「それで、また高校のテストで一位よ! 凄いわよねぇ」
「あれ……?」
落ち着いた雰囲気が漂う昼下がりの喫茶店。
コーヒーの香りが微かに漂う中、渡我と引石が、テーブル越しに向かい合って近況を語り合っていた。
引石は嬉しそうに目を細めている。
しかし、渡我の反応はどこか上の空であった。
今までのことが記憶になく、まるで突然今が始まったような。
ストローでアイスティーをかき混ぜる手も止まり、視線は宙を彷徨っている。
「ちょっと被身子ちゃん……ボーッとして大丈夫? 弔ちゃんに迷惑かけてない?」
引石が心配そうに身を乗り出し、顔を覗き込むようにして声をかけた。
その言葉に渡我はハッと我に返り、慌てて背筋を伸ばした。
「あ……大丈夫なのです! ちゃんと家事もしてるし」
彼女の脳裏に、『現在』の日常の光景がフラッシュバックする。
渡我は中学卒業後、実家から離れた場所にある高校へ通うことになった。
そのため、彼女は高校の近くにある死柄木の住むアパートに居候させてもらっているのだ。
死柄木が大学のサークル活動や組織の仕事などで帰りが遅くなる時は、渡我がエプロンを身につけ、夕飯の支度をして彼を待つこともあった。
「前は、魚を焦がしちゃいましたけど……弔くんは、文句も言わずに黙って食べてくれました」
渡我は少し照れくさそうに、しかしどこか嬉しそうな声で報告した。
「あらー、良いじゃない。妬けちゃうわねぇ」
二人の同棲生活のような近況を聞き、引石はからかうようにニヤニヤと笑い、渡我にウインクを投げる。
その言葉の意味を理解するのに一瞬のタイムラグがあり、次の瞬間、渡我の顔が林檎のように真っ赤に染まった。
「そ、そんなんじゃないです! 弔くんは、頼れるお兄ちゃんみたいな感じで……!」
「隠さなくていいわよ。アタシも、アンタのこと全力で応援してるし」
渡我はソファから弾かれたように立ち上がり、両手を激しく振って全力で否定しようとする。
しかし引石は余裕の笑みでそれを手で制し、落ち着くように促した。
「ゔー……」と低く唸りながら、渡我はドサリとソファに深く座り直した。
本当に、違うのだ。
確かに、弔くんと一緒に居る時間は心地よく安心感がある。信頼している。
自分が知っている男性の中で一番近しくて、大事な人であることは間違いない。
でも、自分が「好き」になるタイプは、怪我をよくする激しいスポーツ系の男の子のはずだ。
あんなに不健康そうな色白で、いつも気怠げにしている彼を、そういう意味で好きになるはずは。
そう思考を巡らせた直後。
彼女の脳裏に、死柄木の白く細い首筋のイメージが不意に浮かび上がった。
渡我は激しく首を振り、その想像を力ずくでかき消した。
「うーん……お洒落させて弔ちゃんをびっくりさせたいところだけど、アタシの店って、どうしても大きい人向けのサイズがメインなのよねぇ」
引石が少し残念そうに呟いた。
その言葉で渡我は思い出す。
引石は現在、異形型の個性を持つ人々や、彼女のように女性的な心を持つ男性たちのために、特注のサイズやデザインを扱うアパレルショップを経営しているのだ。
それはかつて彼女自身が、社会の規格から外れていると実感して傷ついた経験から生まれた優しい店であった。
異形型個性によって男性的な厳つい見た目の女性も多くいる社会で、彼女の店に助けられた者達も多いようだ。
皆、それぞれが自分に合った別の道に進み始めている。
有名なヒーロー科のある高校へと無事に進学を果たした。
誰もが、自分なりの幸せの中にいた。
「おい、風呂出たぞ」
「……え?」
アパートの一室。
風呂上がりの死柄木がタオルで無造作に白い髪を拭きながら、リビングのソファの方へと歩いてくる。
その姿は上半身は何も身につけておらず、下はラフなスウェットパンツという、無防備な格好であった。
渡我はソファに座りながら、息を呑んだ。
昼間に喫茶店で、マグ姉とあんな恥ずかしい話をしたばかりなのだ。
意識しないようにと思えば思うほど、視線が彼の白いな肌へと吸い寄せられてしまう。
そして筋肉が付き始めた身体を思わずじっと見てしまう。
渡我は慌てて視線を逸らし、クッションを抱きしめた。
「……大丈夫か? 被身子」
死柄木は渡我の不自然な態度を不思議に思いながらも、無頓着にソファへと腰を下ろした。
渡我のすぐ隣だ。
彼の身体から、渡我が使っているものとは違う匂いがする。
少し冷たい印象のシャンプーの香りが漂ってくる。
こんなの、自分のキャラじゃない。
自分は好きなものには相手の都合などお構いなしに、血を求めるようにガンガン自分から踏み込んでいくタイプだったはずだ。
それなのにどうしてこんなにも胸が苦しくて、身体がカチカチに固まって動かなくなってしまうのか。
緊張で身を強張らせる渡我の肩を、死柄木の細くも力強い腕が、不意に抱き寄せた──
