西日に焼かれた街の路地裏。
どこからともなく這い出した湿り気を帯びた悪意が、少年の日常を食い破ろうとしていた。
緑谷はヘドロで体が形成されたヴィランに襲われていた。
緑谷は自身の喉元を抉り、気道へと侵入してくるヘドロの感触に絶叫すら上げることができなかった。
流動するヘドロは掴むことすら出来ずに陸で溺れさせる。
肺に流れ込むドロドロとした異物。
酸素が遮断され、視界が急速に狭まっていく。
意識が混濁する中走馬灯のように脳裏に浮かんだのは、今日まで必死に書き溜めたヒーロー分析ノートと、それを嘲笑わずに拾い上げてくれた友人、難羽の横顔だった。
(……死ぬ……? こんな、何も成せないまま……)
その瞬間、絶望の闇を物理的に切り裂くようにして「彼」が現れた。
凄まじい風圧とともにヘドロが弾け飛ぶ。
そこにいたのは黄金の鬣をなびかせ、圧倒的な陽のオーラを纏った平和の象徴、オールマイトだった。
だが、奇跡のような救出劇の直後。
しがみついた出久が辿り着いたビルの屋上で、彼は世界の残酷な真実を目撃することになる。
オールマイトから立ち昇る謎の蒸気。
その向こう側にいたのは、筋骨隆々の英雄ではなかった。
眼窩は落ち窪み、骸骨のように痩せこけた体躯。
口から夥しい血を吐き出すその姿は、あまりに弱々しく、死の影を纏った一人の病人のそれだった。
「……プロの現場は常に死と隣り合わせだ」
オールマイトの言葉には、悪意など微塵もなかった。
あるのは自身が背負う重責と、過酷な現実を知る大人としてのあまりに真っ当な配慮だけだ。
だからこそ、その言葉は出久の心を深く抉った。
出久は震える拳を握りしめ、喉の奥から絞り出すように問いかけた。
足元には難羽が世界征服を語ったあの教室で拾ってくれた、焦げ跡だらけのノートが転がっている。
「……個性がない人間でも……あなたのような、最高のヒーローになれますか?」
夕風が吹き抜ける。
No.1ヒーローは悲しげに、しかしはっきりと首を横に振った。
「……すまない、少年。現実を見るんだ」
返ってきた答えは夕闇の風よりも冷たく、出久の心に致命的な裂傷を刻み込んだ。
オールマイトが去った後の屋上には、ただ広大な虚無だけが残されていた。
出久は自分がどうやって重い足取りで階段を降り、無機質なアスファルトを歩き出したのか、記憶が定かではなかった。
(やっぱり、無理なんだ……。オールマイトが言うなら、それがこの世界の正解なんだ……)
足元に輝く赤いスニーカーは、もはや泥にまみれた鉛のように重い。
目からは熱いものが溢れ出し、歪んだ視界の中で世界がぼやけていく。
幼馴染の爆豪勝己に投げられた「来世」という呪いの言葉が、心臓の鼓動に合わせて何度も何度もリフレインしていた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
拒絶を否定するような、短く強い振動。
涙で滲む画面に浮かび上がった名は『難羽 輪太郎』。
「……もしもし、難羽くん?」
『緑谷か……酷い声だな。何か致命的な何かを受けたようだが』
電話越しの声はいつものように感情の起伏を削ぎ落とした、絶対的な合理性の響きだった。
だが今の出久には、その冷徹さが唯一、崩れそうな自分と現実を繋ぎ止める鎖のように感じられた。
「……全部、わかっちゃうんだね。難羽くんには」
『お前は素直だからな……それで、緑谷。一つ確認したい』
難羽の声色が、僅かに低くなった。
『お前は世界そのものに否定されてもなお、ヒーローを目指すつもりはあるか?』
心臓が跳ねた。
諦めろと言われるたびに、胸の奥が焼けるように痛む。
この痛みこそが、出久の魂がまだ死んでいない証だった。
