バグのヒーローアルカディア   作:胡麻蝉あぶら

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60話 消えた黒き風、再起する白き風

 

保須総合病院の一室。

ツンと鼻を突く消毒液の匂いと規則的な心電図の電子音だけが、白く無機質な空間を支配していた。

窓から差し込む朝日は眩しいが、ベッドに横たわる三人の少年の心はまだ昨夜の暗い路地裏から抜け出せていなかった。

 

全身に包帯を巻かれた緑谷出久。

左腕と顔にガーゼを当てた轟焦凍。

そして両腕に重傷を負い、ギプスで固定された飯田天哉。

 

 

「……すまなかった」

 

 

沈黙を破ったのは飯田の掠れた声だった。

彼は天井を見つめたまま、絞り出すように懺悔を口にした。

 

 

「僕の私怨が、君たちを巻き込んだ。……ヒーローとして、いや、人間としてあるまじき失態だ。本当に……申し訳ない」

 

「飯田くん……」

 

 

緑谷は身を起こそうとしたが、全身の筋肉が悲鳴を上げて顔をしかめた。

轟が静かに視線を向ける。

 

 

「謝るのは後でいい。……今は生きてるだけで上出来だ」

 

 

轟の言葉はそっけなかったが、そこには確かな安堵が含まれていた。

 

 

「赤黒血染——ステインは警察の厳重な監視下で治療を受けているそうだ。命に別状はないらしい」

 

 

轟がスマホのニュース画面を見ながら言った。

だが、事態はステインの逮捕だけで終わるほど単純ではない。

 

 

「……脳無、だよね」

 

 

緑谷が重い口を開いた。

 

 

「路地裏での戦いの直後、空から羽の生えた脳無が降ってきた。……USJで僕たちを襲ったヴィラン連合のバケモノが、なぜ保須市にいたのか。単なる偶然じゃない。連合がステインの事件に便乗して動いていたんだ」

 

 

その事実は三人の中に重苦しい不安の種を植え付けていた。

しかし緑谷の心を占めている最大の懸念は、ヴィラン連合のことではなかった。

 

 

「……轟くん。相澤先生から、何か連絡はあった?」

 

 

緑谷の問いに、轟はスマホを閉じ、小さく首を横に振った。

 

 

「ああ。……難羽の件だろう」

 

 

轟の言葉に飯田も息を呑む。

昨夜の事件の後、雄英高校の教師陣と警察は各事務所で職場体験を行っていた生徒たちの安否確認を行った。

 

しかし、グラントリノの事務所で緑谷と共に研修を受けていたはずの「難羽輪太郎」だけが、現在も行方不明となっている。

 

 

「電話は繋がらない。GPSの反応も途絶えたままだ。……それに、学校に登録されていたあいつの住居——アパートの部屋には、誰も住んでいた形跡がなかったらしい」

 

「そんな……じゃあ、難羽くんは最初から……」

 

 

生活感のないダミーの部屋。

偽りの連絡先。

 

難羽輪太郎という学生はまるで最初からこの世界に存在していなかったかのように、綺麗に足跡を消していたのだ。

 

緑谷は無意識のうちに自分の左腕をさすっていた。

そこには彼からもらった盾はない。

 

 

(……間違いない。あの時の男の人は)

 

 

緑谷の脳裏に昨夜の光景が鮮明にフラッシュバックする。

 

ステインを鋼の百足で縛り上げ、黒い装甲を解いた男の素顔。

20代半ばの鋭い銀色の瞳を持った青年の顔。

 

グラントリノは『やはりな』と呟いた。

緑谷も一目見た瞬間に理解してしまった。

 

親戚や年の離れた兄などではない。

骨格も、声のトーンも違う。

だがあの瞳の奥にある冷徹な知性と不器用な優しさは、紛れもなく緑谷の知る「難羽輪太郎」そのものだったのだ。

 

 

(学生としての難羽くんと、大人の姿をした難羽くん……どっちが本物かなんて、考えるまでもない)

 

 

認識阻害か、あるいは肉体そのものを変化させる未知の個性か。

 

彼がどうやって15歳の少年に偽装していたのかは分からない。

だが、確かなことは一つ。

 

