死亡したように偽装した。
社会的な記録において、デヴィッド・シールドという天才科学者はすでに刑務所内で病死したことになっている。
「……一体、君は何者なんだ。私をこんな場所に連れ出して、何をさせるつもりなんだ!!」
デヴィッドが抑えきれない震えを声に滲ませて叫んだ。
難羽はその悲痛な問いかけに対し、顔を向けることすらなかった。
そして、手元の注入器を死体の首筋にセットしながら平坦に答えた。
「私は難羽輪太郎……ある計画を完遂するために、お前のその頭脳が必要だった。だから誘拐した」
難羽が注入器のスイッチを押す。
無機質な駆動音と共にガラスのシリンダー内に満たされていた赤黒い薬品が、脈打つことのない死体の静脈へとゆっくりと押し込まれていく。
それは、裏社会で個性を強制的に暴走させる危険な違法薬物として知られる『トリガー』に極めてよく似た成分構造を持つ薬品であった。
難羽が個性治療によく使う個性因子活性剤である。
しかし、今難羽が行っているこの薬品の使い方は、到底人の道を歩む者のそれではない。
死者を冒涜する外道という次元すら通り越し、生命の絶対的な境界線を踏みにじる、人智を超えた神の領域への侵略であった。
破損箇所を完璧に修復し、ナノマシンと疑似因子によって満たされ、正常な物理的肉体として成立した死体。
縫合の跡すらナノマシンによって完全に消し去られ、安らかに目を閉じているその姿は、到底死んでいるようには見えない。
ただ、深い眠りについているようにしか見えなかった。
それはもはや腐敗を待つだけの有機物ではなく、魂の帰還を待つだけの中身のない綺麗な箱であった。
手術台の上に横たわる死体の右手の指が微かに、しかし確かに動いた。
「……ッ!!」
デヴィッドは信じられないものを見るように息を呑み、一歩後退した。
見間違いではない。
どう考えても、あれは数分前まで完全に機能を停止していた死体であった。
難羽は先ほどの壮絶な修復作業において、麻酔の類を一切使用していなかった。
痛覚を感じる脳も神経も死んでいたからだ。
そして胸部を開いていた際、その心臓が完全に停止し、一滴の血も全身に送り出していなかったことを、デヴィッドは自身の目で明確に確認していた。
にも関わらず。
男はゆっくりと自身の腹部に力を入れ、手術台の上で軋むように上体を起こした。
そして閉じていた両目を静かに開くと、焦点の定まらない視線を彷徨わせながら、顔の周囲で何かを不器用に探すように両手を動かした。
難羽は傍らのトレイに置かれていた黒縁の眼鏡を手に取り、その男の手へと静かに渡した。
男は受け取った眼鏡を、ゆっくりとした動作で顔に掛ける。
視界が鮮明になった彼は無機質な大樹が聳え立つ周囲の異様な空間を見渡し、そして目の前に立つ難羽に向かって、ひどく掠れた、乾いた声で問いかけた。
「……ここは、どこだ」
「私のラボだ。……私と、そこにいるデヴィッド以外、この世界で誰も知らない場所だ」
難羽が答える。
それを聞いた男は手術台からゆっくりと足を下ろし、冷たい床に素足をつけた。
自身の肉体の感覚を確かめるように手首を回し、もう一度難羽の顔を見つめて、静かな声で問いかけた。
「……では、私は……私は、誰だ」
男は、自身の過去に関するあらゆる記憶を失っていた。
死によって脳細胞が広範囲にわたって破壊され、ナノマシンで代替した影響による完全な記憶の忘却。
難羽はその問いに対して一切の躊躇いなく、冷徹に事実のみを告げた。
「お前の名前は、佐々木未来……プロヒーローの事務所で仕事をし、重傷を負って死の淵にあった。それを私が治療した」
「……佐々木、未来」
男は自身に与えられたその名前を、まるで他人の名前を復唱するように口の中で転がした。
少し離れた場所で壁に背中を預けていたデヴィッドは、声を出すすら忘れてその光景に戦慄していた。
彼は、その男の存在を知っていた。
オールマイトの元サイドキックであり、並外れた予知能力と頭脳を持つプロヒーロー、サー・ナイトアイ。
そして、難羽がこのラボに連れてこられたばかりのデヴィッドに対して、彼は死んでいると明確に告げている。
なら、これはなんだ。
今、自分の目の前で呼吸をし、言葉を交わし、記憶を持たないまま立ち上がっているこの男は、一体何だというのだ。
佐々木未来という名を返された男に簡易的な患者衣を渡した難羽は、振り返ってデヴィッドの方へ歩み寄った。
