次回から最終章なので、次の投稿は少し遅れるかもしれません。
イルミネーションが冬の冷たい夜気を色鮮やかに染め上げている。
行き交う人々は一様に白い息を吐く。
その顔には隠しきれない高揚感が浮かんでいた。
クリスマスイブ。
恋人たちは身を寄せ合って二人だけの特別な時間を分かち合い、友人たちは賑やかな店内で酒杯を交わして絆を確かめ合う。
一年に一度、世界が温かな光と祝福に包まれるような、そんな聖なる夜。
しかし、華やぐ大通りを歩く八木の周囲には孤独な空気が漂っていた。
彼は自身の吐き出す白い息を眺めながら、肩をすくめて歩みを進める。
平和の象徴、オールマイトとして君臨し続けた数十年間。
彼は己の私生活を徹底的に社会の目から隠し、ただひたすらに巨悪と戦い続けてきた。
ワン・フォー・オールという継承される力の秘密を守り、オールフォーワンという闇の帝王から周囲の人間を遠ざけるため。
彼は意図して孤独を選び、誰かと深く寄り添うことを自らに禁じてきたのである。
その結果として、彼はこの年齢になっても独り身であった。
もちろん彼がその気になれば、相手を見つけることなど造作もないだろう。
オールマイトの恋人になりたい人など世界中に山ほどいるはずだ。
性別、年齢を超えて。
現在、彼はワン・フォー・オールの力を次代へと継承し、プロヒーローとしての最前線からは退いている。
背負い続けた重責から解放され、彼を縛り付けるものはない。
それでも、今更になって自身の伴侶となる女性を探しそうという気力は湧き上がってこなかった。
ふと横を向くと、ショーウィンドウに己の姿が映り込んでいた。
そこに立つのは、かつて世界中を熱狂させたマッスルボディを誇る無敵のヒーローではない。
痩せこけ、頬骨が浮き出た男の姿だ。
男の手には帰りがけの洋菓子店で購入した、小さなショートケーキの入った袋が提げられている。
全盛期の頃であれば、分厚いステーキを何枚も平らげ、豪快に笑い飛ばしていたものだ。
しかし、重傷を負って胃を全摘して以来、彼の食は細くなる一方であった。
今の彼にとってはこの小さなケーキ一つでさえ、十分すぎる量なのだ。
八木は自嘲気味な笑みを浮かべ、長い溜息を夜の闇へと溶かした。
彼は華やかな駅前の喧騒からさらに離れ、閑静な住宅街へと向かって歩き続ける。
世界を救った大英雄であるオールマイトが、なぜこのような一般的な住宅地に住んでいるのか。
誰もが、彼は厳重な警備に守られた豪邸に住んでいると想像するだろう。
しかし、住所が世間に露見するリスクを抑えるため、彼はあえてごく普通の集合住宅を生活の拠点に選んでいた。
天涯孤独の身であり、ハウスキーパーすら安易に招き入れることができない彼にとって。
広すぎる家は、かえって己の孤独を際立たせるだけの無用の長物でしかなかったのだ。
住宅街の街灯は等間隔に並んでいるものの、駅前のイルミネーションと比べれば心許ない光しか放っていない。
その薄暗い道を進んでいた八木の足が、不意に止まった。
彼の視線の先、数メートルほど離れた街灯の下に一つの影が立っていた。
冬の夜の寒さを凌ぐような厚手の衣装を身に纏い、背中には自身の体躯ほどもある巨大な袋を背負っている。
そして顔の下半分を覆い隠すほどの、立派な白い髭を蓄えた初老の男。
「──サ、サンタさん!」
八木は弾んだ声を上げた。
全盛期の彼はサンタになるのが主であり、楽しむ立場ではなかった。
この近所にサプライズ予定の家があるのだろう。
なんだかラッキーなものを見た気分になっていた。
その声に呼応するように、サンタが無言のまま一歩、また一歩と八木の方へ近づいてくる。
距離が縮まり、街灯の冷たい光がサンタの全身を明確に照らし出した。
その瞬間、八木の顔に浮かんでいた柔らかな微笑みが困惑へと変わる。
八木の網膜が捉えたのは、鮮やかな赤と純白で彩られた衣装ではなかった。
目の前に立つ男が身に纏っているのは夜の闇よりも深い、漆黒のサンタ服であった。
八木の脳裏に、かつてどこかで耳にしたことのある古い伝承の記憶がよぎる。
一部の地域に伝わる黒いサンタクロースは、悪い子供を袋に詰めて連れ去ってしまうという。
──嫌な予感がする。
八木がその不吉な連想に思考を巡らせた、まさにその直後。
黒いサンタの背負っていた巨大な袋が、八木の頭上から覆い被さるようにして振り下ろされた。
視界が遮断され、暗闇に包まれる。
同時に袋の内側に充満していた何らかの気体が、八木の鼻腔を容赦なく犯した。
脳髄を直接麻痺させるような、強化学物質の臭い。
途端に、八木の意識が急速に沈み込んでいく。
(今の私を狙うヴィランがいるとは……!)