緑谷たちと共に机を並べていた「学生の難羽」こそが作られた仮面であり、ステインを断罪した「大人の難羽」こそが彼の真実の姿なのだ。

 

 

(難羽くん……君は一体……)

 

 

その時、病室のドアが控えめにノックされた。

 

「……入るよ」

 

 

扉を開けて入ってきたのはグラントリノでも相澤でもなかった。

 

背の高いスーツ姿の男。

その首から上はビーグル犬の顔をしている。

保須警察署の署長、面狗(つらがまえ)健地であった。

 

 

「雄英の生徒たちだね。……怪我の具合はどうかな」

 

 

面狗署長は、犬の顔に似合わぬ厳格な声で問いかけた。

 

 

「……あなたは?」

 

「保須警察署長の面狗だ。……君たちには、昨夜の事件についての『処遇』を伝えに来た」

 

 

その言葉に三人の体に緊張が走る。

 

ヒーロー資格を持たない未成年が自らの判断で個性を使用し、ヴィランと戦闘を行うこと。

それは正当防衛が認められない限り、明確な『個性使用の重過失』という重大な法律違反となる。

 

面狗署長は病室の中央に立ち、静かに語り始めた。

 

 

「本来であれば、君たち、そして君たちの監督責任者であるプロヒーローたちは厳しい処罰を受けることになる。……だが、それはあくまで『公にすれば』の話だ」

 

 

署長は三人の顔を順番に見渡した。

 

 

「今回の事件はあまりにもイレギュラーが多すぎた。……よって警察とヒーロー公安委員会は、一つの決断を下した。君たちの違反は不問とする。ステインによる火傷の痕跡から、彼を討伐したのは『エンデヴァー』の功績として発表される」

 

「……僕たちの行動を、隠蔽するということですか」

 

 

飯田が唇を噛み締めながら問う。

 

 

「そうだ。大人たちの汚いやり方だと蔑んでもらっても構わない。……だが、君たちのような将来ある若者の経歴に、前科という傷をつけるわけにはいかないからね」

 

面狗署長は深く頭を下げた。

 

 

「偉そうに言って申し訳ない。……だが、君たちの勇気が何人もの命を救ったのは事実だ。ありがとう」

 

 

大人の責任と法を守る者の苦悩。

緑谷たちはその重みを無言で受け止めるしかなかった。

 

 

「……処遇についての話は以上だ」

 

 

面狗署長は頭を上げると、ふぅと短く息を吐いた。

そして警察署長としての公式な顔から、一人の捜査官としての鋭い顔へと雰囲気を変えた。

 

 

「ここからは……非公式な話だ。あの場にいた『黒い戦士』……仮面アクターについて聞きたい」

 

「仮面アクター……」

 

 

緑谷が息を呑む。

面狗署長は窓際へと歩み寄り、ブラインドの隙間から保須の街を見下ろしながら口を開いた。

 

 

「彼はステインという男の過去と狂気を、大衆の面前で徹底的に暴き立てた。……その後周囲のプロヒーローたちが彼を拘束しようと動いた瞬間、彼は文字通り煙のように姿を消したそうだ」

 

「煙のように……」

 

 

緑谷と轟は顔を見合わせた。

それはUSJ事件の最後に仮面アクターが撤退した時と同じ手口だ。

 

 

「突如現れ嵐を起こし、そして風となって消える……未知の空間移動の個性か、あるいは高度な認識阻害……足取りは完全に掴めない」

 

 

面狗署長は窓から向き直り、緑谷たちを見つめた。

 

 

「彼は脳無という怪物を一切の躊躇なく『殺害』した。……我々警察の立場からすれば彼は極めて危険な存在であり、逮捕すべき対象だ。ステインと同質の冷酷な殺人鬼と見なす者もいる」

 

 

署長の言葉に、緑谷は思わず「違います!」と叫びそうになった。

だが緑谷が口を開くより先に、面狗署長が小さく首を横に振った。

 

 

「……だが、私にはそうは思えなかった」

 

「え……?」

 

「現場にいた部下たちの報告書を読み、彼が残した言葉の記録を聞いた。……不思議な感覚だったよ」

 

 

