スタジアムを包む熱狂的な歓声は分厚いコンクリートと防音壁に隔てられ、この部屋には遠い潮騒のようにしか届かなかった。
雄英高校、リカバリーガール出張保健室。
白亜の空間には消毒用エタノールと湿布の清涼な匂い、そして若きヒーロー候補生たちが流した血と汗の余韻が微かに漂っていた。
「……」
ベッドに腰掛けた緑谷出久は、自身の右手をじっと見つめていた。
リカバリーガールの治癒を受け、折れた骨は繋がっている。
だが包帯の下に残る鈍い痛みと倦怠感は、彼が支払った代償の大きさを物語っていた。
轟焦凍との激戦。
友を救うために振るった力。
その結果としての勝利は、緑谷の心に確かな熱と、一抹の不安を残していた。
その隣のベッド。
パイプ椅子に座っているのは飯田だ。
彼は怪我の治療を終えているが、その表情は晴れない。
準々決勝第二試合。難羽との戦いで、彼は為す術なく敗北した。
自慢の「エンジン」による超加速を逆手に取られ、視界を奪われ、最後は爆豪の個性を模倣した科学の力で吹き飛ばされた。
「……すまない、緑谷くん。君は勝ったというのに、俺がこんな辛気臭い顔をしていては」
飯田は眼鏡の位置を直し、努めて背筋を伸ばした。
悔しさを理性で押し殺し、友を祝福しようとするその姿はあまりに真面目で、それゆえに痛々しかった。
「ううん、そんなことないよ飯田くん。……僕だって、ボロボロだし」
緑谷が苦笑いで返した、その時だった。
ノックもなく、音もなく扉が開いた。
そこに立っていたのは特徴的なサングラスをかけ、無愛想な表情を浮かべた少年。
準決勝における緑谷の対戦相手、難羽である。
「……体調はどうだ、緑谷」
難羽は部屋に入ってくるなり、まるで点検前の機械の状態を尋ねるような口調で言った。
彼には目立った外傷がない。
激戦を繰り広げたはずだがその身体は清潔なままで、ジャージの裾すら乱れていない。
「あ、難羽くん……」
緑谷は少し驚き、そして困ったように笑って包帯の巻かれた右手を上げた。
「うん、リカバリーガールのおかげで動くようにはなったよ。……でも、さっきの轟くんとの試合みたいに指で衝撃波を放つような真似は、もうできないかな。これ以上やったら、本当に使い物にならなくなるって怒られちゃって」
緑谷の言葉に、難羽はサングラスの奥で鋭い視線を走らせた。
骨格の強度、筋肉の疲労度、そして精神状態。
瞬時に緑谷のコンディションを解析する。
「そうか。なら問題ない」
難羽は短く応じ、サングラスを中指でクイッと押し上げた。
その口元に微かな、しかし不敵な笑みが浮かぶ。
「次の準決勝は、いわばデモンストレーションだ。お前が指を壊してまでパワーを出す必要はない」
「……え? デモンストレーション?」
緑谷の頭上に、目に見えるような疑問符が浮かんだ。
準決勝。
決勝進出を賭けた大一番だ。
それをこの少年は「
勝利への執着でもなく、闘争心でもない。
もっと別の目的意識を感じさせる言葉。
「おい、難羽くん」
黙って聞いていた飯田が、低い声で割って入った。
「デモンストレーションとはどういう意味だ。……緑谷くんは、身体を張ってここまで勝ち上がってきた。彼に対する侮辱と受け取っていいのか?」
飯田の真面目な怒りに、難羽は肩をすくめた。
「侮辱? …………やはり忘れているな。わざわざ私が縛りプレイをしてまでアピールしたというのに」
「……アピール?」
難羽の言葉の真意を測りかねている緑谷と飯田を余所に、難羽は視線を飯田の手元へと移した。
「……ところで飯田。さっきから携帯を気にしているな」
指摘され、飯田はハッとして手元のスマートフォンを握りしめた。
画面は暗いまま。
通知ランプは光っていない。
「……ああ。兄さんに、結果を報告しようと思ってね」
飯田の声が、わずかに震えた。
「本当は……勝って、決勝に進む姿を見せたかったのだが。……不甲斐ない結果になってしまったこと、そして君という強敵と戦えたことを伝えたくて、何度か連絡を入れているんだが……」
飯田は眉を寄せ、不安を隠すように早口で続けた。
「仕事中なのだろう。兄さんは多忙なヒーローだ。事務所の運営やサイドキックへの指示、パトロール……いつものことさ」
そう自分に言い聞かせる飯田。
だが、その横顔には隠しきれない焦燥の色が滲んでいた。
「インゲニウム」こと飯田天晴は、弟想いの兄だ。
弟の晴れ舞台である体育祭の最中に連絡の一つも返さないことなど、普段ならあり得ないことだった。
その重苦しい空気を、難羽の声が切った。
「飯田。お前の兄……インゲニウムか」
難羽はふと独り言のように、噛み締めるように呟いた。
「……私は、あの男のファンでな」
「…………へ?」
その言葉に、保健室の時が止まった。
消毒液の匂いすら凍りつくような、完全なる静寂。
「ええっ!?」
「……な、難羽くんが!?」
緑谷と飯田が、まるで幽霊でも見たかのように声を裏返らせた。
二人の驚きには理由があった。
