バグのヒーローアルカディア   作:胡麻蝉あぶら

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59話 贋作の怒り

 

保須の夜気はまだ熱を孕んでいた。

アスファルトから立ち上る硝煙と血の匂いが、湿度を含んだ風に乗って鼻腔を突く。

だがその場の空気は物理的な熱とは裏腹に絶対零度まで凍りついていた。

 

街灯の明かりに照らされ、宙に吊るされた男——「ヒーロー殺し」ステイン。

かつて数多のプロヒーローを屠り、社会を震撼させたその男は今、鋼鉄の節足を持つ巨大なムカデに雁字搦めにされ、身動き一つ取れない状態で晒されていた。

 

その眼前に立つのは黒いレザージャケットを羽織った20代の男——難羽輪太郎だ。

 

彼の顔には、いつものサングラスはない。

鋭い三白眼と特徴的な長い下まつ毛に縁取られた瞳が、獲物を射抜く猛禽類のようにステインを見据えている。

 

周囲を取り囲むプロヒーローたちはざわめきと共に困惑していた。

エンデヴァー、グラントリノ、マニュアル、そして傷ついた飯田天哉や緑谷出久、轟焦凍。

彼らの視線は一点に集中している。

 

 

「おい、あいつ……何をする気だ?」

 

「トドメを刺すんじゃないのか?」

 

「武器を……出さない?」

 

 

誰もがパイルバンカーやミサイルといった、強力な兵器の出現を予想していた。

あるいは、仮面アクターとしての姿で圧倒的な暴力で粉砕する光景を想像していた。

 

だが、難羽は何も取り出さなかった。

 

彼がステインにぶつけようとしているのは、物理的な弾丸ではない。

もっと残酷で、もっと逃げ場のない「現実(リアル)」という名の言葉の礫だった。

 

難羽は大きく息を吸い込んだ。

その肺腑、夜の冷気と、この歪んだ社会への苛立ちを全て取り込むように。

そして周囲のヒーロー、学生、駆けつけた野次馬、さらには上空を旋回する報道ヘリのマイクにも届くような声量で、朗々と告げた。

 

 

 

「——彼は、赤黒(あかぐろ) 血染(ちぞめ)!! 31歳!!」

 

 

 

その瞬間、ステインの目が大きく見開かれた。

今まで「ヒーロー殺し」という怪人として振る舞っていた彼が、初めて「人間」としての動揺を見せた。

自分の過去、自分の起源、捨て去ったはずの名前。

 

 

「……貴様ッ!!」

 

「黙っていろ、犯罪者」

 

 

難羽は冷徹に遮った。

その声には相手を対等な議論の相手とはみなさない、絶対的な拒絶が含まれていた。

 

難羽は懐から一枚の書類を取り出した。

実際には何の意味もないただの報告書のコピーかもしれない。

だが街灯の下でそれを広げるその仕草は、まるで死神が罪人の罪状を読み上げるかのような演劇的な威圧感を持っていた。

 

 

「彼はかつて、オールマイトのデビューに感銘を受け!! ヒーローを志し、私立のヒーロー科に入学!!」

 

 

難羽の声が夜の保須の街に響き渡る。

それはステインという「カリスマ」の仮面を剥ぎ取るための、最初の儀式だった。

 

 

「しかし!! 彼は教育課程で『現代ヒーロー観』に失望し、なんと一年生の夏という早期段階で中退している!!」

 

「な……」

 

 

緑谷が息を呑む。

隣にいる轟や飯田も驚きを隠せない表情だ。

 

あの圧倒的な戦闘力、独自の信念、そしてプロヒーローすら凌駕する気迫を持つステインがヒーロー科のドロップアウト組だったという事実。

それは彼らが抱いていた「強大な悪」のイメージに、奇妙な亀裂を入れた。

 

 

「何と愚かな!!」

 

 

難羽は手に持った紙を、くしゃりと握りつぶした。

その乾いた音が、静まり返った路地に響く。

 

 

「彼はヒーローの何を知っているのか!! プロの現場に出ることもなく、インターンで社会の仕組みを学ぶこともなく、たかだか一学期の授業を受けただけで、彼は『現代のヒーローは根本的に腐っている』と断じてしまったのだ!!」

 

 

難羽はステインを指差した。

その指先は、糾弾の槍となって男を貫く。

 

 

「それは『悟り』ではない! ただの『逃げ』だ! 理想と現実のギャップに耐えられず、学ぶことを放棄した子供の癇癪に過ぎない!!」

 

 

ステインが呻く。

 

 

「貴様に……私の何が分かる……!」

 

 

その声は獣の唸り声のようでありながら、どこか弱々しい。

 

 

「分かるさ。手にとるようにな」

 

 

難羽は憐れむような目で、拘束された男を見下ろした。

生きた長い時間の中で、彼が見てきた数多の「勘違いした革命家」たち。

ステインもまた、その系譜に連なる一人に過ぎない。

 

 

「そして10代の終わり際、彼は街頭演説を行う!!」

 

 

