バグのヒーローアルカディア   作:胡麻蝉あぶら

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11話 ネズミの国に鼠が入る

 

四月の陽気が満ちる雄英高校。

入学式直前の校舎は、新生活への期待に胸を躍らせ、あるいは名門校特有の重圧に顔を強張らせる新入生たちのエネルギーで満たされていた。

 

だが、そんな青春の彩りとは無縁の領域に、難羽輪太郎はいた。

 

彼がサポート科1年H組の教室——正確には巨大な開発工房の様相を呈した空間——に足を踏み入れた瞬間、その場の空気は微かに、しかし確実に変質した。

 

教室内部は、一般的な学校のそれとは異なり、オイルの匂いと金属の冷たい質感に支配されている。

各生徒に割り当てられた高機能作業台、共有の大型工作機械、そして壁一面に整然と並ぶツールラック。

早々に自身の作業スペースを確認しに来た数名の生徒がいたが、難羽は彼らに目もくれず、指定された自身の席へと向かった。

 

 

(……室温24.5℃、湿度45%。機材の稼働には適正範囲内)

 

 

サングラスの奥で、彼の脳内ナノマシンが高速で環境スキャンを実行している。

彼の視界には、現実の風景に重なるようにして、青白いグリッドと数値データが投影されていた。

各機材の電力消費状況、空間を飛び交うWi-Fi信号の強度、そしてセキュリティカメラの死角。

彼にとってこの教室は学び舎ではなく、攻略すべきダンジョンであり、同時に利用すべきリソースであった。

 

 

難羽は自身の作業台に鞄を置くと、椅子に深く腰掛けた。

周囲の生徒たちが、互いにぎこちなく挨拶を交わしたり、高価な機材に目を輝かせたりしている中、彼は静かに右手の黒いグローブを、机上の端末ポート付近にかざした。

 

 

(さて……まずは陣地を作るか)

 

 

彼の目的は以前実行した入学試験データの回収のようなハッキングではない。

今回は雄英高校のセキュリティシステム深層に自作のファイアウォール・プログラムを寄生させることである。

これは将来的に外部からの侵入を検知し、彼自身のデータ領域を防衛するためのデジタルな砦の構築を意味していた。

 

 

『コマンド承認。イージス起動』

 

 

グローブの繊維の隙間から肉眼では視認できない微細なナノボットが放出され、端末の物理ポートへと浸透していく。

難羽の指先が、空中で微かに動く。

それはピアノを弾くような優雅さではなく、外科医がメスを振るうような精密で冷徹な動きだった。

 

傍から見れば、彼はただ机に手をついて、サングラス越しにぼんやりと虚空を見つめているようにしか見えない。

しかし、その脳内では、雄英が誇る堅牢なセキュリティシステム(おそらくは校長である根津の設計によるもの)の僅かな隙間を縫い、独自の防衛コードを編み込むという高度な電子戦が展開されていた。

 

 

「……構造が甘いな」

 

 

難羽は誰に聞かせるでもなく、極めて低い声で呟いた。

それは慢心ではなく、事実に基づく淡々とした評価であった。

彼にとって、現代最高峰とされるこの学校のセキュリティでさえ、まだ彼自身の技術レベルには追いついていない。

 

 

 

 

難羽がファイアウォールのインストール進捗率が80%を超えたことを確認した、その時だった。

 

教室の奥まった区画から天地を揺るがすような轟音が響き渡った。

黒煙が上がり、焦げ臭い匂いが瞬時に充満する。

周囲の生徒たちが悲鳴を上げ、あるいは呆気にとられる中、その煙の中から一つの影が勢いよく飛び出してきた。

 

 

「ゲホッ、ゲホッ! ……ふぅ、惜しい! 出力の調整が甘かったか!」

 

 

煤だらけの顔に特徴的な桜色のドレッドヘア。

頭にはスチームパンク調の無骨なゴーグルを装着し、その虹彩には十字の照準器を思わせる模様が浮かんでいる。

 

発目明。

彼女は周囲の視線を一切気にすることなく、煙を払いながら教室内を見回した。

そして、その特異な瞳——個性「ズーム」——が、教室の中央で微動だにせず座っている難羽を捉えた。

 

 

「んん!? あなた、面白いもの持ってますね!」

 

 

発目は躊躇なく難羽の元へ突進した。

初対面の、しかも強面のサングラスをした男子生徒に対する警戒心など微塵もない。

彼女は難羽の作業台に身を乗り出し、その顔を至近距離まで近づけた。

 

「私は発目明! サポート科の未来のスターです! あなたは!?」

 

難羽は眉一つ動かさず、冷静にファイアウォールのインストールプロセスをバックグラウンド処理へ移行させた。

彼の視界のオーバーレイには至近距離にある発目の顔面データと、彼女の瞳孔の動きがリアルタイムで解析・表示されている。

 

 

「……難羽だ。難羽輪太郎。よろしく」

 

 

難羽の声は低く、抑揚が少ない。

しかし、そこには相手を拒絶する棘はなく、むしろ珍しい実験動物を観察する研究者のような響きが含まれていた。

 

「難羽くん! よろしくお願いします! ねぇ、そのグローブ、変な素材ですね! カーボン? じゃないな、もっと有機的な……触っていいですか?」

 