「人間に個性が宿るのではない」
難羽が、デヴィッドの科学者としての倫理観を根底から粉砕するような、悍ましい真理を淡々と告げる。
「個性という情報物質を入れる器が、人間だ。だから、器の破損を完全に直してやれば、機能は元通りに再稼働する。まだ彼の再起動作業は終わっていないが」
デヴィッドの胃の奥底から、抗いようのない強烈な吐き気が込み上げてきた。
天才科学者としての彼の明晰な頭脳が、理性による拒絶を置き去りにして、難羽の語ったあまりにも悍ましい生命の真理を最短距離で、理解してしまった。
かつてデヴィッドは、衰えゆく親友・オールマイトを救いたいという純粋な願いから、個性という未知の領域に関する研究に没頭し続けた。
その果てに彼が製作した個性増幅装置は、他者の個性の出力を人為的に引き上げるという禁忌に触れるものであり、試作段階で封印され、結果的にI・アイランドでの悲劇を引き起こす要因となった。
だが、目の前の男が到達している深淵に比べれば、それも子供の火遊びに過ぎなかったと思い知らされる。
個性が魂の形を決定づけ、肉体はその魂を機能させるための単なる有機的なハードウェアに過ぎないという理論。
もしそれが真実であるならば、人間の生と死の境界線は完全に崩壊する。
個性因子という
それは自然の摂理に対する完全なる反逆であり、生命の尊厳に対する最悪の冒涜であった。
「……私の研究の先が、これだというのか」
デヴィッドは胃液がせり上がってくるのを必死に飲み込みながら、難羽を鋭く睨みつけた。
「一体、私に何をやらせるつもりだ……!」
デヴィッドの瞳には決して屈しないという強い意志の炎が灯っていた。
彼はすでに、一度道を違えた。
己の弱さと絶望からテロリストに利用され、多くの人々を危険に晒すという取り返しのつかない過ちを、あのI・アイランドで犯してしまったのだ。
だからこそ、もう二度と。
誰かの歪んだ野望や狂気的な計画に加担し、己の発明と頭脳を悪用させるつもりは毛頭なかった。
たとえここで殺されようとも、この悪魔の要求を呑むつもりはないという絶対的な拒絶。
難羽はデヴィッドが放つその強い敵意と警戒心を、当然の反応であると冷静に受け止めていた。
常識ある人間であれば、死者を蘇らせる光景を見せられた直後に、すんなりと協力に応じるはずがない。
それでいい。
難羽はゆっくりと白衣の裾を払い、デヴィッドの正面へと向き直った。
そして姿勢を正すと、冷たいラボの金属床へと両膝を突いた。
そのまま深く頭を垂れ、自身の額を冷徹な床へと擦り付ける。
完全なる土下座であった。
「……なっ!?」
デヴィッドは予想だにしなかったその行動に完全に虚を突かれ、言葉を失った。
死体を意のままに操り、人智を超えた科学力で神の領域を侵すような怪物が。
いとも容易く一人の人間の前に膝を屈し、頭を床に擦り付けているのだ。
「……私に、知恵を貸してほしい」
床に額をつけたまま、難羽の重い声がラボの空間に響いた。
それは脅迫でも命令でもない。
純粋な懇願であった。
「私がこれまでの研究の中で証明した通り、個性因子には、その持ち主の人格と記憶が情報として宿る……だが、問題はその先だ」
難羽は顔を上げることなく、事の重大さを告げる。
「自身の持つ個性因子そのものを物理的なデータ媒体として扱い、それを他者の肉体へと移植することで、自分自身の人格を全く別の肉体へと
困惑しきっていたデヴィッドの表情が、その言葉を聞いて微かに引き攣った。
難羽の口にした『奴』という言葉の響きに、途方もないスケールの邪悪な気配を感じ取ったからだ。
「……オールフォーワンだ」
難羽がその名を口にした瞬間。
デヴィッドの全身の毛が、極限の恐怖と悪寒によって逆立った。
刑務所の独房という外界から隔離された環境にあっても、新聞やニュースの報道でその名を目にしない日はなかった。
自身の親友であるオールマイトに消えない癒着の傷を負わせた、絶対的な巨悪。
彼が神野区での死闘の末に死んだという事実は、海外のメディアでも報道されていたからだ。
オールフォーワンは、死んだはずだ。
だが、デヴィッドの頭脳は、難羽が先ほどから語ってきたすべての情報を、一つの線として結びつけていく。
人間は、個性という情報因子を入れるための単なる『器』に過ぎないという理論。