難羽は続けた。

彼が叫んでいるのは虚偽(にせもの)ではない、現実(ほんもの)だ。

 

 

「『英雄とは、見返りを求めてなる者ではない』 『自己犠牲の果てに得うる称号である』 『現代のヒーローは贋作だ』……と!!」

 

 

その言葉自体はある種の正論を含んでいるようにも聞こえる。

 

実際にステインの思想に共感する者たちがネット上に現れているのも事実だ。

現代のヒーロー社会が人気や収入に依存したビジネス的な側面を持っていることは否定できない。

 

だが、難羽はその「正論」を一刀両断に切り捨てた。

 

 

「馬鹿か!!!」

 

 

難羽の怒号が飛んだ。

空気がビリビリと震えるほどの、本気の怒声。

 

 

「高校中退者の戯言に、誰が耳を傾ける!! 誰が心を寄せる!! 彼の言う英雄でも何でもない、『何も成していない』人間の言葉に、何の価値があるというのか!!」

 

 

難羽は一歩、ステインに近づいた。

革靴の足音が、死刑台への階段を登る処刑人の靴音のように響く。

 

 

「社会を変えたいなら、政治家になればよかった。あるいは、清貧を貫く最高のヒーローになって背中で示せばよかった。だが、お前はそれをしなかった。言葉で世界を変えようとした……そしてそんなお前を、誰も見なかった」

 

 

当たり前だと難羽は冷酷に告げた。

 

 

「お前の言葉が軽かったからだ。お前に実績がなかったからだ。……そしてお前は、『言葉では社会を変えることはできない』と悟った!!」

 

「……ッ!!」

 

 

ステインの表情が歪む。

それは彼が最も認めたくない事実だった。

 

言葉が届かなかった絶望。

誰にも理解されなかった孤独。

 

それが彼を凶行へと駆り立てた原動力だったのだから。

 

 

「何を悟ったつもりになっている!? 自分が無能で、努力不足で、誰にも相手にされなかったという事実を、社会のせいにするな!! 自分の言葉が届かなかった責任を、世界に押し付けるな!!」

 

 

難羽の口から、ありったけの怒りが吐き出される。

 

それは単なる罵倒ではない。

大人が駄々をこねる子供を叱りつけるような、どうしようもない苛立ちと、逃げ場のない正論の暴力。

 

「信念」という鎧が、難羽の言葉によって一枚ずつ剥がされていく。

イメージ、先入観、英雄視。

あらゆるステイン(フィクション)のメッキが剥がれていく。

 

彼は「殉教者」ではない。

ただの社会に馴染めなかった「高校中退者」であり、自分の声を届けるためにナイフを握った「テロリスト」に過ぎないのだと、白日の下に晒されていく。

 

 

「お前はヒーローを粛清すると言った。……だが本当は自分を認めてくれなかった社会への、幼稚な復讐劇を演じていただけだ」

 

 

難羽の断罪は止まらない。

それは赤黒血染個人への怒りであり、そしてこんな男をカリスマとして祭り上げてしまいそうな現代社会の危うさに対する怒りでもあった。

 

「本物」を知る難羽にとって、ステインの行動はあまりにも短絡的で、あまりにも浅はかな「贋作」の極みだったのだ。

 

 

 

「そして!!」

 

 

 

難羽はくるりと背を向け、周囲を取り囲むヒーローたちの方へ振り向いた。

 

その背中には人間・難羽輪太郎としての激情があふれ出ていた。

 

 

「彼を讃える社会の馬鹿どもよ!! ネットの向こうで無責任に騒ぐ有象無象よ、よく聞け!!」

 

 

もはやこれは赤黒血染に対する説教ではない。

普段サングラスと冷徹な仮面の下に抑え込んでいた、この世界の歪みに対する「黒い怒り」の決壊だった。

 

 

「『彼が事件を起こした街では犯罪率が低下した』だと!? ……笑わせるな!!」

 

 

難羽は叫んだ。

ネット上でまことしやかに囁かれ、一部の評論家すら肯定的に捉えている「ステイン現象」への真っ向からの反論だ。

 

 

「当たり前だろう!! 連続ヒーロー殺傷事件が起きた街だぞ!? 警察の巡回が増え、ヒーローが警戒レベルを上げ、市民が外出を控えた!! 街中が厳戒態勢になったから、こそ泥やチンピラが動きにくくなって犯罪率が低下しただけだろうが!!」

 

 

難羽はこめかみに青筋を立てて怒鳴り散らす。

 

 

「赤黒血染が罪を犯したことと治安が良くなったことに、高尚な思想的繋がりなどない!! ただの『恐怖による萎縮』と『警備強化の結果』だ!!この馬鹿の凶行で、ヒーロー達が『心を入れ替えて』治安良化に繋がるレベルの意識改革になるわけがないだろう!! 因果関係を履き違えるな!! 少し考えればわかるだろ!!」

 

 

周囲のプロヒーローたちが、バツが悪そうに視線を逸らす。

 