薄れゆく意識の端で、八木は己の油断を後悔した。
しかし、すでに遅い。
今の脆弱な肉体では、袋を引き裂いて脱出することはおろか、自身の体に抗うように力を込めることすら叶わなかった。
彼の意識は、深い闇の底へと落ちていった。
どれほどの時間が経過したのだろうか。
八木の意識が浮上し、重い瞼を押し開けた。
彼の視界に飛び込んできたのは無機質で暗い色合いの天井であった。
そして彼は、自分が円形の台座の上に大の字で寝かされていることに気がついた。
身につけていたはずの防寒着や衣服は取り払われ、いつの間にか患者衣に着替えさせられている。
八木は現状を把握するため、上半身を起こそうと力を込めた。
しかし、彼の身体は台座に張り付いたまま動かない。
両手と両足首に金属の感触がある。
鉄の鎖によって、台座に拘束されていたのだ。
(何のつもりだ。まさか、私の個性の研究をしようと考えたのか?)
八木の脳裏に最悪のシナリオが駆け巡る。
現役時代から、彼が持つ個性の秘密を暴こうとする記者やヴィランたちが後を絶たなかった。
かつてであれば一蹴することができた。
だが、今の八木には、己の身を守る術は残されていない。
無力となった元・平和の象徴を狙い、その身体に隠された秘密を解剖しようというヴィランの仕業なのか。
八木がそんな推測を強めていた時、部屋の奥にある重厚な扉が開く音が響いた。
静かな足音と共に、三つの人影が台座の方へと近づいてくる。
彼らは一様に手術着を身に纏っていた。
全員が室内であるにも関わらず、サングラスで目元を隠している。
「お前たち、何者だ!」
八木は己を奮い立たせるように、腹の底から声を振り絞って叫んだ。
しかし、近づいてきた三人の顔を見た瞬間、彼の中に張り詰めていた緊張の糸が切れてしまった。
一人は長身の男。
もう一人は、小学生と見紛うほどの小柄な体格。
そして最後の一人。
その手術用のキャップに収まりきらず、豊かな深紅の縦ロールを揺らしている少女であった。
「……何しているんですか」
八木の口から、怒りよりも疲労感を伴った声が漏れた。
「もう少し乗ってほしかったな。わざわざセットまで作ったんだぞ」
長身の男が肩をすくめながらサングラスを外し、顔を覆っていたマスクを下ろした。
難羽である。
そして、残る二人も次々と変装を解く。
小柄な人物はアット。
深紅の縦ロールの少女は、正体が明らかであった覚上である。
「いや何をしてるんですか!? クリスマスですよ!?」
八木は自身が拘束されている状況も忘れ、思わず突っ込んだ。
ほとんどバラエティ番組のドッキリ規格である。
「クリスマスに一人でため息ついてる奴が言うなよ、八木」
難羽は八木の抗議をあしらいながら、鎖の錠を解除していく。
自由になった手首をさすりながら、八木は恨めしげな視線を難羽へ向けた。
「お前へのクリスマスプレゼントだ。考えてみれば、オールマイト引退に合わせてパーティーを開いたり、プレゼントやるとかなかったからな」
難羽は悪びれることもなくそう告げた。
難羽はこれまでも生徒たちやプロヒーローたちに対して、彼らの能力を補完するためのサポートアイテムを無償で提供してきた。
難羽自身はそれを来るべき脅威に備えるための合理的な投資であり、必要な措置であると考えている。
しかし、周囲から見ればその行動はまるで、久しぶりに会った孫にお小遣いを配るお爺ちゃんのそれである。
ショッカー幹部達もそれは指摘しなかったが。
そんな彼が、ふと気づいたのだ。
過酷な戦い、そして重い責任を背負わせていた八木俊典という男に対して、自分は贈り物一つ渡していなかったということに。
「というわけで勝手に手術をさせてもらった」
「勝手に!? 痛みもないのが怖いんですけど、何したんですか!?」
八木は弾かれたように跳ね起き、自身の身体をまさぐった。
手術と言われたからには、どこかにメスを入れられたはずだ。