……これ以上は、流石に覗き見するには申し訳ないですね
アンティークな装飾が施された、落ち着いた雰囲気のバーのカウンター。
黒霧はいつもの位置でグラスを磨いていた。
店内にはロシナンテの面々が集まり、ソファでくつろいだり、ダーツに興じたりと、思い思いのダラダラとした時間を過ごしている。
今日は休日であり、組織としての裏の仕事も入っていない。
皆が平和な時間を満喫していた。
『おい、黒霧』
どこからか、不意に声をかけられた気がした。
黒霧は手を止め、周囲を見渡した。
だが、仲間たちの誰かが彼を呼んだわけではない。
それぞれが自分の会話に夢中になっている。
『起きろ、黒霧!』
ふと視線を落とすと、彼が磨いていたグラスの曲面に、自分自身の顔が反射して映り込んでいた。
いや、違う。
黒霧の顔は実体のない靄であるはずだ。
しかし、グラスにはっきりと、人間の青年の顔が映し出されている。
鼻に絆創膏を貼り、ゴーグルを頭に乗せた快活な青年の顔。
白雲朧がグラスの表面からこちらを見つめ、必死に呼びかけていたのだ。
『……ここは、現実じゃない』
黒霧が白雲の言葉を認識した瞬間。
彼の手にあったグラスも、バーのカウンターも、談笑していた仲間たちの姿も、まるで水に溶ける絵の具のように、輪郭を失って崩れ去っていった。
視界が晴れると、黒霧が立っていたのは日本の住宅街だ。
否、夢の土台と呼ぶべき場所か。
黒霧の脳内に、先ほどまでの現実の記憶が急速にフラッシュバックして戻ってくる。
ダークマイトと名乗る狂人が突如として出現させた巨大な空中要塞。
要塞内部の市民救出とゴリーニファミリーの殲滅指令を受けた黒霧。
彼はトガとコンプレスの安否を確認するため、マグネ達と共にワープゲートを展開してこの内部へと侵入した。
そして、無数の一般市民が集められている広場を発見したのだ。
そこには、倒れ伏すコンプレスとトガの姿もあった。
そして二人を安全な場所へ転送して助け出そうと接近した瞬間、待ち受けていたデボラの個性の射程圏内に入ってしまい、彼女の能力を受けたのだ。
「視界に入っただけで、対象を強制的に夢の世界へと引きずり込む。厄介な発動条件ですね……」
『だが、あの女の個性はここまで高出力ではなかったはずだ。おそらく横で操られていた女性の個性を利用して、能力を増幅させている』
黒霧の頭の中に、先ほどの白雲の声が直接響いてくる。
これは決して、死んだはずの白雲が自我を取り戻して復活したわけではない。
本来死体の寄せ集めであり、命令に従うだけのプログラムで動く脳無。
それが夢を見るという人間的な精神活動を個性によって強制的に引き起こされた結果である。
彼の個性因子の中に残存していた白雲朧の記憶データが、夢という仮想空間の中で一つの人格として仮出力されたのだろう。
事実、白雲の声は、黒霧の持つ現状の記憶や情報を共有した上で推測を立てていた。
黒霧は広場を歩き出し、まずは仲間の状況を確認することにした。
少し歩いた先で、コンプレスの姿を発見する。
彼はトレードマークである仮面を外し、現実ではあり得ないほど煌びやかな舞台の上で、世界中の観客を熱狂させる大マジシャンとして大成している夢を見ているようだ。
その表情はこれまで見たことがないほど誇らしげで、楽しそうであった。
そういえば彼がなぜヴィランの道へと堕ちたのか、詳しい過去を知らないことに黒霧はふと気付いた。
コンプレスが他の仲間たちに対して、自身のルーツを深く語っている姿も見たことがない。
もしこの輝かしい舞台が彼の真の理想だとしたら、現実の彼は一体どれほどの挫折と苦悩を抱え、何を諦めて悪の道を舞台に選んだのか。
そう思考を巡らせながらも、黒霧はその場を通り過ぎることにした。
彼の抱える事情に、こんな他人の個性が作り出した虚構の世界で覗き見るべきものではない。
いつか彼自身が、自らの口で語る日を待つべきだ。
少なくとも、このような無防備な状況で他者の心の柔い部分を知ってしまうのは、仲間としてあまりにも不誠実であると判断したのだ。
さらに広場の奥へと進むと、今度はトガの姿が見えた。
彼女の夢の内容は、まるで少女漫画の恋愛模様だ。
どうやら、彼女の理想の恋人が、彼女の視界には見えているらしい。
トガは確かにロシナンテの仲間であり、凄腕の暗殺者でもあるが、本質的には恋に恋する多感な年頃の少女である。
よくリビングのテレビで見ている恋愛ドラマのイケメン俳優でも夢に現れているのだろうか、と黒霧は微笑ましく考えた。
恋人。
生涯を共に歩む伴侶。
それは黒霧自身にとって、最も遠く、決して手の届かない概念であった。
複数の死体をつぎ接ぎされ、特定の命令を実行するためだけに生み出された、フランケンシュタインの怪物。
