「……正気か?」
絞り出すような難羽の声はひどく掠れていた。
ランプの頼りない光が、目の前に座るブルースの顔を照らし出している。
その表情には狂気や錯乱の類は一切ない。
あるのは冷徹なまでの現実認識と悲壮な決意だけだった。
傍らに控える四ノ森もまた、無言のまま床に視線を落とす。
自らに課せられた宿命を受け入れようとしていた。
難羽の頭脳はブルースの論理を受け入れた。
ワン・フォー・オールという特異な力は、世代を重ねるごとに蓄積されて強化されていく。
逆に言えば、今の段階──ブルースや次代である四ノ森の代では、あのオールフォーワンという化物に正面から挑んだところで犬死にするだけだ。
無為に命を散らし、個性を奪われるようなことがあれば、先人たちが繋いできた希望の灯火は完全に費える。
ならば今は身を潜め、力を蓄えるしかない。
巨悪を打ち倒すのは自分たちではない。
さらに遥か先の未来を生きる、見知らぬ誰かにすべてを託す。
戦術としては極めて正しい。
だが、それは難羽の頭脳が導き出した表面的な同意に過ぎなかった。
彼の内奥にある心は、烈火の如く激しく燃え上がっていた。
「ふざけるなッ!!」
怒声が狭い部屋に響き渡る。
難羽は無意識のうちに立ち上がり、固く握りしめた拳を震わせていた。
爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。
「たったひとつの命だぞッ!!」
それはこの終末世界において。
弱者たちが慰めのように幾度となく口にしてきた、ありきたりな命の尊さを説く言葉だった。
しかし、難羽にとってその言葉が持つ意味は異なる。
彼にとって死は終わりではない。
彼の個性が死を通過点とする。
だが、他者の命は違う。
目の前にいるブルースも、四ノ森も、そしてレジスタンスの仲間たちも、死ねばそこで完全に終わりだ。
二度と巡り合うことのできない、不可逆な喪失。
難羽にとって仲間の死は己の死よりも遥かに重く、恐ろしいものだった。
「じゃあどうすればいいって言うんだ!!」
ブルースもまた、冷静さをかなぐり捨てて叫び返した。その瞳には血を吐くような苦悩が浮かんでいた。
「オールフォーワンの勢力は拡大し続けている! 奴の元には力を求める者、庇護を求める者が際限なく集まっているんだ。少なくとも、異能という存在そのものが社会に正しく受け入れられ、法や秩序が機能する時代が来ない限り、あの男と組織の増長を止める手立てなど存在しない!」
ブルースの言葉は残酷な真実だった。
「新たな希望の種であるワン・フォー・オール。それを他者へ、さらにその先へと託し続ければ、いつかは勝機が見えるかもしれない。だが、その力を受け取った者が裏切らないという保証はどこにある!? 力の誘惑に屈せず、自己犠牲を貫けるような人間が、今の世界にどれだけいると言うんだ!」
託せる相手はごく一握りしかいない。
だからこそブルースは自らは託すに値する、信頼出来る四ノ森という男を見つけ出したのだ。
「……ッ」
難羽は唇を噛み締めた。
血の味が口内に広がる。
わかっている。
誰よりも状況の絶望さを理解しているからこそ、難羽は感情をぶつけることしかできない。
「どうすればいい」と問われても、この世界を根本からひっくり返すような解決策などなかった。
「……こいつに渡した後、あんたはどうするつもりだ」
「……それは、私も聞きたい」
難羽の絞り出すような問いに、四ノ森も顔を上げてブルースを見た。
四ノ森が自身の「危機感知」の個性を使いながら、どこか辺境の地で身を潜めて鍛錬を積む。
