夜が更け、激闘の余韻を残したグラントリノ事務所に静寂が戻ってきた。
いや、正確には静寂ではない。
古い木造建築の軋む音と、それを掻き消すような豪快な重低音が響いていた。
「Z! Z! Z……!」
ソファの上で小さな身体を丸めて眠るグラントリノ。
その鼻提灯が膨らんで弾けるたびに、まるで漫画のような効果音が聞こえてくるようだ。
日中の鬼のようなスパルタ指導が嘘のようにその寝顔は無防備で、どこか愛嬌すら感じさせる。
緑谷出久は全身の痛みに顔をしかめながら、その寝姿を見つめていた。
フルカウル5%の維持訓練、そしてグラントリノとの実戦形式の組み手。
身体中の筋肉が悲鳴を上げ、あちこちに青あざができている。
本来なら泥のように眠りについてもおかしくない疲労感だが、興奮と痛みで目が冴えてしまっていた。
ふと鼻をくすぐる香りがあった。
フローラルブーケの柔らかく清潔な匂いだ。
この埃っぽい事務所には似つかわしくないその香りの発生源は、部屋の隅で布団を敷いている難羽だった。
「……難羽くん、それ」
「ん? ああ、これか」
難羽は手に持った柔軟剤のボトルを軽く振った。
昼間、緑谷がグラントリノにボコボコにされている間、彼は近所のドラッグストアへ買い出しに行っていたのだ。
買い物リストには洗剤、柔軟剤、消臭スプレー、そして大量の掃除用具が並んでいた。
「予備がないと落ち着かないタイプでな。……この布団も、長年押し入れに突っ込まれていてカビ臭かったから、コインランドリーで丸洗いしてきた」
難羽は手際よくシーツを広げ、パンパンと小気味よい音を立てて皺を伸ばす。
その所作はまるで一流ホテルのハウスキーパーのように洗練されていた。
「すごいね……。僕、疲れちゃって何もできないや」
緑谷が苦笑いを浮かべると難羽は作業の手を止め、サングラスの奥の瞳を向けた。
「疲れているのは結構だが、寝る前にもう一つ仕事があるぞ」
「えっ? まだ何か訓練を……?」
緑谷が身構えると難羽はニヤリと笑い、懐から一本のUSBメモリを取り出した。
「精神修養だ。……お前は『ヒーローとは何か』を、頭でっかちに考えすぎている節があるからな」
難羽は慣れた手つきで事務所のテレビの裏に回り込み、端子を接続する。
まるで自分の家のように勝手知ったる様子だ。
「映画に付き合え、緑谷。……とっておきの『教材』を見せてやる」
テレビ画面が青白く発光し、古い映画のオープニングロゴが映し出された。
『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』
「キャプテン・アメリカ……?」
緑谷は首を傾げた。
ヒーローオタクを自負し、古今東西のあらゆるヒーローデータを網羅しているはずの彼のデータベースにその名は存在しなかった。
「知らないのも無理はない。これは『超常黎明期』以前……つまり、個性が世界に出現するよりもずっと前に制作された
難羽は冷蔵庫から冷えた缶コーラを2本取り出し、一本を緑谷に放り投げた。
カシュッ、とプルタブを開ける音が響く。
「フィクション……? じゃあ、実在しないヒーローの映画?」
「ああ。だが、当時の人々にとっては、これこそが『希望』の象徴だった。……今じゃネットの海からも消え去り、オリジナルのデータは数千万で取引されるコレクターズアイテムだ」
難羽はコーラを一口飲み、画面を指差した。
「これは私物だがな……始まるぞ」
映画が始まる。
舞台は1940年代、第二次世界大戦中のアメリカ。
映し出されたのは貧弱で、病弱で、喘息持ちの青年、スティーブ・ロジャースの姿だった。
軍への入隊を志願するも、身体検査で不合格のハンコを押され続けるスティーブ。
路地裏でチンピラに絡まれ、ゴミ箱の蓋を盾にして抵抗するもあっさりと殴り倒されるスティーブ。
そこには緑谷が知る「ヒーロー映画」の爽快感も、派手な個性によるバトルもない。
ただ弱者が現実に打ちのめされる、痛々しい日常が描かれていた。
「……個性が、ない」
緑谷は呟いた。
画面の中の登場人物たちは誰も火を吹かないし、空も飛ばない。
殴り合いは泥臭いステゴロで、武器は銃やナイフといった物理的なものばかりだ。
「当然だ。個性が発現する前の世界だからな」
難羽は淡々と解説する。
「この時代の人間は、全員が『無個性』だ。……昔のお前と同じようにな」
緑谷の胸がズキリと痛んだ。
無個性。
それはかつての自分にとって呪いのような言葉だった。
何も持たざる者。
選ばれなかった者。
画面の中のスティーブの姿が、かつての自分と重なって見える。
「でも……主人公なのに、こんなに弱くて……これからどうやって戦うの?」
「まあ、見ていろ」
難羽は画面から目を離さず、コーラを揺らした。
物語は進む。
スティーブの諦めない心、そして「ナチスを殺したいわけじゃない。悪党が嫌いなだけだ」という高潔な精神を見出したアースキン博士によって、彼は極秘実験「スーパーソルジャー計画」の候補生に選ばれる。
だが、候補生キャンプでの生活は過酷を極めた。
周囲の候補生たちは軍の中から選りすぐられた屈強な兵士たちばかり。
彼らも無個性だが、肉体的ポテンシャルはスティーブより遥かに上だ。
ランニングでは周回遅れになり、腕立て伏せも満足にできず、教官や仲間から嘲笑の的となるスティーブ。
その時、訓練シーンである課題が出された。
『あのポールの上にある旗を取ってこい。取った者には車での帰還を許可する』
屈強な兵士たちは我先にとポールに群がり、よじ登ろうとする。
だが、彼らの筋肉質の身体は重く、互いに足を引っ張り合い、ポールは軋むばかりで誰も頂上には届かない。
力任せの競争。
無益な徒労。
遅れてやってきたスティーブは息を切らしながら騒ぐ兵士たちを横目で見た。
そしてポールの根元を静かに観察した。
構造を理解し、支柱を固定しているピンを見つけ出す。
スティーブはピンを一本、引き抜いた。
ガシャアン!!