個性因子を利用した、別人の肉体への『人格の移動』という技術。
そして死んだはずの巨悪、オール・フォー・ワンの名。
「……まさか……!!」
デヴィッドは血の気を失った顔で後ずさり、震える指で難羽を指差した。
難羽は床からゆっくりと顔を上げ、自身の推測を肯定するように深く頷いた。
「そうだ……オールフォーワンの肉体は滅んだ。だが、自身の記憶と人格を完全にコピーしたオリジナルの個性因子は、あらかじめ用意しておいた他者の肉体へとすでに移植し終えていた」
難羽の銀色の瞳に、強い焦燥の色が浮かぶ。
死んだはずのオールフォーワン。
奴の死後、現れた
順番がおかしいのだ。
ナインが実験体に志願したタイミングを考えると、それはオールフォーワンが死ぬ前である。
だが殻木はオールフォーワンが死んだ後も、ナインを後継として扱うことはなかった。
そしてナインが語った殻木の目的は、複数の個性に耐えられる器の製造であった。
まるで入れるべき中身が、未だ存在するようではないか。
「オールフォーワンは、他人の肉体を器とした」
「が、ああ……あ……」
異能解放軍が管理する、外界の喧騒から完全に隔離された高層ビルの最上階の一室。
ロシナンテという新たな組織のリーダーである死柄木弔。
異能解放軍の最高指導者であるリデストロ。
本来この場は、互いの組織と対等な協力関係を結び、今後の裏社会の展望について語り合うための歴史的な会合の場となるはずであった。
しかしその豪華な応接室の空間は現在、息を呑むような異様な静寂と、得体の知れない死の気配に完全に支配されていた。
部屋の中央。
シックで洗練されたスーツを身に纏った死柄木が無言のまま、正面に立つリデストロの右手をしっかりと掴んでいた。
それは握手であった。
互いの組織のトップが同盟の証として交わす、極めて友好的な挨拶の握手。
リデストロは事前にロシナンテに関する情報を徹底的に洗い出しており、当然、死柄木弔が持つ崩壊という個性の発動条件も完全に熟知していた。
指が対象に触れた瞬間すべてを粉々に崩し去る、純粋な破壊の力。
だからこそ、死柄木が右手を差し出してきた時、リデストロの内に強烈な警戒心が走ったのは事実である。
だが、これまでの彼らの活動の軌跡と死柄木という男が語る自由への渇望、そして現在の理知的な振る舞いを基に総合的に判断した。
リデストロは、彼がこの場で暗殺というような短絡的な凶行に及ぶことは絶対にないと、論理的に確信していた。
だからこそ彼自身も歩み寄り、警戒を解いてその手を握り返したのだ。
死柄木がわざわざ握手を求めてきたのは、崩壊の力をもってしても自分を傷つける意志はないという、彼なりの本気の受け入れの態度を示しているのだと、そう解釈したのである。
しかし、彼の手を握り返したその瞬間から何かが変わった。
今、自分の目の前に立ち、自分の手を握っているこの存在は、一体何だ。
リデストロが本能的な恐怖によって微かに震え始める。
目の前にいるのは確かに青年の姿をした死柄木弔である。
だが、その青年の喉の奥から漏れ聞こえてくる静かな笑い声は、ひどく低く、どこまでも淀んでいた。
途方もない年月を生き抜いてきたような、老練な者の響きを持っていた。
まるで外国映画の吹き替え版を観ているかのような、決定的な違和感。
目の前に立つ青年の口の動きと、そこから発せられる声の波長や質感が全く噛み合っていないのだ。
肉体という皮袋の中に全く別の巨大な魂が無理やり詰め込まれ、中から溢れ出ようとしているような悍ましい不協和音。
死柄木の赤い瞳がゆっくりと、リデストロの顔を見据えた。
その瞳孔の奥に宿っているのは社会に対する怒りでも、自由への渇望でもない。
ただ純粋に他者のすべてを蹂躙し、弄び、自身の糧として貪り食うことしか考えていない底なしの悪意と支配欲の塊であった。
青年の口がゆっくりと弧を描く。
そしてその唇の動きとは全く連動しない、重く淀んだ老魔王の声が、リデストロの鼓膜を直接揺らした。
「……やあ、リデストロ。君の素晴らしい個性……私が貰うよ」
絶望が部屋の空気を完全に凍結させる。
若き青年の肉体を器として。
死の淵から舞い戻った絶対的な巨悪が、その悍ましい顔を世界へと再び現したのである。
お暇があればぜひとも評価、お気に入りをお願いいたします。
作品制作の励みになります。
感想は最新話でなくとも大歓迎です。