都会の喧騒から隔絶された薄暗いバー。
ヴィラン連合のアジト。
かつては客の笑い声で溢れていただろうその空間は、今は澱んだ空気と埃、そしてアルコールの饐えた匂いに支配されている。
カウンターの奥でグラスを磨く黒霧の手元だけが唯一規則的な動きを見せていた。
その視線の先、店のボックス席にはこの組織の若きリーダー、死柄木弔が気怠げにソファに沈み込んでいる。
ピコピコ、ピコピコ……。
静寂な店内に携帯ゲーム機の操作音だけが虚しく響く。
死柄木の視線は液晶画面に釘付けだ。
画面の中ではドット絵の勇者がダンジョンを彷徨っているが、彼の表情には楽しさも悔しさもない。
ただ時間を潰すための作業のように、指先だけを動かしている。
そのテーブルの脇には異形のマスクが無造作に置かれていた。
複眼の意匠は「蜘蛛」を思わせ、顎のラインや触角のような突起は「蟻」を模している。
二つの小さな蟲が融合したような、不気味でありながら機能的な造形。
それは死柄木がこの世界で戦うために用意した、新たな「顔」だった。
「死柄木弔。……少し、よろしいですか」
黒霧が重々しい口調で切り出した。
死柄木はゲーム画面から目を離さず、「あ?」と短く応じる。
「組織の拡大についてです。……現在、世間を騒がせている『ヒーロー殺し』ステイン。彼の思想と行動力は、今のヴィラン連合にとって大きな起爆剤になり得ます」
黒霧はカウンターに一枚の資料を置いた。
そこには鼻のない不気味な男の顔写真と、彼が起こした凄惨な事件の数々が記されている。
「彼はネットを中心にカリスマ的な人気を博しています。『現代のヒーローは贋作だ』という彼の主張は、社会に不満を持つ層の共感を呼んでいる。……彼を引き入れることができれば、連合の戦力増強のみならず、プロパガンダとしても有効かと」
黒霧の提案は参謀として極めて真っ当なものだった。 USJ襲撃の失敗以降、連合は再建を急務としていた。 強力なコマ、そして求心力のあるシンボルが必要なのだ。
だが。
死柄木はゲームの手を止めず、画面を見つめたまま鼻で笑った。
「ハッ……黒霧、お前さぁ」
死柄木は嘲るように言った。
「本気で言ってんのか? あの『酔っ払い』を仲間に入れたいって」
「……酔っ払い、とは?」
黒霧が首を傾げる。
ステインは禁欲的で求道者のような男として知られている。
「比喩だよ、比喩。……自分の行動、自分の『正義』ってやつに酔っ払ってる、痛いナルシストってことさ」
死柄木はようやくゲーム機をテーブルに放り投げた。 ゲームオーバーの音が鳴り響く中、彼は首をガリガリと掻きながら資料を睨みつける。
「あいつは口では大層なことを言ってるよな。『正しい社会のために』とか『本物の英雄を取り戻す』とか。……けどな、やってることはただの『弱い者いじめ』だ」
死柄木は資料にある被害者のリストを指差した。
「よく見てみろよ、こいつが殺してきたヒーローのリストを……どいつもこいつも、真面目にパトロールして、それなりに市民に愛されてた奴らばっかりだ。裏でヴィランと繋がってたり、麻薬の密売に手を染めてるような『本当の悪徳ヒーロー』は一人もいねぇ」
死柄木の瞳が冷たく濁る。
「本当に腐ったヒーロー……金のために犯罪組織に情報を流したり、法を犯しているような『真の贋作』はな、公安がきっちり処理してんだよ。世に出る前に消されるか、事故死として処理される」
それがこの超人社会の裏のルールだ。
公安委員会という巨大なシステムが、社会の体面を保つために汚物を処理している。
「それに対して、ステインが狙ってるのはなんだ? ……ただ『人気取りに必死な奴』とか、『実力が伴ってない奴』とか、あるいは『ヴィランを捕まえる能力が低い無能』だ」
死柄木はあざ笑うように続けた。