しかしブルースをはじめとするレジスタンスの本体が近くにいては、いずれオールフォーワンの探網に引っかかる。
ブルースは深く息を吐き、重々しい口調で答えた。
「故郷の方角へ向かう。中国まで、残ったレジスタンス全員で移動する。可能な限り派手に動いてオールフォーワンの目を我々に引き付ける。四ノ森から少しでも遠ざけるためにな」
それは囮になるという宣言だった。
生存率など皆無に等しい、破滅への行軍。
「……皆、それに納得してるのか」
「……納得済みだ。皆、希望を未来に託す道を選んだ」
難羽は息を呑んだ。
彼はこれまで自身が単なる子供ではないことを、その並外れた技術力や戦術眼で示してきた。
だが実際の年齢や自身の異常な特性を明かしたことはない。
他者に真実を伝えること自体に大きなリスクが伴うという判断からだった。
だが、結果としてその徹底した秘匿は、ブルースたちが下した決死の覚悟に対し。
彼らと共に破滅的な囮の旅へ赴くことを自分一人だけが強要されないという、ひどく歪な状況を作り出してしまっていた。
彼らは難羽を「未来ある子供」として扱い、地獄への旅路に巻き込むまいとしているのだ。
「……お前は、どうしたい?」
ブルースが父親のような穏やかで、しかし悲哀に満ちた声で静かに問う。
戦うために逃げるのか。
逃げるために戦うのか。
たった一人で成し得ることはあまりにも少ない。
共にオールフォーワンを引き付けるための囮の旅に同行するか。
それともあの巨悪の手から逃れるために、果てしない逃亡と闘争の日々を一人で選ぶのか。
オールフォーワンの強大な勢力網を考えれば、戦わずに逃げ切ることなど不可能に近い。
だが、戦えば確実に死が待っている。
難羽は自分の足元を見つめた。
逃げても、死ぬ。
戦っても、死ぬ。
どうせ死ぬのなら。
どうせまた、別の場所で目を覚ますのなら。
「戦う。私が……ここに残る人たちを守る」
顔を上げ、難羽ははっきりとそう告げた。
後になって振り返れば、難羽はこの時の自身の決断を「見た目通りの子供の意地だった」と自嘲する。
何の意味もなく必ず訪れる破滅に向かって、ただ泥臭く耐え続ける道を選んだのだ。
ワン・フォー・オールの存在がそこになくとも、オールフォーワンにとって目障りな反発勢力である以上、遅かれ早かれ徹底的に潰される運命にあるというのに。
それでもそれは彼なりの意地であり、抗いであった。
少なくとも自分の目の前で理不尽に命が散っていく光景を、これ以上見たくなかったのだ。
一人のレジスタンスは仲間たちと道を違えた。
未来に希望を託そうと決意した者たちは自らを死地に晒すための険しい旅路へと出発し、二度と戻ることはなかった。
一方、一人残った少年は己の血肉を盾として、逃げ遅れた人々を守る道を選んだ。
レジスタンスという後ろ盾を完全に失った街。
そこに街を守護する一人の死神が誕生した。
異能を持っていようと、強力な火器を携えていようと、街を脅かす悪意を持つ者は例外なく排除された。
刀で斬られ、槌で砕かれ、弾で貫かれ、紐で縛られ。
街の周りには血の円が生まれた。
容易には踏み越えられない強固な防衛線が敷かれ、円の中には守られた人々の細々とした営みがあった。
吊るされた肉が、新たにやってくる悪に問う。
『汝は悪か?』
混沌と暴力が支配するこの時代において絶対的な安全が保障されたその街は、いつしか楽園と称されるようになった。
赤い血の円は回転する浄化の炎を意味し、悪を滅する暴力は人々を守るための神聖な剣と見なされた。
ケルビム。
エデンの園を守る智天使の名。