彼は慌てて患者衣の胸元を開き、自身の腹部を確認した。
しかし、そこには縫合の跡も、出血の痕跡も、何一つ見当たらなかった。
「……え?」
八木の動きが止まる。
手術痕がない。
一般的な意味で言えば、それは手術が行われなかったか、あるいは傷跡が残らないほど完璧な施術が行われたかのどちらかである。
しかし、八木にとっては、その事実が意味するものは全く別である。
数年前、オールフォーワンとの死闘の末に重傷を負い、胃を全摘出するという大手術を受けた彼。
その代償として、彼の左腹部には巨大で痛々しい戦いの傷跡が刻み込まれていたはずなのだ。
それが無くなっていた。
「人工胃の移植。ナノマシン定着による免疫力、治癒能力の向上。おまけでその傷跡を消しておいたぞ」
難羽が施術の内容を口にした。
この超人社会における技術の発展は、目覚ましいものがある。
空間に立体映像を投影する技術や、雄英高校の入試で使用されるような高度な自律型ロボットなど、二十一世紀の常識から見れば魔法のような進歩を遂げている。
しかし。
その一方で、医療技術に関しては社会の発展から取り残されていた。
個性の発現によって、人類の身体構造は極端な多様化を見せた。
内臓の配置が異なる者、未知の臓器を持つ者、あるいは肉体そのものが別の物質で構成されている者。
そうした千差万別の体質を持つ患者一人一人に合わせて、人工的な臓器を設計し、製造することは莫大なコストと時間を要する。
さらに複雑化した人体構造に対する外科手術の難易度は跳ね上がり、医療の現場は常に手探りの状態を強いられていたのだ。
結果として、かつてのトップヒーローであった八木でさえ代替臓器の移植という選択肢を取れず、そのまま生きていくしかなかったのである。
その事実を知るからこそ、八木は難羽の言葉の意味を理解し、震える手で自身の腹部に触れた。
「ま、まさか……」
「そうだ。今日から食べたいものをしっかり食えるぞ」
難羽のその言葉に、八木の顔に張り詰めていた緊張が解けていく。
そして、子供のような無邪気な笑みが広がった。
あの致命傷を負って以来、彼の食事の楽しみは奪われていた。
かつての食欲は消え失せ、今ではインドア派の女子高生が使うような小さな弁当箱程度の食事量で身体を維持するしかなかったのだ。
食べる喜びを再び取り戻せたこと。
それはどんな高価なプレゼントよりも、彼にとって価値のある贈り物であった。
八木は弾むような足取りで台座から降り、アットに案内されて研究所の出口へと向かった。
難羽が事前の相談もなく勝手に自身にメスを入れたことには、確かに肝を冷やした。
しかし、彼の常識外れの行動力とその背後にある技術力については、八木は誰よりも信頼している。
だからこそ、彼は失われた胃の復活を素直に喜び、今日のディナーは何にしようかとその場を後にしたのである。
八木とアットの後ろ姿が扉の向こうに消え、部屋の中には難羽と覚上の二人が残された。
「……八木には悪いことをした」
難羽は扉を見つめたまま、ため息を吐き出した。
難羽が持つ、死者すら生き返らせる技術力。
彼のサポートアイテム技術よりも、むしろこちらの技術の方がこの社会においては異常である。
八木俊典の肉体をかつての無敵を誇った全盛期の
もし、神野区でのオールフォーワンとの決戦の前に彼を治療していれば、オールマイトは余裕で勝利を収め、引退という道を選ぶ必要もなかっただろう。
それでも、難羽はその治療を行わなかった。
「……いつまで彼に頼るのか、という話ですわね」
覚上が難羽の胸中を読み取って代弁した。
オールマイトはその圧倒的な力とカリスマ性で、社会を支える巨大な柱となった。
犯罪発生率を劇的に低下させ、人々に安心感を与えた。
そこまでは、確かに偉業と呼ぶべき素晴らしい結果である。
だが、時間が経つにつれ、社会の構造はその柱を前提として機能するようになってしまった。
人々は彼が常にそこにいて、自分たちを守ってくれるのが当たり前だと錯覚する。