彼らの中にも、どこかで「ステインの行動には一理ある」「彼のおかげで襟を正した」と感じていた者がいたかもしれない。

だが難羽はそれを、テロリストによる恐怖支配を肯定する「思考停止」であると喝破した。

 

 

「そもそも!! こいつが殺してきたヒーローは何だ!?」

 

 

難羽の指が、再び宙吊りのステインを指す。

その指先は震えていた。

 

恐怖ではない。

あまりにも理不尽な死と苦しみを与えられた者たちへの、やり場のない憤りによって。

通り魔にやられただけなのに、その通り魔を称賛する社会への怒り。

 

 

「彼らは裏で犯罪を犯していたのか!? 弱者を虐げ、他者を痛めつけることに快感を覚える異常者だったのか!?」

 

 

飯田の肩がガクガクと震えた。

兄、飯田天晴の笑顔が脳裏に浮かぶ。

 

彼は立派なヒーローだった。

多くの人を助け、感謝され、子供たちに夢を与えていた。

 

ただステインの勝手な基準に合わなかっただけで、再起不能にされた。

彼はもう、救いを求める人々の元へ走ることはできない。

 

 

「違う!! 違うぞ、彼を『必要悪』と捉える馬鹿ども!!」

 

 

難羽は叫ぶ。

 

それは慟哭。

それは時代を超えた悲しみ。

 

難羽が知る2000年代——「無個性」が当たり前だった社会の常識。

もしあの時代にステインが現れていれば、彼は単なる「妄想に取り憑かれた通り魔」として処理され、ニュースの片隅で消えていただろう。

ネット上に彼の経歴が広まれば、よくいる社会不適合者として失笑されるだけだ。

 

だが、この超人社会は違う。

強力な「個性」と不安定な「ヒーロー制度」の上に成り立つこの薄氷の世界では、異常者の狂気が容易に「思想」として感染し、社会をひっくり返してしまう。

 

それが難羽には我慢ならなかった。

 

 

「教えてくれ!!」

 

 

難羽の声が枯れるほどに響く。

 

 

「確かに彼らは、理想のヒーローと違って弱かったかもしれない!! 人気を求めるアイドル気取りだったかもしれない!! ヒーローランキング下位に居座り続ける、パッとしない凡人だったかもしれない!!」

 

 

難羽は一歩、また一歩とステインに歩み寄る。

 

 

「だがそれは!! 赤黒血染という力を持った馬鹿に、勝手な判断基準で殺されるのに相応しい罪だったのか!? 彼らの存在に価値はなく、殺されて当然の命だったのかッ!?」

 

 

答えられる者はいない。

否、答えは一つしかない。

 

「否」だ。

 

どんなに未熟でも、どんなに俗物でも、彼らは法の下で人を救おうとしていた「ヒーロー」であり、懸命に生きていた人間だった。

 

それを個人の美学という名の凶器で屠殺することは、断じて「粛清」などではない。

ただの「殺人」だ。

 

 

 

 

 

難羽は赤黒の目の前に立った。

もはや、そこに言葉はいらなかった。

 

言葉で飾られた「信念」の皮は全て剥がれ落ち、そこにはただ自分の弱さを認められなかった哀れな男が一人ぶら下がっているだけだ。

 

 

「……ふざけるな」

 

 

難羽は拳を振り上げた。

そこには強化アームも、パイルバンカーもない。

 

人間の拳。

血の通った、怒りに燃える拳。

 

 

「ふざけるな……ふざけるなッ!!」

 

 

難羽の拳が、赤黒の顔面を捉えた。

無抵抗の相手への暴力。

だがそれは「悪を裁く鉄槌」などという高尚なものではなかった。

 

ただの理不尽に対する怒りの発露。

法も秩序も無視して、好き勝手に命を奪った「ガキ」への教育的指導という名の私刑。

 

 

「ふざけるなぁッ!!! 社会を舐めるな!! 命を舐めるな!!」

 

 

 

難羽は殴り続けた。

 

 

「いかん、止めろ!!」

 

 

エンデヴァーやグラントリノが、慌てて難羽に飛びついた。

数人がかりで、暴れる難羽を羽交い締めにする。

それでも難羽は赤黒のほうへ顔を向けて叫ぶ。

 

 

「離せ!! 殴らせろ!! この蛆虫を!!」

 

「落ち着け! もう気絶している!」

 

 

マニュアルが叫んだ。

 

その声で難羽の動きが止まる。

難羽は荒い息を吐きながら、力なく腕を下ろした。

 

目の前には顔を赤黒く腫らし、糸が切れた操り人形のようにぐったりと首を垂れた男の姿があった。

かつて鬼神の如き殺気を放っていたカリスマは、今や見る影もない。

 

ただの、一人の「痛々しい中年男」がそこにいた。

 

 

静寂が戻る。

だがその静寂は先ほどの恐怖による硬直とは違うものだった。

仮面アクターショッカーの素顔。

そして彼の魂からの叫び。

 

ステインは処刑され、赤黒血染が警察に連行されていく。

 

 

難羽輪太郎の演説はこうして幕を閉じた。

 

 

 

 

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