113話 新生ショッカー
緑谷の意識が現実世界へと帰還した。
彼が瞼を開くと、視界には無機質な白い天井が映っていた。
消毒液と微かな機械の稼働音が混ざり合う空間。
ラボに設置された医療用ベッドの上であった。
ゆっくりと上半身を起こすと、隣のベッドでオールマイトも息を吐きながら身を起こしているところである。
そして彼らの目の前には、すでに目覚めた難羽が両手をポケットに突っ込んで立っていた。
緑谷の視線はそんな難羽の姿を通り越し、ラボの中央に聳え立つ異様な物体へと吸い寄せられた。
それは先ほどまで彼らがいた精神世界の空間を突き破るようにして出現した、あの漆黒の大樹であった。
幹の表面には無数の生物的な脈動が走り、まるでそれ自体が一つの巨大な心臓のように静かに鼓動を打っていた。
「……難羽くん。この樹は……一体何なの?」
緑谷は恐怖と好奇心の入り交じった声で問いかけた。
あのワン・フォー・オールの精神世界にこの樹が空間を侵食するような形で入り込んできていた。
関係ないはずはない。
難羽が緑谷の問いに答えた。
「分かりやすく言えば……これは、巨大な樹の形をした脳無だ」
その言葉に緑谷とオールマイトの目が見開かれた。
死体をベースに複数の個性を植え付けられ、思考力を奪われた人間兵器。
あの悪夢のような怪物とこの大樹は同じなのか。
「……複数の個性を無理やり肉体に宿せば、脳が処理の負荷に耐えきれず、人間としての思考能力が完全に破壊される……それは、お前たちもよく知っているだろう」
難羽は大樹の黒い幹を軽く撫でながら説明を続けた。
「だが、逆に言えば……最初から思考するための脳がなく、ただ個性を保存するためだけの成長する器として設計すれば、そこにどれほど個性を詰め込もうが自壊することはない」
難羽の言葉がラボに響く。
「これは個性を兵器として使用するためのものではない……日本中から回収した膨大な個性因子を内蔵されたこの幹の内部で保存。そこから因子に宿る記憶を読み取るためだけに調整された、巨大な生体ライブラリだ……さっきまでの精神世界に私が干渉できたのも、お前たちとこの大樹を接続させて私が外部からアクセスしたからに過ぎない」
難羽は以前、保須の街でヒーロー殺しステインを捕らえた際。
彼の過去の経歴と思想をまるで隣で見ていたかのように正確に言い当てていた。
ショッカーの組織力や難羽自身のハッキング技術を用いれば、ステインの生い立ちや戸籍上の経歴を調べること自体は造作もない。
しかし、彼がどの瞬間に絶望し、どのような狂った思想を抱くに至ったのかという、人間の内面的な感情の動きまでを外部からの調査だけで当てることなど不可能なはずだ。
だが、難羽はそれを完全に的中させた。
その理由はこの大樹に隠されていた。
難羽は自作の超小型の蚊型ドローンを全国規模で放ち、街角で無作為に人々の血液を採取させていた。
そして回収した血をこの大樹に取り込ませ、血液内に含まれる個性因子から彼らの記憶を直接サルベージしていたのだ。
ステインの過去も、そうやって読み取った情報の一つに過ぎなかった。
余談だが、個性因子に刻み込まれている記憶は、単にその人間の視界に映った主観的な映像ではない。
肉体を中心に周囲のあらゆる環境のデータを個性が無意識に記録し続けている、言わば客観的な事実の集合体である。
人間の思い込みや感情のバイアスによって歪曲・変更されることのない記録だ。
だからこそ難羽はステインの真実だけでなく、自身がどうやってこの世界に生まれ落ちたのかという謎さえも知ることができたのである。
難羽からその規格外のシステムの全貌を聞き。
緑谷とオールマイトは、ただ圧倒されることしかできなかった。
彼らは、目の前の悪を討ち倒し、人々を救うための正義のヒーローだ。
しかし、難羽という男の最大の敵はヴィランなどではない。
この世界の構造そのものであった。
あまりにもスケールが違いすぎる。
ヒーローという職業の範疇を完全に超えた、専門外の話であった。
重苦しい沈黙を破り、オールマイトがベッドから降りて難羽に問いかけた。
「……難羽少年……君の危惧する人類の終焉のシナリオは理解した。だが……今、この瞬間に無個性化の計画を始めなくてはならないのか? ……君の技術と寿命があれば、もっと後の世代……実際に終末の予兆が世界中に現れ始めた時に真実を公表し、もっと穏便で平和的な解決策を取ることもできるのではないか?」
オールマイトの指摘は真っ当である。
人類の無個性化。
それは人類全体が絶対的な力を失うことを意味する。
一人の狂人によって、一度に数千、数万の人間が理不尽に殺されるような大惨事は確実になくなるだろう。
しかしその代償として、ヒーローや個性を前提として築き上げられた現代の社会システムと価値観は、根底から崩壊する。
規模は違えど、超常黎明期の再来である。