「……わからない。でも、苦しいんだ。諦めたくないって思うたびに、息ができなくなるくらい」
『……なるほど。だが、それでいい』
電話の向こうで、難羽の吐息が聞こえた。
それはどこか年上の兄が迷える弟の背中を見守るような、不思議な重みと温かさを帯びていた。
『もし、その苦しみが本物なら会わせたい人がいる。かつて、この制度化された社会の裏側で、無個性のままヴィジランテ活動を行っていた男だ』
「……無個性で、ヴィジランテ……?」
『ああ。その男、ナックルダスターは自らの肉体と最低限の道具だけで悪と対峙し続けた……君の進むべき道は、雄英の光の中だけではないかもしれん』
新たな可能性。
難羽が示そうとしたその道に、緑谷が何かを言いかけたその時だった。
会話を断ち切るようにして、地響きを伴う轟音がスマホのスピーカーを突き抜けた。
「え……何……!?」
『……おい、どうした緑谷。今の音は……爆発か? 緑谷!!』
緑谷の体は思考よりも先に走り出していた。
黒煙、立ち昇る火柱、そして響き渡る人々の悲鳴。
人混みをかき分け、規制線の最前列に出た出久が目にしたのは、地獄絵図だった。
先ほどオールマイトが捕らえたはずのヘドロヴィランが逃走し、あろうことか自身の幼馴染である爆豪を飲み込んでいた。
暴走する爆豪の個性による爆破が周囲を焼き尽くし、プロヒーローたちすら近づけない灼熱の結界を作り出している。
「かっちゃん……!!」
親友が死にかけている。
憧れのヒーローは活動限界で動けない。
そして自分には、個性がない。
それでも。
煙霧と爆炎が立ち込める駅前通り。
そこは、既存のヒーローシステムの限界を露呈する残酷な実験場と化していた。
「くそっ、火の勢いが強すぎて近づけねえ!」
プロヒーロー・バックドラフトが両手から必死に放水を続けるが、ヘドロヴィランが取り込んだ爆豪が連鎖的な火災を引き起こし、熱量は増すばかりだ。
デステゴロやMt.レディといった他のヒーローたちも、被害の拡大を防ぐことに手一杯で、肝心のヴィラン本体には手出しができない。
「誰か! 早く消火活動に特化した個性のヒーローを!!」
市民の悲鳴にも似た懇願が響く中、その集団は音もなく現れた。
炎の赤と煙の黒が支配する世界に、整然と踏み込む漆黒の隊列。
全身を黒い特殊装備で包み、顔面をバッタのような無機質なガスマスクで覆った十数名の集団だ。
彼らは軍隊のように統率された動きで散開した。
『放水開始。C区画、延焼阻止』
彼らが背負ったタンクから、高圧の特殊化学消火剤が噴射される。
それは通常の水よりも遥かに効率的に熱を奪い、ヒーローたちが攻めあぐねていた炎の壁を次々と鎮火させていく。
「あ、あれは……ショッカーか!?」
「ネットで見たぞ! 救助活動にだけ現れるっていう謎の救助隊だ!」
野次馬の中から驚きの声が上がる。
彼らはヴィランと戦わない。
ヒーローを助けない。
ただその隙間を修復するためだけに動く、まるで虫の生態のように機能していた。
「……かっちゃん!!」
ショッカーの介入によって開かれたわずかな活路。
緑谷は制止するヒーローたちの声を振り切り、最前列へと飛び出していた。
ヘドロの深淵で、爆豪が必死に空気を求めて藻掻いている。
助けを求めるその瞳が緑谷を捉えた瞬間、緑谷の足は理屈を超えて動いていた。
だが、無個性の少年がたどり着くよりも速く。
彼らの頭上から、圧倒的な質量を伴った影が墜ちてきた。
アスファルトが悲鳴を上げ、蜘蛛の巣状にひび割れる。
緑谷の目の前に降り立ったその男は爆炎の照り返しを受けて、異様な威圧感を放っていた。
強化外骨格を思わせる漆黒のアンダースーツの上から、無骨な黒革のライダースジャケットを羽織っている。