飯田は難羽のような徹底した合理主義者が、情熱的で親しみやすい兄・インゲニウムではなく、もっと冷徹な、あるいは「平和の象徴」たるオールマイトのような圧倒的な存在を好むと思っていたからだ。
そして緑谷はこれまでの難羽の皮肉めいた言動から、彼が「ヒーロー」という存在そのものを冷笑し、否定していると思っていたからだ。
そんな男の口から出た「ファン」という言葉の、あまりの不釣り合いさ。
「……なんだ、意外か?」
難羽は二人の反応を鼻で笑い、腕を組んで壁に背を預けた。
その表情は、いつものシニカルなものではなく、どこか熱っぽい光を帯び始めていた。
「意外だよ! だって難羽くん、ヒーローのこと嫌いなのかと思ってたし……!」
「それに俺が言うのもなんだが……兄さんは君のスタイルとは正反対の、泥臭いヒーローだぞ?」
「ふん。……認識が甘いな」
難羽は首を振ると、サングラス越しに二人を見据えた。
「オールマイトは確かに偉大だ。……だが、あれは『特異点』だ」
難羽は壁に背を預けたまま、天井の蛍光灯を見上げて言った。
「圧倒的なパワー。カリスマ性。絶対的な正義感。……あんなものは再現性のない、設計図の存在しない『奇跡』に過ぎない。奇跡を前提としたシステムなど、工学的には欠陥品もいいところだ」
難羽の視線が下がり、飯田を射抜く。
「一方で、お前の兄……インゲニウムのスタイルは極めて合理的で、社会学的に正しい」
「……兄さんのスタイル?」
「そうだ。彼は東京の事務所に65名ものサイドキックを抱え、彼らを統率し、巨大な『
難羽の言葉に熱がこもり始める。
普段の冷徹な分析とは違うある種の情熱的な、しかしどこか危うい光がその瞳に宿っていた。
「インゲニウムという『仕組み』は、個人に依存しない。彼が倒れても、彼の意志を継ぐシステムが機能し続ける。……それこそが、社会があるべきヒーローの完成形なんだよ」
飯田は呆気にとられていた。
兄を尊敬している自分ですら、そこまで深く「組織論」として兄を評価したことはなかった。
難羽は兄の「泥臭い走り」ではなく、その背後にある「高度な組織運営能力」と「属人性を排した設計思想」に惚れ込んでいたのだ。
「——だが、どうだ! 今のこの社会は!」
突如難羽の声が一段と大きくなり、緑谷と飯田はビクリと肩を震わせた。
難羽は組んだ腕を解き、虚空を鷲掴みにするように手を広げた。
「ヒーロービルボードチャートなどという下らん数字があるせいで、『ヒーローは一人で偉大であるべきだ』という歪んだ風潮が蔓延している! あんな制度は個人の虚栄心を煽り、協調性を阻害するだけのゴミだ!!」
その剣幕は単なる批判を超え、憤怒に近い感情が渦巻いていた。
「警察とヒーローの歪な相互依存関係もそうだ。本来、治安維持の主役は『法と組織』であるべきなのに、
難羽は一歩、二歩と二人に詰め寄る。
「私はあのような非合理な制度を、根底から叩き潰して正さねばならんと思っている!! だからこそ、インゲニウムのような『組織のプロ』こそが、正当に評価されるべきなんだよ!!」
「あ、あの……難羽くん?」
「……声が、大きいぞ。保健室だぞここは……」
あまりの熱量と物理的な音圧に、緑谷と飯田はベッドの上でジリジリと後退りしていた。
普段のクールな姿からは想像もつかない、社会そのものへの宣戦布告。
それは彼がなぜ雄英に来たのか、その根源にある「怒り」を垣間見た瞬間だった。
「……ハッ」
二人の怯えた反応を見て、難羽は我に返った。
彼は咳払いを一つし、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……すまん。少々ヒートアップした。童心……いや、職業病だ」
「……難羽ちゃん、どちらかというとおじいちゃんの説教みたいだったわ。……2人とも、試合がもうすぐよ」
いつの間にか入り口のドア枠から顔を出していた蛙吹梅雨が、ケロリとした顔で付け加えた。
彼女の飄々としたツッコミに、張り詰めた空気が少しだけ緩和される。
そして緑谷は慌てて立ち上がり、難羽と共に次の試合へと向かった。
パタン、と扉が閉まる。
残された飯田は、暗いままのスマートフォンの画面を親指で撫でた。
「組織としてのヒーロー」
難羽の言葉が胸に響く。
兄さんは、やはり偉大だ。
自分も早く、そのシステムの一部として恥じない男になりたい。
『こちら保須警察署、至急応援頼む!!』
血を流し倒れる、1人のヒーロー。
「俺は殺ってもいいのは……ハァ……オールマイトだけだ」
血に濡れた自身の刀を舐める狂人。
『ヒーロー殺しが現れた!!』
現在句点ごとに改行していますが、通常の文章の書き方に直したほうがいいですか?
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段落を使った普通の文章のほうが良い
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今の文章の方が良い