金属音と共にポールが倒れ、旗が地面に落ちる。
呆然とする兵士たちの前でスティーブは土にまみれた旗を拾い上げ、教官に手渡して涼しい顔で車の助手席へと乗り込んだ。
「……あ」
緑谷が声を漏らす。
力ではない。
速さでもない。
状況を冷静に分析し、物理法則と構造を理解して「最適解」を選び取ったのだ。
「力じゃない……。知恵と、観察眼だ」
「旗を取れと言われただけだからな」
難羽が口元を歪め、ニヤリと笑った。
「彼は知っているんだ。弱者には弱者の戦い方があることを。……持たざる者は、頭を使わなければ生き残れないからな」
そして運命のシーンが訪れる。
訓練中、鬼教官が「テストだ!」と叫び、偽の手榴弾を兵士たちの真ん中に投げ込んだ。
「手榴弾だ!!」
怒号。
悲鳴。
先ほどまでスティーブを「もやし」と馬鹿にしていた屈強な兵士たちは、蜘蛛の子を散らすように我先にと物陰へ逃げ惑う。
生存本能としては正しい。
だがそこには「他者」への配慮も、「仲間」を守るという意志もなかった。
だが。
その場にいた誰よりも弱く、誰よりも小さかったスティーブだけは逃げなかった。
彼は躊躇なく手榴弾に向かって飛び込み、その小さな身体を覆い被せたのだ。
死を覚悟して。
爆風を自分の身体で抑え込み、仲間を守るために。
「離れろ! 伏せろ!!」
身体を丸め、爆発の衝撃を一身に受け止めようとするスティーブ。
周囲の兵士たちが物陰から呆然とそれを見つめる。
緑谷の身体が、ビクリと震えた。
画面の中の静寂が、自分の心臓の早鐘と重なる。
呼吸をするのも忘れていた。
コーラを持つ手が、汗で濡れている。
(……身体が、勝手に)
個性がなくても。
身体が弱くても。
誰かを守ろうとする心だけがそこにあった。
思考よりも先に身体が動く。
それは自己犠牲ですらない。
純粋な救済への渇望。
『考えるより先に体が動いていた』
「……選ばれたんだ」
緑谷は震える声で呟いた。
画面の中で手榴弾が偽物だと分かり、安堵と困惑が広がるシーンを見ながら。
「彼が選ばれたのは……一番強かったからじゃない。一番『ヒーロー』だったからだ」
「ああ」
難羽が静かに頷く。
その横顔は、いつになく真剣だった。
映画の中の物語は進む。
スーパーソルジャー計画の実験前夜。
スティーブ・ロジャースは、計画の責任者であるアースキン博士と二人きりで言葉を交わしていた。
薄暗い宿舎のベッドサイド。
博士はスティーブに酒を注ぎながら静かに語りかける。
『なぜ君を選んだか、わかるかね?』
画面の中のスティーブは戸惑いながら首を横に振る。
博士は自身の胸を指差し、スティーブの瞳を覗き込んで言った。
『強い男は、生涯力を持ち続けているゆえに、力への敬意を忘れてしまう。……だが、弱さを知る者は、力の価値を知っている』
緑谷の背筋が伸びた。
その言葉はまるで「無個性」として生まれ、力の尊さを誰よりも渇望していた自分自身に向けられているようだった。
『約束してくれ、スティーブ』
博士の手がスティーブの胸に当てられる。
『何があっても、今の君のままでいると。……完璧な兵士ではなく、善良な人間であれ』
「……善良な、人間」
緑谷はその言葉を、噛み締めるように復唱した。
力そのものではなく、その器となる「心」こそが重要だと映画は語っていた。
やがて運命の実験が始まる。
カプセルに入れられ、バイタル・レイを照射されるスティーブ。
凄まじい悲鳴と共に、装置の光が弾ける。
煙の中から現れたのは、もはや貧弱な青年ではなかった。
鋼のような筋肉、隆起した大胸筋。
だが、その瞳に宿る光だけは、実験前と変わらぬ優しさを湛えていた。
そして彼の手には円形の盾。
星の意匠が描かれた、攻防一体の武器。
「……盾」
緑谷は、枕元に置いてある自分の装備——難羽から渡された緑色をベースとした盾に視線をやった。
映画の中の盾と同じ、星の意匠。
「難羽くん、これ……」
「ああ。デザインの元ネタはそれだ」
難羽はコーラを飲み干し、静かに言った。
「攻めるための剣ではなく、守るための盾。……それが最強の武器になる。お前に渡した意味が、少しは分かったか?」
エンドロールが流れ始め、部屋が再び暗闇に戻っていく。
