バグのヒーローアルカディア   作:胡麻蝉あぶら

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1章 バグのヒーローアカデミア
10話 蜘蛛のレンズ


 

四月の陽気が満ちる雄英高校。

その巨大な講堂は新入生たちが発する緊張と期待、そして制服の衣擦れの音で満たされていた。

日本の未来を担うヒーローの卵たち、そしてそれを支える各科の精鋭たち。

誰もが背筋を伸ばし、壇上の人物に注目している。

 

サポート科の座席列、その一角に座る難羽輪太郎もまた微動だにせず壇上を凝視していた。

ただしそのサングラスの奥にある瞳の色は、新入生のそれとは決定的に異なっていた。

 

壇上には雄英高校校長、根津が立っていた。

白く艶やかな毛並み、知性を宿した黒い瞳。

 

人間以上の知能を持つ動物という、世界でも稀有な「個性」の持ち主。

 

 

「……というわけでね、これからの季節、毛並みのケアには湿度が大敵なんだよ。特に英国産のチェダーチーズを熟成させる時と同じくらいの、極めて繊細な温度管理が求められるわけで……」

 

 

祝辞であるはずの話はいつの間にか教育理念から大きく脱線し、個人的なグルーミングのこだわりと、好物のチーズの熟成理論へと移行していた。

 

普通科や経営科の生徒たちが困惑し、あくびを噛み殺し始める中、難羽だけは異様な熱量でその小動物を見つめ続けていた。

 

 

(……素晴らしい)

 

 

難羽の思考回路が、高速で回転する。

 

 

(動物としての生存本能と、人間を凌駕する高度な知性が一つの脳内で同居している。……その神経伝達の構造はどうなっている? 大脳新皮質の発達率は? 声帯の構造は? どうやって「動物」という枠組みを超え、社会的地位を確立するに至ったのか)

 

 

難羽にとって、根津は尊敬すべき教育者である以前に、解剖学的・進化学的見地における「極上の検体(サンプル)」であった。

 

もし許されるなら、今すぐあの壇上へ駆け上がり、その毛並みを一本ずつ採取し、頭蓋の形状をノギスで計測したい。

サングラスで隠されてはいるが、その眼球は獲物を狙う肉食獣のようにギラギラと飢えた光を放ち、瞬きさえ忘れて校長を解剖(スキャン)していた。

 

 

「……ん?」

 

 

壇上で熱弁を振るっていた根津が、ふと言葉を切った。

愛らしい耳がピクリと動く。

 

 

(おや……? なんだか、解剖台の上に乗せられているような……背筋が凍る視線を感じるね)

 

 

校長はつぶらな瞳をキョロキョロとさせた。

数千人の生徒の中から発せられる視線。

 

その中に一つだけ、敬意でも退屈でもない、純粋な「捕食者」の眼差しが混じっている。

 

だが、特定することはできない。

 

 

「……まあ、いいか。話を戻そう」

 

 

根津が気を取り直して話を続ける中、難羽はふと、会場の配置における欠落に違和感を覚えた。

 

 

(……いないな)

 

 

最前列付近に確保されているはずの座席。

そこだけが、不自然なほどぽっかりと空いている。

 

ヒーロー科1年A組。

 

緑谷や爆豪の姿がない。

 

 

(……なるほど。合理性を重んじる担任・相澤消太による洗礼か)

 

 

入学式やガイダンスといった形式を飛ばし、初日から個性把握テストという実利を行う。

いかにも彼らしいやり方だ。

 

 

(……見逃すわけにはいかないな。緑谷の制御、爆豪の記録……そして相澤という教師のデータ。すべて回収する必要がある)

 

 

難羽は左手で右手の甲の埃を払うような、何気ない動作をした。

 

その瞬間だった。

 

彼が嵌めていた黒い革手袋の繊維が、まるで砂のように解けた。

床にパラパラと零れ落ちた微小な黒い塊は、瞬時に自律的に形を変え、数匹の小さな「蜘蛛」へと再構成される。

 