暴力やヴィランの恐怖によって直接命を落とさずとも。
経済の崩壊、職の喪失、そして社会秩序の混乱という資本的な要因によって、数え切れないほどの人間が間接的に死に至ることは明らかだった。
難羽はオールマイトの問いに対し、ひどく深くため息をつき、項垂れた。
それは、彼自身がその犠牲の大きさを誰よりも理解し、思い悩み、それでもなお時間が足りないという残酷な結論に至ったことを意味していた。
難羽は顔を上げ、オールマイトと緑谷の二人にとって、決して忘れることのできない存在の名を口にした。
「……ヘドロヴィラン。お前たち二人は、あの男のことをよく知っているだろう」
緑谷が息を呑む。
どうしてここで、自分にヒーローとしての始まりとなったヴィランの話が出るのか。
二人は困惑した。
しかし、緑谷の脳裏にかつてトンネルの中で襲われ、そして爆豪を助けるために無我夢中で飛び出していった時の光景が蘇る。
そしてあの緑色の泥の姿が浮かんだ瞬間。
彼の背筋を強烈な怖気が駆け抜けた。
あの時、緑谷はただのパニックの中で、強力な個性を持ったヴィランとしか認識していなかった。
しかし、今。
個性という力が複雑に混ざり合い、世代を重ねるごとに人は人間としての形を完全に失っていくという、真の個性終末論の恐ろしい真実を聞かされたばかりである。
「あのヘドロのヴィランは……人間の身体を、持っていなかった」
緑谷は震える手で自身の口を覆った。
あの時、緑谷は爆豪を助けるためにヘドロの身体を必死に掴もうとした。
しかし泥のような表面を掻きむしるだけで、内部に存在するはずの内臓や急所となる核のようなもの、そして生殖器官の類は見つからなかった。
あれは人間としての形を完全に失い、異形の別種族へと進化し果てた姿だったのだ。
難羽が銀色の瞳で二人を見据える。
しかしその瞳の奥には、底知れぬ昏い悲哀が渦巻いていた。
「……私はどうしようもない悪人を殺してきた……その中には、人の形を完全に失っていた者も存在していた」
難羽の口から出る言葉は鉛のように重い。
「人の形を失えば、人間としての同族意識や共感性は喪失する……あのヴィランも、お前たちと遭遇したあの日が初犯などではない……多くの人間の肉体を乗っ取り、己の皮として使い捨ててきていた。……被害者の中には乗っ取られた身体で犯罪を犯させられ、無実の罪で刑務所に収監された者もいた」
「…………ッ」
話を聞く二人の顔から、血の気が引いていた。
それは強大な力を持ったヴィランに遭遇した時に感じる恐怖とは全く違う。
人類という種の根本的な変質に対する絶望であった。
人間として子を残すことができず、他者の痛みに共感することもできない、人の形を完全に失った存在。
彼らを繋ぐ過去がサンプルとなり、難羽の提唱する個性終末論の恐ろしさを補強していた。
すでに世界は崩壊と終焉に向かって、坂を転がり落ちているのだ。
重く沈み込んだ空気を払うように、難羽は短く咳払いをした。
「……そもそも、私のこの計画もまだ成功が約束されたものではない。研究段階だ。……全人類の個性を完全に消去したとして。無個性同士の夫婦から生まれた子供が、突然変異で再び強力な個性を宿して生まれてくる可能性も考慮しなければならない……デヴィッドをわざわざ海外の刑務所から誘拐したのも、私一人では至らないその研究の知恵を借りるためだしな」
難羽はそう告げた後。
オールマイトと緑谷の二人に向かって、深く頭を下げた。
「……だから、約束しよう」
難羽は顔を伏せたまま、覚悟を持った声で宣告した。
「私が、この計画を実施しなければならない日が来た時には……必ず、お前たち二人に報告する。……そしてその時。私はこの平和な世界を恐怖で支配し、個性を奪い去る絶対的な悪として、世界の前に堂々と名乗りを上げる……そしてその悪を」
難羽が顔を上げ、二人を真っ直ぐに見据える。
「お前たちが、倒してくれ」
「……!!」
緑谷とオールマイトの喉から、声にならない悲鳴のような息が漏れた。
悲劇が地震や病のような単なる理不尽な自然災害であれば、人はその絶望を受け入れることが出来ない。
しかし、その悲劇を引き起こしたのが、明確な意思を持った邪悪な存在であったならば。
人々は、自分たちの奪われた個性の怒りや憎しみを向ける対象を持つことができる。
その存在が倒されることで社会は納得し、再び立ち上がるための活力を得ることができるのだ。
難羽は自分が世界を根底から変え、多くの人間を間接的な死に追いやるという絶望の責任を。
自身が絶対悪として名乗り出て受け入れるつもりなのだ。
そこに仕方がなかったという釈明はないだろう。
「…………」
二人は強く唇を噛み締めた。
それが誰かを救うための約束であったなら、彼らは迷わず即答で頷いただろう。
だが、これは叩き落とすための約束だ。
自分たちの恩人であり、友であり、師である男を本物の悪に堕とす、呪いのような約束。