ブラウン管の光が消え、ダウンライトの微かな明かりだけが二人を照らしていた。
緑谷は膝を抱えたまま、動けなかった。
個性が当たり前の現代で、派手なエフェクトが飛び交うヒーロー映画とは全く違う。
地味で、泥臭くて、古臭くて。 でも……痛いほどに胸に刺さる物語。
「……まるでお前みたいだな」
暗闇の中、難羽の声がした。
「えっ……」
緑谷は顔を上げた。
「い、いや、僕はあんなに立派じゃ……」
緑谷は慌てて首を振った。
「僕は……運が良かっただけだよ。オールマイトに出会えて、力を譲渡してもらえて……。たまたま、ラッキーだっただけなんだ」
緑谷はずっと、心のどこかで引け目を感じていた。
雄英高校ヒーロー科。
周りは生まれながらの才能を持つエリートばかり。
その中で自分は「無個性」というハズレくじを引いた人間で、オールマイトから「ワン・フォー・オール」という大当たりくじを恵んでもらっただけの「紛い物」なのだと。
難羽はテレビの接続を外し、かけていたサングラスを外して緑谷の方を真っ直ぐに向いた。
その銀色の瞳が、暗がりの中で鋭く光る。
「緑谷。お前は、自分が手に入れた力を、たまたま運良く拾った『当たりくじ』だと思っているな」
図星だった。
緑谷は唇を噛み、俯く。
「だがな、当たりくじを引き当てたのは、他ならぬお前自身が、死ぬかもしれない箱の中に手を突っ込んだからだ」
難羽の言葉は静かだが、どんな大声よりも力強かった。
「あの日……ヘドロヴィランの事件。プロヒーローですら『相性が悪い』と足踏みしていた現場で、無個性だったお前だけが飛び出した」
難羽はまるでその場にいたかのように語る。
「計算も勝算もなく。……ただ『助けなきゃ』という狂気にも似た衝動で」
難羽は、消えたテレビ画面を指差した。
「あの手榴弾の上に飛び込んだスティーブと同じだ。偽物だとわかる前に体を投げ出した彼と、死ぬかもしれないヘドロに向かって走ったお前。……そこに何の違いがある?」
緑谷の手が震える。
「……でも、僕は……」
「お前は、力が手に入ったからヒーローになったんじゃない」
難羽は断言した。
「元々お前がヒーローだったから、力が宿ったんだ。……オールマイトは、お前の筋肉を選んだわけじゃない。お前の『魂』を選んだんだよ」
「……っ」
喉が熱くなる。
ずっと、誰かに言って欲しかった言葉。
オールマイトに「君はヒーローになれる」と言われた時とはまた違う、同じ目線に立つ友人からの肯定。
「もっと自分を好きになれよ、緑谷」
難羽は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「私が作ったその盾は、ただの防御兵装じゃない。……誰よりも前に出て、誰かを守ろうとする、お前という『本質』に相応しいから、そこに在るんだ」
難羽はそれだけ言うと、わざとらしい大きなあくびをした。
「ふあぁ……。さて、寝るか。明日は今日よりもっとキツいぞ。あいつは、加減を知らないからな」
難羽はさっさと自分の布団に潜り込み、背中を向けた。
「おやすみ、緑谷」
「……うん。おやすみ、難羽くん」
部屋には再び、グラントリノの豪快な「Z! Z!」というイビキと古びた冷蔵庫の低い駆動音だけが残された。
緑谷は暗くなったテレビの黒い画面を見つめていた。
そこには月明かりに照らされた、自分の泣きそうな顔がうっすらと映っている。
無個性だった頃の何も持っていなかった自分。
夢を見る資格すらないと思っていた自分。
でも、難羽は肯定してくれた。
過去の物語を通して、「お前は最初から間違っていなかった」と教えてくれた。
じわり。
緑谷の目から、大粒の涙が溢れた。
それは悲しみや悔しさの涙ではなく、ずっと胸の奥につかえていた「負い目」という冷たい塊が溶けていく、温かい涙だった。
(ありがとう、難羽くん……)
緑谷は洗いたての柔軟剤の香りがする布団に潜り込み、声を押し殺して泣いた。
明日はきっと、今日よりも強く地面を蹴れる。
そんな確信と共に、彼は深い眠りへと落ちていった。
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