「そいつらは無能かもしれないし、俗物かもしれないが、法的には『シロ』だ。……ステインは公安が手を出すまでもない、どうでもいい小物や、ガードの甘い善人を狙って殺してるだけなんだよ」
「……なるほど。確かに、彼の標的選定には偏りがあります」
「当たり前だ。あいつには『情報網』がねぇんだから」
死柄木は断言した。
「本当に社会の闇を暴くなら内部告発とか、確実な証拠を掴んでからの暗殺が必要だろ? でもあいつはそれをしない。……いや、できないんだ。ただ街をうろついて、なんとなく『気に食わない』と感じた奴を殺してるだけ」
死柄木は不快そうに首を鳴らす。
「あいつの判断基準は、独自の美学……要するに『俺ルール』だ。客観性もクソもねぇ。……ただ自分が気持ちよくなるために、反撃してこない『偽物』を狩って、悦に浸ってるだけだ」
死柄木は吐き捨てた。
「そんな奴、組織に入れてどうする? 『あいつは目が気に食わないから殺した』なんて言い出す狂犬、コントロールできるわけねぇだろ。……あいつの暴走に便乗するのはいいが、仲間にはいらねぇよ」
『——相変わらず、鋭いね。弔』
不意にバーのモニターからノイズ混じりの音声が流れた。
黒霧が即座に姿勢を正す。
死柄木が顔を上げる。
その声の主は彼が「先生」と呼ぶ唯一の人物。
全てのヴィランを統べる巨悪、オール・フォー・ワン。
「……先生」
『ステインについての考察、私も同感だよ。彼は組織には馴染まない。……だが、利用価値はある』
モニターの向こうから、低い笑い声が聞こえるようだった。
『彼が今、どこにいるか知っているかい? ……保須市だ。ちょうど次の獲物を物色しているところらしい』
「保須……?」
『そう。……そして、面白い情報がある。君が気にしているあの「仮面アクター」……彼もまた、その近くに現れるかもしれない』
「ッ!?」
死柄木の目が動いた。
USJで遭遇した、謎のヴィジランテ。
奇妙な技術を使い、脳無と渡り合った正体不明の男。 死柄木にとって彼はある意味で「壊したい」対象だった。
彼が好きなヒーローに似たコスプレ野郎。
それが死柄木にとっての仮面アクターだ。
『偶然か、必然か……彼もまた、保須の騒乱に引き寄せられるだろう』
先生の声は、盤上の駒を動かすプレイヤーのように淡々としている。
『弔。脳無を連れて行きなさい。……ステインを仲間にする必要はない。彼が起こす混乱に便乗して、街を壊し、脳無を暴れさせればいい』
一拍の間。
『そうすれば、君のオモチャである仮面アクターも、脳無を殺しにやってくるかもしれないよ?』
それは死柄木にとって断る理由のない提案だった。 ステインという舞台装置を利用し、仮面アクターをおびき出す。
「……ハァ。わかったよ、先生」
死柄木は大きなため息をつき、テーブルの上の「蜘蛛と蟻のマスク」を手に取った。
退屈なレベル上げは終わりだ。
ここからは、もっと刺激的なゲームの時間だ。
「黒霧、転送の準備だ。……保須に行く」
「……戦力はどうなさいますか?」
「脳無を数体。……それと、新入りも見学させるか」
死柄木はカウンターの奥にある扉に向かって声を張り上げた。
「おい! 出てこい! 出番だぞ!!」
ギィ、と重い鉄扉が開く。
アジトの奥から二つの影が現れた。
一人は詰め襟の学生服を着た小柄な少年。
顔全体を覆う無骨なガスマスクが異様さを際立たせている。
手には回転式拳銃を弄びながら、不機嫌そうに歩いてくる。
毒ガスを操るヴィラン、マスタード。
「……やっとすか。待ちくたびれましたよ」
ガスマスク越しに、くぐもった声が悪態をつく。
そしてもう一人。
巨大な岩のような体躯をした男……いや、女性的な所作を含んだ人物。
サングラスをかけ、分厚い唇に赤いルージュを引き、巨大な柱のような武器を肩に担いでいる。