カーボンナノチューブと形状記憶合金によって構成された、極小の自律偵察ユニット。

 

子蜘蛛たちは音もなく講堂の床を這い、誰の目に止まることなく扉の隙間から外部へと散開していった。

 

直後、難羽の脳内に電子的なノイズが走る。

 

彼の網膜には講堂の退屈な風景と重なるようにして、子蜘蛛たちが送信してくるグラウンドの映像が複数のウィンドウとしてリアルタイムでオーバーレイ表示されていた。

 

 

(……発見。ソフトボール投げか)

 

 

難羽の視界が拡張される。

 

右上のウィンドウでは、緑谷が指一本を犠牲にしてボールを放つ瞬間が。

 

左下のウィンドウでは、爆豪が「死ねぇ!」と叫びながら好記録を叩き出す瞬間が。

 

そして中央のウィンドウでは、相澤消太が充血した目で生徒たちを見定める冷徹な表情が映し出されている。

 

 

(……緑谷、指一本に絞ったか……爆豪、あいつは相変わらず初速の乗せ方が上手い。……相澤の抹消、発動時の瞬きによるラグは……コンマ数秒か)

 

 

難羽はサングラスの奥で、激しく眼球を動かしていた。

あちこちに表示されるウィンドウの情報を追うため、彼の瞳は右へ、左へ、上へと高速で走る。

 

この「脳内リンク視覚システム」は、彼がかつて見たSF映画への憧れで自身に組み込んだ機能だが、一つだけ致命的な欠陥があった。

 

 

脳内で映像を見る際、現実の眼球も連動して激しく動いてしまうのだ。

 

 

何もない虚空を凝視し、目をギョロギョロと高速で動かすその姿は端から見れば「完全にキマっている危ない人」である。

中学時代、何も知らないクラスメイトにドン引きされた経験から、彼は外出時のサングラスを欠かさないようにしていた。

 

 

(これで視線の動きはバレない。……完璧な偽装だ)

 

 

難羽はそう安堵していた。

だが、彼自身は気づいていないことがあった。

 

 

眼球の動きは隠せても、表情までは隠せていないことを。

 

 

緑谷がボールを投げた瞬間、難羽の口元がニヤリと不敵に吊り上がる。

爆豪が記録を出した瞬間、感心したように「ほう」と口が動く。

相澤が除籍を撤回した瞬間、満足げに喉を鳴らす。

 

 

分厚いサングラスをかけた男が、虚空を見つめながら一人でニヤついたり、頷いたりしている。

 

 

その光景は、眼球の動きが見えるよりも遥かに不気味で、底知れない狂気を感じさせるものだった。

 

隣の席に座っていた女子生徒が、青ざめた顔で音もなく椅子を数センチずらした。

反対側の男子生徒も、関わってはいけないものを見る目をして距離を取る。

 

難羽の周囲にだけぽっかりと不自然なスペースが生まれていたが、情報の奔流に没頭する彼は気づかない。

 

 

(……よし。式典を抜ける必要はないな。ここで堂々とアリバイを作りつつ、必要なデータは全て回収できる)

 

 

難羽は椅子に深く座り直し、満足げに再び壇上を見た。

校長の話はまだ続いている。

 

難羽は思考だけで追加の指令を送った。

グラウンドから戻ってきた一匹の子蜘蛛が、誰にも気づかれることなく講堂の演台の裏側へと張り付く。

 

 

(引き続き、彼の生体データを至近距離で収集せよ。……毛並みの成分分析から始めるか)

 

 

「……では、最後に。教育とは——」

 

 

話をまとめようとした根津校長は、再び背筋がゾワリとするのを感じた。

さっきまでの遠くからの視線に加え、今度は足元から、じっと見上げられているような気配。

 

 

「……うーん、今日は空調が少し寒いのかな? ブルッと来たよ」

 

 

校長は首を傾げ、愛らしい顔をしかめながら、どこか落ち着かない様子で式辞を続けるのだった。

雄英高校の日常は、こうして一人の「観測者」の不審な笑みと共に幕を開けた。

 

 

 

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