バグのヒーローアルカディア   作:胡麻蝉あぶら

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41話 氷叢の血は濃い

 

スタジアムの喧騒は分厚いコンクリートの壁に阻まれ、遠い海の底の唸りのように響いていた。

選手用通路。

無機質な蛍光灯が照らすその場所を轟は一人、歩いていた。

 

緑谷との戦いで負った傷はリカバリーガールの治癒によって塞がっていた。

だが体力は限界まで削り取られ、足取りは重い。

左半身のコスチュームは焼け焦げ、露わになった腕にはまだ微かな熱が残っている気がした。

 

 

(……俺は、使った)

 

 

轟は自分の左手を見つめた。

 

あの日、母に熱湯を浴びせられた「忌まわしき左側」。

 

父・エンデヴァーの野望の象徴であり、否定し続けてきた炎。

 

それを、俺は──

 

 

『君の力じゃないか!!』

 

 

緑谷の悲痛な叫びが、今も耳の奥で反響している。

 

あの瞬間、確かに自分は父親のことを忘れていた。

 

憎しみも復讐も、全てが吹き飛び、ただ目の前の敵に勝ちたいという純粋な欲求と、緑谷の想いに応えたいという熱情だけがあった。

 

 

「……」

 

 

ふと、轟の足が止まる。

前方の角から、圧倒的な熱量を纏った巨体が現れたからだ。

 

 

「──焦凍」

 

 

エンデヴァー。

No.2ヒーローであり、轟焦凍の父親。

彼は仁王立ちで息子の行く手を阻むと、その燃え盛る髭の奥にある瞳を歓喜とも欲望とも取れる強烈な光で歪ませた。

 

 

「……どけよ」

 

 

轟が視線を逸らさずに言う。

 

以前の彼なら無視して通り過ぎるか、冷徹な憎悪を向けていただろう。

だが今の轟の瞳にあるのはもっと静かで、それでいて決して折れない芯の通った光だった。

 

エンデヴァーは、息子の拒絶など意に介さなかった。

彼は一歩踏み出し、腹の底から響くような声で笑った。

 

 

「見たぞ、焦凍。……ついに使ったな、俺の力(ひだり)を!」

 

 

その言葉には自分の教育が、自分の執念がついに実を結んだという独りよがりな確信が満ちていた。

 

 

「あの緑谷とかいう小僧……デキ損ないかと思ったが、良い仕事をした。貴様の本気を引き出し、氷の限界を悟らせ、炎への道を開かせた! まさに最高の踏み台だ!」

 

 

エンデヴァーが両手を広げる。

その全身から放たれる熱気が、通路の空気を歪ませる。

 

 

「これで分かったはずだ! 氷だけでは限界がある! 俺の炎を受け入れ、それを完全に制御してこそ、貴様はオールマイトを超える『完全なる存在』になれるのだ!」

 

「……」

 

「さあ、ここからが始まりだ! 卒業後は私の事務所へ来い。俺が直々に、その炎の覇道を極めさせてやる!」

 

 

父の言葉は以前と変わらず自己中心的で、息子の意志など欠片も見ていなかった。

 

だが、轟は不思議と冷静だった。

 

それは轟の中で「基準」が変わったからだ。

彼の心には今、エンデヴァーへの憎悪よりも強く、鮮烈な記憶が刻まれている。

 

ボロボロになりながら、他人のために怒り、叫んでくれた、あの緑色の少年の姿が。

 

 

「……親父」

 

 

轟が静かに口を開く。

 

 

「俺は、お前のために炎を使ったんじゃない」

 

「何?」

 

「あの時……俺は、お前のことなんて忘れてた」

 

 

エンデヴァーの眉がピクリと動く。

 

 

「俺が見ていたのは、緑谷だ。あいつが……呪われていた俺を、氷漬けになっていた俺の心を、こじ開けてくれたんだ」

 

「……たかがクラスメイト一人の言葉で、何が変わるというのだ」

 

「変わったさ……いや、思い出させてくれた」

 

 

轟はエンデヴァーの目を真っ直ぐに見据えた。

 

 

「俺は、ヒーローになりたかった。……あんたのような、ただ力を誇示するだけの男じゃない。テレビの中で笑っていた、オールマイトのような……誰かを救えるヒーローに」

 

「……だから、そのためには私の力が……」

 

「違う」

 

 

轟は父の言葉を遮った。

 

 

 

「これは、俺の力だ」

 

 

 

きっぱりと言い放たれた言葉。

それは父への完全なる決別であり、自分自身の人生を歩き始めるという宣誓だった。

 

 