磁力を操る武闘派、マグネ。
「あらァ、やっとお仕事? アタシ、体が訛っちゃって大変だったのよォ」
ドスドスと床を鳴らしながら近づくマグネの迫力に、マスタードが少しだけ距離を取る。
「今日は見学だけだ。行くぞ……マスタード、マグネ」
死柄木は蜘蛛と蟻の意匠が施されたマスクを、顔に装着した。
その瞬間、彼の雰囲気は「気怠げなゲーマー」から「悪意の指揮官」へと変貌する。
「行き先は保須市……ヒーロー殺しのお祭り騒ぎに便乗だ」
死柄木が宣言すると同時に黒霧が身体を霧散させ、紫色のワープゲートを展開した。
その向こうには日が沈みかけた保須の街並みが見える。
「さぁ……来いよ仮面アクター。殺してもいい怪人が来るぜ」
死柄木はゲートに触れ、闇の中へと踏み出した。
その後ろに脳無の唸り声と、新たな仲間たちの足音が続く。
「座ってろ!!」
その一喝と共に黄色い閃光が走った。
グラントリノだ。
彼は破壊された車両の窓枠を蹴り、空気を踏みつけ、新幹線の車内へ侵入してきた脳無——翼を生やした異形の怪物——をたった一撃で車外へと蹴り出したのだ。
あまりの速さに乗客たちは悲鳴を上げることすら忘れて呆然としている。
「くっ……!」
緑谷は砕け散ったガラス片を踏みしめながら、破壊された壁の開口部へと駆け寄った。
そこに広がっていたのは夜の帳が下りきる直前、毒々しいほどに赤い夕焼けだった。
空と大地の境界が曖昧になるその薄暗い光の中で、遥か遠く、保須市の市街地から黒煙が立ち上っているのが見えた。
サイレンの音が、風に乗って微かに届く。
ただの事故じゃない。
これは組織的な襲撃だ。
「座ってる……なんて、できるわけない!」
緑谷の脳裏に不吉なパズルのピースが次々と嵌まっていく。
保須市。
ノーマルヒーロー事務所。
そして兄を再起不能にされた飯田天哉の、あの凍りついたような笑顔。
(飯田くん……君が保須を選んだのは、研修のためじゃない。……復讐のためだ!)
あの真面目で誰よりも規律を重んじる飯田が、私情で動くはずがないと信じたかった。
だが兄を想う彼の激情は理性を焼き尽くすのに十分な熱量を持っていたはずだ。
もし彼がこの街で「ヒーロー殺し」を探しているとしたら。
そして今、このタイミングで脳無が現れたとしたら。
(ステインと脳無……ヴィラン連合が繋がっているとしたら……飯田くんが危ない!!)
嫌な予感が背筋を氷のように冷たい指で撫で上げる。 居ても立ってもいられなかった。
グラントリノの言いつけも、ヒーローとしての規則も、友人の命の重さの前では霞んで消えた。
「すみません!!」
緑谷は誰にともなく叫ぶと、ワン・フォー・オールの光を全身に巡らせた。
フルカウル5%。
彼は迷うことなく走っている新幹線の屋根へと飛び出し、そのまま線路沿いのフェンスを蹴って茜色に染まる街へと疾走を開始した。
「飯田くん!!」
緑谷の姿が夕闇に消えていく。
残された車内では、ようやく事態を飲み込んだ乗客たちのパニックが始まろうとしていた。
混乱の極みにある車内で一人だけ静寂を保っている男がいた。
難羽だ。
彼はタブレットを懐にしまい、周囲の騒ぎなど意に介さずゆっくりと立ち上がった。
その表情はサングラスの下で冷たく凍てついている。
「……緑谷の勘は鋭いな。あるいは、ヒーローとしての嗅覚か」
難羽は独りごちると、緑谷が飛び出していった破壊された窓枠に足をかけた。
駅員や乗客が「おい、君! 危ないぞ!」と制止する声を無視し、彼は身軽な動作で車外へと躍り出た。
着地したのは地面ではない。
新幹線の屋根の上だ。
緊急停車したとはいえ架線の火花が散り、夕方の強い風が吹き付ける不安定な足場。
難羽はそこで、ゆっくりと仁王立ちになった。
彼の周囲の空間に、激しい電子ノイズが走った。