難羽はそれ以上何も言わず、空間転移用の装置を持ってきて、無言のまま二人をそれぞれの場所へと帰還させた。
ラボには大樹の微かな鼓動の音だけが、静かに残された。
緑谷たちが帰還した後。
静寂を取り戻した難羽のラボに、重い足音を響かせて、秘密結社ショッカーの幹部たちが次々と集結してきた。
レディ・ナガン、ホークス、トゥワイス、轟燈矢。
そして覚上。
彼らは全員、緑谷たちよりも前に真の世界征服の詳細を聞かされていた。
皆、難羽の背負う十字架の重さと己たちの進む道が地獄であることを理解し、その使命を全うする覚悟を決めている。
否、燈矢だけが歯噛みしたような顔だ。
難羽は彼らの顔を一人一人見渡した。
「……今この瞬間より。表社会で活動しているムゲン・バンダイの社員、ショッカー救助隊、および一般構成員の面々を切り離す……いずれ、彼らは新しい社会のシステムの一部として自然に馴染んでいくだろう」
幹部から下のメンバーの切り離し。
それはトカゲのしっぽ切りのような保身ではない。
仮に難羽たちの計画が失敗し、彼らが世界中から追われる悪党として破滅したとしても。
個性による事故の救済や生活支援といった社会的な活動は、今後も絶対に必要不可欠である。
彼らが悪の組織の残党という汚名を着せられれば、その活動は完全に停止してしまう。
難羽は計画の成否に関わらず、社会を救う光の役割を彼らに託したのだ。
その時、ラボの空間が不気味に歪み、真っ黒な靄が出現した。
靄の中から姿を現したのは。
かつてヴィラン連合に所属していた、トガヒミコ、Mr.コンプレス、マグネ、マスタード。
そして彼らを繋ぐワープゲートを今まさに閉じたばかりの、黒霧であった。
ロシナンテの面々である。
行方を眩ませた死柄木。
彼がオールフォーワンの復活の器として利用されていることに気づいたのは、ドクターである殻木の研究所に出入りすることが多かった黒霧であった。
数日前に黒霧たちは死柄木の絶望的な運命を悟り、それを阻止するために難羽へ接触してきていたのだ。
彼の本来の主が万全となるための儀式に死柄木が使われる。
それは、本来の彼だったら納得できたことだろう。
死柄木に付き従っていたことも命令だった。
しかし友を、失いたくなかった。
「……死柄木弔を。……どうか、死柄木を助けたい……私たちに、力を貸してほしい」
黒霧はその実体のない黒い靄の身体を深く折り曲げ、難羽に懇願した。
その黒い靄の奥底。
そこにはゴーグルをつけたシルエットと運命に抗おうとする反逆の光を宿した瞳が、微かに揺らめいて見えた。
難羽は決死の覚悟を見据え、静かに頷いた。
「……受け入れよう……ただし、オールフォーワンを討ち果たし、あいつを救い出した後。お前たち全員がこれまでの罪の清算として、法の裁きを受けることが条件だ」
「……感謝します」
黒霧が、そしてロシナンテの面々が、深く頭を下げた。
ロシナンテと共に復活したオールフォーワンを討ち、そして最終的には、破滅へと向かう世界そのものと戦う。
今この瞬間、秘密結社ショッカーは過去の因縁を飲み込み、新生を果たした。
難羽はラボの中央に聳え立ち、人類の歴史と記憶をその身に宿す巨大な大樹バベルを背にして、集結した仲間たちに向かって高らかに宣言した。
仮面ライダーに登場する悪の秘密結社が再誕した際に使われた、ゲルショッカーをもじった名前を。
「……バベルショッカー……我々はこれより、世界を支配する!!」
雄英高校の学生寮。
深夜の自室のベッドで緑谷は私服のまま仰向けに横たわる。
ここ数日間の間に、あまりにも多くのことが起きすぎた。
文化祭の熱狂。
単なる友人だと思っていた難羽の途方もない過去と正体。
精神世界で出会った、歴代継承者たちの面々。
そして個性の暴走の果てに待つ、人類の終焉という絶望的な真実。
しかし、緑谷の心を今強く締め付けているのは、そのどれでもなかった。
緑谷の脳裏に、文化祭の直後、あの校長室で起きた出来事が鮮明にフラッシュバックする。
夢から覚めた後、校長室でどんな話をしていたかを完全に思い出したのだ。
難羽の技術によって、完全に蘇生したサー。
彼は記憶を取り戻した後、自分が未来予知で見た光景の本当の意味を理解し、叫んだのだ。
「……お前の語る世界征服など……達成されるはずがない!!」
ジェントルの襲撃を予知した際。
記憶を失っていた彼は、自身の未来視の個性の正しい使い方を理解していなかった。
そのため彼は、対象の未来を最後まで見るという、本来の彼であれば決して行わなかったであろうタブーを犯し、遥か先の未来までを観測してしまっていたのだ。
彼がそこで見た光景。
仮面アクターの凄惨な最期──謎のヴィランによって彼の肉体が破壊され、殺されるという絶望のビジョンだった。
与一とAFOの記憶が見えるシーン。
原作読んでた時、最初誰の視点だろうと思ってました。