「俺はまだ、この左側をどうすればいいか分からない。お前を許したわけでもない……でも、俺はもう、お前に縛られない。俺は俺の道を行く」

 

 

轟はエンデヴァーの横を通り過ぎる。

すれ違いざま、熱風が頬を撫でるが、もはやその熱さが彼を不快にさせることはなかった。

 

 

「……待て、焦凍!」

 

 

エンデヴァーが振り返る。

だが、轟は一度も足を止めることなく、光の射す出口へと歩き去っていった。

 

その背中は、以前よりも一回り大きく、そして自由に見えた。

 

 

 

残されたエンデヴァーは行き場のない拳を握りしめ、ギリリと歯噛みした。

 

だが、炎を使ったという事実は変えようがない。

彼は自分に言い聞かせるように、低く唸った。

 

 

「……フン。今はまだ反抗期というわけか。だが、一度味わった力の味は忘れられんはずだ。……いずれ必ず、貴様は俺の元へ戻ってくる」

 

 

そう、自分を納得させようとした時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そっくりだな」

 

 

通路の奥、影の中から無機質な声が響いた。

 

 

「——誰だ」

 

 

エンデヴァーが鋭い視線を向ける。

そこに立っていたのはサングラスをかけ、紺色の体操服を着た一人の少年だった。

だがその立ち振る舞いは、実験動物を観察する「科学者」のそれだった。

 

 

「何の用だ。俺は今、機嫌が悪い」

 

「挨拶は省略しよう、轟炎司。私は難羽輪太郎。……お前に解析結果(エラーログ)を伝えに来た」

 

 

難羽はNo.2ヒーローの圧倒的なプレッシャーを前にしても、汗一つかかず涼しい顔で歩み寄る。

 

 

「解析結果だと? 部外者が知ったような口を」

 

「部外者? …………お前の家庭の事情に関しては、そうかもしれないな」

 

 

難羽はサングラスの位置を直しながら、淡々と語り始めた。

 

 

「『個性婚』。より強力な個性を次世代に残すため、配偶者を選別し、強制的に交配させる前時代的な因習。……倫理的な是非は問わん。目的のために手段を選ばない姿勢は理解できる」

 

 

難羽の口調にエンデヴァーへの非難はない。

あるのは事実確認のみだ。

 

だが次の瞬間、その声色が温度を下げた。

 

 

「私が指摘したいのは、お前の倫理観ではなく……その『配合シミュレーション』の甘さだ」

 

「……何?」

 

「お前は妻である『氷叢冷』の遺伝子(スペック)を軽視しすぎている」

 

 

エンデヴァーの眉がピクリと動く。

難羽はエンデヴァーの顔を見上げ、指を一本立てた。

 

 

「お前は彼女を、自分の強すぎる炎を制御するための『冷却装置(ラジエーター)』としてしか見ていなかった。……違うか?」

 

「……それがどうした。事実、焦凍はその氷と炎のハイブリッドとして完成した」

 

「結果論だ。……お前は氷叢家の歴史を知っているはずだ。血の純潔を守るため、近親に近い交配すら厭わず、代々『氷』の因子を煮詰めてきた一族。金で買える強力な特定の個性持ちなど限られるからな」

 

 

難羽はタブーとされる血統の闇を平然と口にした。

 

 

「その煮詰まった血の濃さは、お前の炎の遺伝子如きが一代混ざったところで薄まるものじゃない……事実、お前の子供たちを見てみろ。長女の冬美、次男の夏雄。彼らは明らかに『氷』の因子が優性だ。お前の炎よりも、氷叢の血の方が遥かに強かった」

 

 

難羽は冷徹に突きつける。

 

 

「焦凍が半冷半燃として生まれたのはお前の計算通りではない……圧倒的に強かった氷叢の遺伝子の中に、お前の炎が奇跡的な確率で均等に割り込んだただの偶然だ。あんなフレイザードみたいなやつがポンポン生まれるか」

 

「……貴様、言わせておけば……!」

 

 

エンデヴァーの全身から炎が噴き出す。

自分の悲願、自分の設計図を「ただの偶然」と断じられた屈辱。

 

だが難羽は怯むどころか、さらに踏み込んでくる。

 

 

「そして、その認識の誤りが……最大の悲劇を生んだ」

 

 

難羽のサングラスの奥の瞳がエンデヴァーを射抜く。

 

 

 

 

 

  

「——轟 燈矢(とうや)

 

 

 

 

 

 

 

その名が出た瞬間、通路の空気が凍りつき、そして爆発した。

 

 

 

 

「……貴様。どこで、その名を」

 

 

 

 