そして彼という存在に過剰に寄り掛かるようになった。
だが、オールマイトは神ではない。
一人の人間である八木俊典が、自身の私生活のすべてを犠牲にし、文字通り命を削って平和の象徴を演じ続けていただけなのだ。
もし社会が完全に依存しきった状態で、彼が唐突に倒れ、帰らぬ人となっていれば。
おそらく先日の引退報道の比ではない、パニックと暴動が日本中を包み込んでいただろう。
抑圧されていたヴィランたちが一斉に蜂起し、次世代のヒーローたちには過剰な期待とプレッシャーが押し付けられ、ヒーローという職業そのものへの不信感が爆発する。
最悪の場合オールフォーワンが潜伏を続け、社会の混乱に乗じてシステムそのものを侵略し、支配を完了させていた可能性すらあった。
だからこそ、難羽は選択した。
オールマイトがもう戦うことができないという、事実を突きつけるための引退の舞台。
オールマイトという柱を失った現実を受け入れ、新たなシステムへと移行するための決断。
神野区の戦いで区切りを付けたかったのは、オールマイトの引退も予定通りだったからだ。
「何がアーマードオールマイトだ。こっそりメリッサに連絡しやがって」
だが、難羽の予想を超えて、八木の精神は強靭すぎた。
彼は力を失った現実を受け入れながらも、決して戦うことを諦めてはいなかった。
個性を失った彼が、再び最前線に立つための手段。
それは親友の娘であるメリッサ・シールドに、自身の全財産を投じて専用の強化外骨格の開発を依頼することであった。
おそらくデヴィッドが生きているという事実を彼女に伝える際に、共にその開発を打診したのだろう。
オールフォーワンが生き延びているという事実を知り、彼は再び戦場に立つための準備を進めていたのだ。
今回の手術は、それを見越しての肉体の補強措置である。
全盛期の力を取り戻すことは叶わずとも。
十分な食事の摂取、トレーニングを重ねることで、彼が学生であった頃程度の肉体を取り戻せるよう調整を施している。
少なくとも今の肉体で戦わせたくはない。
折れそうだ。
「世話が焼ける。私に頼まない辺り、ばれたら怒られるとでも思ったのか」
難羽は悪戯を企てる子供の心理を見抜いたように、苦笑を漏らした。
覚上はそんな難羽の横顔を見つめ続けていた。
八木に対して、いつまで戦うつもりだと呆れながらも、結局はその無茶を支えるために手を差し伸べてしまう難羽。
では、他ならぬ難羽自身は、一体いつまでこの果てしない戦いを続けるつもりなのだろうか。
超常黎明期の時代から幾度もの生を繰り返し、終末を迎えるその日まで。
彼は一人で世界と戦い続けるつもりなのか。
彼が抱えるその孤独に真の意味で寄り添うことの出来る者は、この世界には存在しない。
覚上自身も彼が生き返らせた存在であり、彼に生かされている身に過ぎないのだ。
彼女はその事実に胸を締め付けられながらも、自身の唇を噛み締めることしかできなかった。
翌日の昼下がり。
賑わいを見せる大通りに面したステーキハウスの店内に、ひときわ周囲の目を引く客の姿があった。
テーブルの上に積み上げられた、幾枚もの巨大なステーキ肉。
八木は手にしたナイフとフォークを休めることなく、次々と分厚い肉塊を胃袋へと流し込んでいた。
失われた胃を取り戻し、美味しいものを思う存分に食べられるという歓喜。
その喜びに支配された彼は、自身の限界を忘れて貪り食っていた。
だが、彼は重要なことを忘れていたのである。
「やばい、胃が、苦しい……」
確かに彼の身体には人工胃が移植され、健康的な消化器官を取り戻した。
しかし彼がイメージする過去の食事量とは、全盛期の肉体を維持するために必要だったエネルギー量のことである。
はち切れんばかりに膨れ上がった自身の腹部を、苦しげにさする。
それは皮肉にも少しの食事で満腹になり、腹をさすっていた時と同じ構図であった。
難羽「ダークサンタ計画の幕開けだぁ!」