それが楽園の門番たる彼に与えられた、畏怖の呼び名だった。
その血塗られた歪な平穏も、長くは続かなかった。
3年という月日が流れ、楽園は皮肉にも大きくなりすぎた。
安全な場所を求めて多くの難民が流入し、街の規模は難羽一人が管理できる限界をとうに超えていた。
それが綻びの始まりだった。
街が拡大し、外部との交流や物資の取引が増えれば、必ず防衛網に死角が生まれる。
難羽の負担を減らすという名目で門番の補佐に志願した街の自警団たちは、いつしか権力の甘い汁を吸い始めた。
彼らは私欲に駆られ、賄賂や物資を求める。
悪意を持ったならず者をも素通しする腐敗した扉へと成り下がっていった。
難羽が無個性に等しい肉体を酷使し、己の命を削るようにして無理を重ねていることを知っていた初期のメンバーは、街の変貌に耐えきれず次々と去っていった。
代わりに流入し、街の中核を担うようになったのは、「自分は強力な異能を持っているのだから優遇されて当たり前だ」「我々を外敵から守るのは、あの死神の義務だ」と驕り高ぶる愚か者たちだった。
知恵の実などなくとも、人間が群れれば愚かさは自然発生する。
難羽が命を懸けて守り抜いたのは、結局のところただの欲望の掃き溜めだった。
そしてある日の夕刻、難羽は生死の境を彷徨う事態に陥った。
境界線の見回りから戻った直後。
背後からの卑劣な不意打ちだった。
乾いた銃声が響き、熱い鉛の塊が難羽の背中を食い破り、肺を貫いた。
膝から崩れ落ちた難羽が見上げた先には。
街の住人である男が震える手で銃口を向けていた。
一部の住人にとって、強大すぎる暴力で外敵を排除する難羽はもはや街を守る門番ではなく、自分たちの自由と欲望を監視し、縛り付ける看守のように映っていたのだ。
男の顔には恐怖と、そして厄介者を排除できたという歪んだ安堵が浮かんでいた。
擁護するとすれば、それは拡大した街の中でも、特に短絡的な思考を持つ者の単独の犯行であった。
その後犯人は街のルールに則って裁かれ、永久追放の処分を受けたらしい。
しかし、一度生まれた悪意の種はあっという間に人々の心に伝染していく。
1人が刃を向ければ、2人が。
2人が石を投げれば、3人が。
絶対的な門番が倒れたことへの恐怖もあったのだろう。
被弾した難羽を献身的に看病する者も確かにいた。
だが、それ以上にこの街の歪な構造と、楽園という存在を恨む外部の悪意は多すぎた。
難羽が病床で高熱にうなされ、休眠している間に、彼が身を挺して守ろうとした楽園は、脆くも崩れ去っていた。
防衛線の要を失い、さらに内部の腐敗によって手引きされた略奪者たちの集団が雪崩を打って街へと侵入したのだ。
数週間後。
傷が癒え、ようやく身体が元通りに動くようになった難羽が街の中心部へ足を踏み入れたとき、そこには地獄が広がっていた。
建物は焼かれ、物資は奪われ、かつて難羽が守ろうとした人々は無残な姿となって至る所に転がっていた。
彼が守りたかった平穏は、彼らが自ら招き入れた悪意によって蹂躙された。
見せしめとして吊るされていたのはもはや外敵ではなく、かつての住人たちだった。
難羽はただ無言でその光景を見つめていた。
肉体的な傷は癒えている。
長い休養によって体力も十分に回復していた。
だが、彼の内側は完全に空洞だった。
吹き荒れる風が通り抜けるだけの、
ブルースたちはきっとあの過酷な旅の果てに、今頃はもう命を落としているだろう。
だが、彼らの死には明確な意味がある。
遥かな後世に希望を繋ぐため、オールフォーワンという巨悪に抗い続けたという事実を残せる、尊い死だ。
だが、己はどうだ?