地を這うような低い唸り声。

プロヒーローとしての理性が消えかけ、一人の男としての激情が漏れ出している。

だが難羽はサングラスの奥の瞳を微塵も揺らさず、ただの研究対象を見るように続けた。

 

 

「……お前は燈矢について、こう認識しているはずだ」

 

 

難羽は指を折る。

 

 

「『母親譲りの冷たい体質(ハードウェア)を受け継いでしまったがために、父親譲りの強力な炎の力(ソフトウェア)に耐えきれず、自らを焼いてしまった失敗作』……と」

 

「……事実だ。あいつは惜しかった」

 

 

エンデヴァーは苦々しく吐き捨てた。

強すぎる火力が、熱に弱い身体を蝕む。

 

それは彼が目指した「炎を氷で冷やす」という循環に至れなかった、進化の袋小路。

 

 

「俺の火力以上の炎を持ちながら、身体は氷結に特化していた……矛盾した身体を持って生まれた、悲しき欠陥品だ」

 

「──それが間違いだと言っている」

 

 

難羽の声が、熱気を切り裂いた。

 

 

「……何?」

 

「お前は医者でも科学者でもないだろ……認識が逆だ」

 

 

難羽は一歩踏み込み、見上げるような巨躯のNo.2ヒーローに対し、憐れみすら含んだ視線を向けた。

 

 

「逆……だと……?」

 

「お前は自分の『炎』こそが主役であり、氷叢の血はそれを補助する『冷却装置(ラジエーター)』だと信じて疑わなかった。だから燈矢を、冷却装置が機能しなかった欠陥エンジンだと思った」

 

 

難羽は首を横に振る。

 

 

「だが先ほど言った通り、遺伝子の優劣において氷叢の氷は圧倒的だ。燈矢のあの『氷結に特化した体質』こそが、本来の主役(メインウェポン)だったとしたら?」

 

 

エンデヴァーの目が大きく見開かれる。

考えたこともなかった視点。

炎の強化しか、自身の()を継がせることしか頭になかった男には、決して辿り着けない発想。

 

 

「極低温の氷を操る者は、常に自らの凍結というリスクを背負う……もし、その凍結を防ぐための『暖房装置(ヒーター)』として、お前の炎が備わっていたとしたら?」

 

「……な、に……」

 

「お前が求めた『熱を冷やす』バランスではなく……『冷えを温める』バランスこそが、あの兄弟における遺伝子の正解(ゴール)だったのかもしれないな」

 

難羽はそれ以上、具体的なことは言わなかった。

燈矢が本来目指すべきだったのは炎のヒーローではなく、炎を生命維持装置として内包した、最強の氷のヒーローだったのではないか。

その可能性を示唆するだけに留めた。

 

 

 

 

「お前は『炎』に固執するあまり、手元にあったダイヤの原石をただの燃えない石炭として捨てたんだ」

 

「……貴様ァッ!!」

 

 

 

 

 

 

エンデヴァーの拳が、難羽の横の壁に叩きつけられる。

コンクリートが溶解し、赤熱した飛沫が散る。

 

だが難羽は身じろぎ一つしなかった。

 

エンデヴァーの表情は怒りで歪んでいたが、その瞳の奥にはかつてない動揺が走っていた。

 

 

自分の炎こそが、息子を生かす鍵ではなく、息子の可能性を閉ざした枷だったのではないか。

 

 

「……信じたくなければ。あの子は炎しか使えなかったのだから、氷の個性因子なんて持ってなかったと思え」

 

 

難羽は踵を返した。

もう、この男に用はないと言わんばかりに。

 

 

「精々、焦凍という『奇跡』を大切にするんだな。……彼もまた、お前のその『逆さまの認識』で壊したくなければ」

 

「……待て! 貴様、何を知っている!」

 

 

エンデヴァーの怒号が響く。

だが、難羽輪太郎は振り返らなかった。

 

 

「……頭を冷やしな、馬鹿ガキ」

 

 

冷徹な科学者はNo.2ヒーローの心に消えない棘を突き刺し、薄暗い通路の奥へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

残されたエンデヴァーは、溶けた壁の前で立ち尽くしていた。

 

脳裏に過ぎる、記憶の中の燈矢の姿。

 

氷のような体質と身を焦がす炎。

 

 

(……逆……俺が、逆だったというのか……?)

 

 

その問いかけは熱狂に沸くスタジアムの影で、誰に答えられることもなく燻り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう、逆だ。轟炎司。あの子はみんなのヒーローになるために炎を使おうとしたんじゃない」

 

「No.1に憧れたお前のヒーローになって、お前に認められたかっただけだ」

 

「そっくりだぜ、お前ら。一つのことに執着して周囲の手を焼かせるところもな」

 

 

 





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