まるで映像のバグのように、「雄英高校の男子生徒」という輪郭が歪み、ブレていく。
瞬きする間もない、刹那の出来事だった。
ノイズが晴れた時、そこに立っていたのは少年ではなかった。
身長は伸び、肩幅は広がり、顔つきは精悍な大人のそれへと一瞬で変貌を遂げていた。
実年齢にして20代半ば。
鋭い眼光と歴戦の空気を纏った、難羽輪太郎の真の姿。
着崩した制服は幻のように消え失せ、代わりに現れたのは無骨な黒のレザージャケットと、機能的なコンバットパンツ。
そしてその腰には異様な存在感を放つベルトが巻かれていた。
変身ベルト『アポリオン』。
バックル部分は二匹の凶暴なバッタが互いに向かい合い、頭を突き合わせているような禍々しくも力強いデザイン。
その向かい合うバッタの「眼」に当たる部分には小型のタービンが埋め込まれており、鈍い金属光沢を放っている。
「この姿になるのも、USJ以来か」
難羽は黒い革手袋をはめ直し、ベルトのバックルに手を添えた。
夕風が彼の髪を乱暴に煽るが、その体幹は岩のように揺るがない。
彼は肩幅よりも少し広く両足を開き、右腕をゆっくりと真横へ水平に伸ばしていく。
そのまま伸ばした右腕を顔の前を滑らせるようにして、左の肩口へ向かって大きな円を描くようにゆっくりと振るっていく。
これは彼が愛するヒーロー、仮面ライダー1号の変身ポーズの構えだ。
彼が仮面アクターに姿を変える際、必ずこの動作を挟む。
これは彼にとって、神に捧げる舞を意味していた。
そしてこれから怪人の肉体を使って人を殺す、しかし化け物とならないための覚悟を決めるための時間でもあった。
左胸に寄せていた右腕を前方へと鋭く突き出し、同時に左腕を真横へと勢いよく払い除けた。
二つの腕が空気を切り裂き、まるで見えない風を呼び込むかのような鋭い風切り音が響く。
「——
重厚な金属音が響き、向かい合う二匹のバッタのレリーフが左右にスライドして展開。
その中央から隠されていた「第三のタービン」が露出し、紅い光を放ち始めた。
三つのタービンが一斉に高速回転を開始する。
物理的なモーターの回転音と、空気を切り裂く風切り音が重なり合ったジェットエンジンのような轟音だ。
凄まじい吸引力が生まれ、周囲の空気がベルトへと吸い込まれていく。
タービンが生み出した圧縮空気は黒い粒子を含んだ暴風となって難羽の全身に吹き荒れた。
それはナノマシンと特殊合金の嵐だ。
風が難羽の肉体を包み込み、螺旋を描きながら硬化していく。
ジャケットの上から、胸部には灰色の
四肢にはバッタの脚力を模した人工筋肉のアシストギアが噛み合い、装甲が皮膚を覆う。
そして、最後に頭部。
黒い風が渦を巻き、一つのヘルメットへと収束した。
艶やかな漆黒のバッタマスク。
生物的な曲面と工業製品のような冷たさが同居したデザイン。
そのこめかみ部分には、白文字で小さく、しかし明確に刻印されていた。
『404』
存在しないはずの英雄。
エラーコードを冠した仮面。
カッ!!
マスクの複眼部分が夕闇の中で白く発光した。
そこに立っていたのはUSJ事件の際、圧倒的な暴力で脳無を粉砕した謎の戦士。
仮面アクターショッカー。
三つのタービンが奏でる風の唸り声だけが、彼の変身完了を告げていた。
マスクの排気口から、余剰エネルギーが白い蒸気となって吐き出される。
マスクの奥で難羽の視線が保須の街を捉える。
「……まずは脳無からだ」
アクターは新幹線の屋根を強く踏み込んだ。
金属がひしゃげる音と共に黒い弾丸となった彼は、茜色の空へと高く跳躍した。
その跳躍力はもはや人間の域ではない。
重力を嘲笑うかのようにビルからビルへと飛び移り、悲鳴の聞こえる中心地へと向かう。
鮮烈な黄色のマフラーが黒い風となって夕焼けを切り裂いていった。