そんな自分に誰かを愛し、誰かに愛される未来など存在しない。
「……というか、あいつ、完全に目を閉じてキス待ちの顔になってね!?」
白雲の素っ頓狂な声が脳内に響く。
確かにトガは目を固く閉じ、宙に向かって顔を突き出している。
夢の中で、
「……これ以上は、流石に覗き見するには申し訳ないですね」
白雲のツッコミに同意し、黒霧は目を覚まして現実へと帰還することを決意した。
自分でも無自覚なうちに、他人の深層心理を覗き見するという体験に少しばかり呑まれていたようだ。
デボラ・ゴリーニのこの厄介な個性は対象に理想の夢を見せるが、肉体を深い睡眠状態へと移行させるわけではない。
夢遊病者のように、現実の肉体も夢の中の行動と連動して動いてしまう者がいるのだ。
つまり、この夢の空間での行動や精神状態は、現実の肉体の動きにも直接影響を及ぼすということである。
『ウェイクアップ』
黒霧は静かにそのワードを呟いた。
黒霧は以前、難羽に頼み込み、自身の頭部──脳の深部に仕込まれていたある部品を摘出してもらっていた。
それは彼を製造した殻木が埋め込んだ、脳無を支配するための制御チップである。
特定の人物からの指示しか受け付けないようにするロック機能。
あるいはヒーローに捕縛された際などに、意識をシャットダウンさせる自壊機能。
そういった信号を直接脳に送り込むことで、知性のない下級脳無にも複雑な指示を聞かせ、同時に反逆のリスクをゼロにするための処置だ。
当然、黒霧の脳にもチップが埋め込まれていた。
難羽はその呪いのチップを取り外した。
しかし、彼はただ外しただけでは終わらなかった。
難羽はあえて、彼が独自に設計した別のチップを黒霧の脳へと移植し直したのだ。
それは脳無の彼だからこそ耐えられる、強制的な再起動を可能にするためのセーフティ機能であった。
敵の個性によって肉体が麻痺状態に陥ったり、今回のように強力な幻覚や精神支配の網に囚われるといった絶体絶命の窮地に陥った際。
自らの意思で特定のパスワードをトリガーとして念じることで、チップから脳神経へと強烈な電気信号を直接送り込み、外部からの干渉を遮って精神を正常化させる。
先ほどの言葉こそが、彼自身に設定された起動コードであった。
脳髄に強烈な電流が奔り、甘美な夢の世界がガラスのように砕け散る。
視界が激しく明滅し、夢と現実の境界が急速に重なり合っていく。
黒霧の目が開かれた時、そこは無数の人間が散乱する、現実の石畳の広場であった。
視線の先には、傲慢な笑みを浮かべて立つデボラの姿がはっきりと見える。
ふと横を見ると、隻眼で赤髪の青年がもがき苦しんでいた。
彼は完全に夢から覚めきってはいないようだ。
だが、虚ろな目をした一般市民の一人が彼の首を強い力で絞め上げている。
時間はない。
黒霧は懐から黒塗りの拳銃を引き抜くと、一切の躊躇いなく、その銃口を自分自身のこめかみへとピタリと押し当てた。
「『朝霧』」
乾いた銃声が広場に響き渡り、引き金が引かれた。
銃口から放たれた鉛の弾丸が放たれる。
だが、実際に貫かれたのは黒霧の頭部ではなかった。
「……あ、ガッ……!?」
少し離れた場所で高みの見物を決め込んでいたデボラが短い苦悶の声を上げ、その場に崩れ落ちた。
彼女のこめかみから、一直線に赤い鮮血が噴き出している。
黒霧が自身のこめかみに撃ち込んだ弾丸。
彼は銃口とこめかみの間のわずかな空間に、極小のワープゲートを展開したのだ
そしてそのゲートの出口を、正確にデボラの頭部の真横へと繋げた。
黒い霧は放たれた弾丸を静かに呑み込み、女のこめかみへと迷い込ませたのである。
術者が倒れたことで、広場を覆っていた狂気の夢の個性が解除された。
「……さて、ここからが大変ですね」
黒霧はまだ熱を持つ銃身をゆっくりと下ろし、息を吐いた。
周囲に倒れていた無数の市民たちが、夢から覚め、一斉に呻き声を上げながら身をよじり始めている。
意識を取り戻した彼らがまず最初に目にするのは。
倒れた女性と、その中心で銃を持つ黒い靄で顔を覆われた怪人の姿である。
この禍々しい見た目では彼らをパニックに陥らせ、恐怖させてしまうことは明らかであった。
黒霧はこれから始まる厄介な人命救助という、ヴィランらしからぬ作業に向けて、自身の黒い霧を揺らめかせるのであった。
トガちゃんは血の滴る良い男が好きですが、内面的な男性の好みは分かってないんですよね。
現在最終章の作成中ですが、投稿ペースはどちらが良いでしょうか?
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最終章は一気に。まとめて作って毎日投稿。
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いつも通りで。1話ずつ投稿。