命懸けで守ろうとしたはずが、いつしか悪意を裁く絶対者として人々に恐れられ、疎まれ、最後は背後から撃たれた。
彼は人々の希望の象徴などではなかった。
人々は、いつかその圧倒的な暴力が、自分たちに向けられるのではないかという恐怖を常に抱えながら、彼を利用していただけだったのだ。
彼は街から害意を物理的に排除し、仮初の「安全」を与えた。
だが、人々の心に寄り添い、「安心」を与えることは決してできなかった。
足を引きずるようにして、難羽は崩壊した街を去った。
あてもなく、ただ荒廃した世界を彷徨う日々。
食料を探す気力すら湧かず、ただ死を待つような放浪だった。
そんなある日。
灰色の空の下で、難羽は不気味な笑みを浮かべる男たちの集団に囲まれた。
彼らの目は食糧や物資を求めているような切羽詰まったものではない。
異形型の個性を持つ彼らの瞳に宿っていたのは、鬱憤を晴らすための手頃な「サンドバッグ」を見つけた、粘着質な歓喜だった。
難羽は彼らと関わり合う気すら起きず、視線を伏せたまま通り過ぎようとした。
しかし、男たちの方からわざとらしく肩をぶつけてきた。
難羽がそれを予測して最小限の動きで躱すと、男たちは待ってましたとばかりに顔を歪めた。
「おい、今避けたろ。俺たちが汚いってか?」
理不尽な言いがかりと共に、背後から強烈な蹴りが難羽の無防備な背中を襲った。
難羽は薄暗い路地裏へと引きずり込まれる。
一方的な暴力の雨が降り注ぐ。
蹴られ、踏みつけられ、殴られ。
鈍い痛みが全身を駆け巡るが、抵抗する気すら起きなかった。
どうでもよかった。
このまま放浪を続けたところで、行き着く先は餓死か病死だ。
ここで息絶えれば、また何処か別の場所で、別の形で目を覚ますだけのこと。
難羽にとって、死は終わりではない。
それはつまり、難羽にとって生という終わりのない苦痛から逃れる術はこの世界には存在しないという、絶対的な絶望の証明でもあった。
(もう、そろそろ死ぬかな)
顔面に硬い石が叩きつけられ、視界が血で赤く染まるのを感じた。
痛みの熱、死に近づいた時の寒さが並び立つ。
難羽は他人事のようにそんなことを考えていた。
意識が遠のきかける中、彼は目を閉じた。
しかしその深い絶望の淵、圧倒的な暴力と暗闇の底に唐突に「光」が差し込んだ。
「シュワッチ!」
甲高く、しかしどこか威厳を感じさせる奇妙な叫び声が路地裏に響いた。
表通りのわずかな光を背に受けて、誰かが男たちの前に立ちはだかっていた。
突如現れた乱入者に男たちは一瞬怯みながらも、すぐさま敵意を剥き出しにして飛びかかる。
「デュワ!」
次の瞬間、目を疑うような光景が広がった。
男の一人が目にも留まらぬ鮮やかな身のこなしでジャイアントスイングのように放り投げられ、他の仲間たちを巻き込んで路地の壁に激突したのだ。
あまりの膂力と体術にパニックを起こした別の男が、慌てて懐から銃を取り出し構えようとした。
その瞬間、光の乱入者は両腕を顔の前で十字にクロスさせる、独特の構えをとる。
刹那、その腕から眩い光の線が放たれた。
まるでスタンガンを至近距離から撃ち込まれたかのように銃を構えた男は激しく痙攣し、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
わずか数秒の出来事だった。
男たちが全員地に伏して呻き声を上げ、完全に動けなくなったのを見届けると、その光を纏った存在は地面に倒れ伏し血塗れになっている難羽に向かって、静かに手を差し伸べた。
「デュワ? ……ヘアッ!」
厚く垂れ込めた雲の隙間から一筋の陽光が漏れ、路地裏の影を払うように照らし出した。
「シュワッチ! …………デュワワワ? ヘアッ!?」
差し出された手とその姿をはっきりと捉えた瞬間。
難羽は痛む頬を引き攣らせ、目を見開き、そして──思わず吹き出してしまった。
光の国からやってきた、銀色と赤の模様を持つ戦士。
卵型の滑らかな頭部。
黄色く発光するアーモンド型の瞳。
胸で輝くカラータイマー。
それは等身大の、小さな小さなウルトラマンだった。
平和だった時代に見たヒーローショーの光景が現実に飛び出してきたような、あまりにも場違いで、滑稽で、それでいてひどく頼もしい光景。
「ヒー……ロー……」
難羽の口から、無意識のうちにその単語がこぼれ落ちた。
彼は、偽物のヒーローに本物を感じたのだ。
それが覚上まどかと難羽の数奇な出会いだった。
※本人は普通に話してると思ってます。