 

発目が難羽の手、つまりナノマシングローブに触れようとした瞬間、難羽は自然な動作でスッと手を引いた。

 

 

「……触らない方がいい。特殊な素材でね、静電気を帯びやすい体質なんだ。精密機器に影響が出る」

 

 

それは半分嘘であり半分真実だった。

 

現在雄英の物理的な外壁などを展開するプログラム部分に侵入しているため、外部からの接触は予期せぬフィードバックを引き起こす可能性があった。

 

 

具体的に言うと、雄英バリアーが音を立てながら開閉を繰り返すこととなる。

 

 

グローブへの接触を回避された発目は、瞬時に対象を切り替えた。

彼女の好奇心は、障害にぶつかるたびに加速する性質を持っている。

 

 

「じゃあ、そのサングラス! 室内でサングラスなんて怪しいです! 絶対に何か仕込んでいますね! HUD(ヘッドアップディスプレイ)? 生体スキャン? 私もベイビーに搭載しようとしていますが、小型化と電源問題がクリアできません! 見せてください!」

 

 

彼女の推測は鋭かった。

確かに難羽はHUDを使用しているし、生体スキャンも行っている。

 

しかし、その機能はサングラスではなく、彼の脳と眼球そのものに宿っている。

 

もし彼がサングラスを見せることを頑なに拒めば、発目と周囲の生徒たちはサングラスに秘密があると確信し、より執拗に探ろうとするだろう。

それは結果として、彼の本質的な秘密(人体改造)に近づかれるリスクを遠ざける。

 

そこで腕を組み、まるで目の前の人物に大事なものを預けていいのか悩むように時間をとる。

 

 

「……ただのブランド品だ。目が光に敏感でね」

 

 

難羽はため息をつきながら、ゆっくりとサングラスを外した。

 

露わになったのは、色素の薄い銀色の瞳。

その瞳は教室の人工照明を冷たく反射し、まるで磨き上げられたレンズのように無機質な美しさを湛えていた。

 

彼はサングラスを折りたたみ、発目へと差し出した。

 

 

「確認するか?」

「えっ、いいんですか!?」

 

 

発目は遠慮なくサングラスを引ったくると、自身の個性「ズーム」を全開にして観察を始めた。

彼女の瞳の十字模様が回転し、焦点距離が極小レベルまで調整される。

 

 

「うーん……配線なし、バッテリーなし、レンズに特殊コーティングはあるけど……ただの偏光レンズ? フレームの厚みも普通……」

 

 

発目は数秒間、舐めるようにサングラスを観察した後、あからさまに落胆した声を上げた。

 

 

「なんだぁ、本当になんにもないんですか。がっかりです」

 

「期待外れですまないな」

 

 

難羽は淡々と答え、サングラスを受け取り再び装着した。

 

個性という特異な力が存在していても使うのは人間である。

このようなマジックでも使われていた、ミスディレクションなどの技術は人を騙すだけなら非常に役立つ。

 

 

「質問に答えよう。だがその代わり、お前の個性について聞きたい」

 

 

難羽は即座に攻守を逆転させた。

目の前にいる少女の特異な眼球構造は、彼の知的好奇心を刺激するに十分な素材だった。

 

 

「私の個性ですか!? 聞いて驚け! ズームです! 本気出せば5キロ先まで見える! これがあれば、微細な部品の組み立ても顕微鏡いらず! 可愛いベイビーたちの健康状態も一目瞭然です!」

 

「……5キロか。その際の視野角は? 焦点深度の調整は水晶体の厚み変化によるものか、それとも眼軸長の物理的伸縮を伴うのか?」

 

「え? えーと、意識すればググッと寄る感じだけど……眼軸? わかんないけど、使いすぎると目が充血するから物理的に動いてるかもですね!」

 

「解像度はどうだ? 遠距離視認時の陽炎などに対する補正機能は脳内処理か、それとも眼球自体のフィルタリングか?」

 

「おおっ!? 難羽くん、あなたいいところに気付きますね! そうです、暑い日とかは揺らぎがすごい邪魔になります!」

 

 

難羽は脳内のデータベースに、発目の証言と観察データをリアルタイムで記録・統合していった。

 

 

(……視覚情報の物理的拡大。ハードウェアとしての眼球性能が極めて高い。おそらく眼球どころか脳の情報処理能力も発達している。むしろ重要なのはそれだ)

 

 

この一連のやり取り――爆発とともに現れた少女と、それを冷徹に分析するサングラスの少年――は、1年H組の他の生徒たちにとって、強烈な最初の洗礼となった。

 

難羽の纏う空気は、明らかに高校生のそれではない。

 

彼は周囲に溶け込もうとする努力を一切放棄しており、それが逆に一種のカリスマ性となって周囲を圧迫していた。

 

その時、難羽の視界の隅で緑色のインジケータが点灯した。

 

 

『——プロトコル イージス、インストール完了』

 

 

ファイアウォールの設置が完了した。

これで雄英高校のネットワーク内における難羽の領域は確保された。

発目明という嵐をやり過ごしながら、彼は誰にも気づかれることなく、この学校のセキュリティの一部を静かに掌握したのである。

 

 

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