顔面は、複眼部分が白く発光する黒い飛蝗のマスクで完全に覆われ、左のこめかみには404という、社会からの欠落を示す白い刻印が刻まれていた。
そして首元に巻かれた黄色いマフラーが、熱風に煽られて荒々しく翻る。
「……そこをどけ」
マスクの排気口から漏れる声は地響きのように低く、しかし冷徹だった。
「あァ!? なんだお前は! ヒーローか!?」
ヘドロヴィランが不快な粘液質の身体を波打たせ、新たな闖入者を警戒する。
黒い戦士はゆっくりと立ち上がり、ヴィランを見据えた。
「仮面アクター……ショッカー」
名乗りと同時に、男は腰に装着された重厚なベルト——『アポリオン』のバックルに手を当てた。
そこには、眼のパーツが風車となった向かい合う二匹のバッタに挟まれる形で、巨大なタービンが鎮座している。
『タイフーン・アバド』
ベルトの3つの風車が、物理法則を無視した超高速回転を開始する。
周囲の大気が強制的に吸い寄せられ、圧縮され、そして爆発的な運動エネルギーへと変換される。
「吹き飛べ」
戦士が両手を突き出した瞬間、指向性の極大竜巻が放たれた。
それはカミソリのように鋭く、しかし外科手術のように精密な風の刃だった。
爆豪の身体を傷つけることなく、彼にまとわりついていたヘドロの粘液だけを遠心分離機にかけるように強引に引き剥がす。
「が、あぁぁぁッ!?」
ヴィランの悲鳴と共に爆豪の身体が弾き飛ばされ、緑谷の足元へと転がってくる。
それと同時に戦士は空中に飛散したヘドロの核を見逃さず、風の檻で一点へと収束させた。
『スノー・プロシフィリズ』
戦士が右腕を掲げると、出現した手首のブレスレットから絶対零度に近い冷気が噴出した。
圧縮され、逃げ場を失った緑色の流動体が一瞬で白く凍りついていく。
ドロドロと蠢いていた悪意の塊は、数秒もしないうちに、光沢を失った巨大な氷の彫像へと変わり果てた。
「す、すげえ……! 一瞬で!」
「ヴィランが固まったぞ! 確保完了だ!」
周囲から歓声が上がる。
圧倒的な力でヴィランを無力化し、人質を救出する。
それは、誰もが知るヒーローの勝利の方程式そのものだったからだ。
だが。
黒い戦士は歓声になど耳を貸さず、凍りついたヴィランへと歩み寄った。
白い複眼が、氷の奥で恐怖に引きつるヴィランを冷ややかに捉える。
戦士は迷いなく、その強靭な装甲に包まれた右手を振り上げた。
捕縛ではない。
破壊の構えだ。
「……え?」
最前列にいた緑谷が、その異変に気づいて息を呑む。
戦士の五指が、氷塊の表面を鷲掴みにした。
不吉な亀裂音が響き渡る。
氷の中に閉じ込められたヴィランの目が、助けてくれと訴えるように見開かれた。
先ほど爆豪が見せたあの目を、ヴィランがしていた。
「ここで断つ」
戦士は、逃げ場のない圧力を一気に加えた。
ダイヤモンドダストのような輝きと共に、破砕音が夜空に響き渡る。
巨大な氷塊は、その命の核ごと粉々に打ち砕かれ、無数の細かな氷の粒となって飛散した。
地面に落ちた破片はもはや生物としての原型を留めておらず、ただ冷たいゴミとしてアスファルトに転がった。
「え……?」
「……殺し……た?」
歓声が凍りつき、戦慄に変わる。
沈黙が駅前通りを支配した。
現代のヒーロー社会においてヴィランへの殺害行為は、正当防衛が認められる極限状況を除いてタブーとされている。
しかしこの戦士は抵抗不可能な相手を、あまりに事務的に掃除でもするかのように粉砕したのだ。
怪人を処理した戦士は手の甲についた氷の塵を払い落とすと、呆然とする群衆やヒーローたちを一瞥もせずに踵を返した。
黒い風が吹き抜け、黄色いマフラーが闇夜を切り裂く。
SHOCKERの部隊と共に、彼は煙のように姿を消した。
後に残されたのは物理的な静寂と、人々の心に深く突き刺さった暴力の冷たい残響だけだった。