署長はビーグル犬の丸い瞳を細め、遠くの記憶を探るような表情をした。

 

 

「彼から感じたのは狂気でも、血に飢えた殺意でもなかった。……ただ、果てしなく深い『孤独』だ。まるで一人で全く違う景色を見ているような、途方もない孤独な一人の人間に感じたんだ」

 

 

その言葉は緑谷の胸の奥にストンと落ちた。

 

ステインは理解されない苦しみから凶行に出たと言っていた大人の難羽。

 

彼自身、学校で今の社会に不満を漏らすことがあった。

だが彼と同じ考えをテレビやネットでも見ることはなかった。

 

彼も理解されない側の人間だった。

 

 

「彼があの時、ステインや社会に対して吐き出していた言葉……あれは、今の『超人社会』に生まれ育った人間から出る言葉ではない」

 

 

面狗署長の洞察力は刑事としての長年の勘によるものだった。

 

 

「私の個人的な見解だがね。……彼は、どこか別の場所から来たか、あるいは……」

 

 

署長はそこで言葉を区切り、重々しく告げた。

 

 

「昔の時代に、一人だけ取り残された存在なのかもしれないな。……この狂った超人社会を、過去の亡霊として見つめ続けているようなね」

 

 

昔の時代。

取り残された存在。

その言葉を聞いた瞬間、緑谷の脳裏に事務所で一緒に見た古い映画——キャプテン・アメリカを思い出した。

 

 

 

(彼はあの映画を見る前、なんて言った?)

 

 

 

『当時の人々にとっては、これこそが『希望』の象徴だった。……今じゃネットの海からも消え去り、オリジナルのデータは数千万で取引されるコレクターズアイテムだ』

 

『これは私物だがな……始まるぞ』

 

 

 

あの口ぶりは、コレクターから買ったものじゃない。

 

 

 

「……彼が何者であれ、これ以上君たちが深入りするのは危険だ」

 

 

面狗署長は静かに忠告した。

 

 

「彼は我々大人が追う。……君たちは、今は自分たちの傷を癒し、立派なヒーローになることだけを考えなさい」

 

 

署長はそう言い残し、病室を後にした。

ドアが閉まる音がやけに重く響く。

再び静寂が戻った病室で、緑谷は窓の外の青空を見つめていた。

もう雄英高校の教室で、彼と談笑することもないのだろうか。

 

 

「……難羽くん」

 

 

緑谷の口から祈るような呟きが漏れる。

 

孤独な亡霊。

もし彼が本当に時代に取り残された迷子なのだとしたら、彼を助けられるのは一体誰なのだろうか。

 

病室の白い光の中で、緑谷出久はただ己の無力さを噛み締めていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京都内にある、ヒーロー専用の高度医療設備を備えた総合病院。

 

その特別病棟の奥深くにある個室で、飯田天晴は窓の外を流れる雲をただぼんやりと眺めていた。

 

室内に置かれた大型テレビからは昼のワイドショーの音声が単調に流れ続けている。

 

 

『——保須市で起きたヒーロー殺しステインの逮捕劇から数日。現場の路地裏には今も多くのファンや……』

 

 

天晴はリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を落とした。

画面が真っ暗になり、病室に深い静寂が落ちる。

 

 

「……はぁ」

 

 

短く、重いため息が漏れた。

 

数日前、弟である天哉が見舞いに来た時のことを思い出す。

 

ステインが捕まったという報せの後、天哉はベッドの横で涙を流しながら告白した。

兄の仇を討つため、復讐のためにステインと戦ってしまったこと。

ヒーローとしてあるまじき私怨に囚われてしまったこと。

 

そして、それでも自分は『インゲニウム』の名を受け継ぎ、絶対に迷子のヒーローになるのだと力強く宣言してくれた。

その弟の言葉を聞いた時、天晴の胸に去来したのは安堵と、一抹の寂しさだった。

 

 

(……俺はもう、インゲニウムじゃないんだな)

 

 

長年飯田家の長男として、そして東京の街を駆けるトップヒーローとして走り続けてきた。

 

だがステインの凶刃によって脊髄を損傷し、彼の下半身は完全に感覚を失っている。

 

二度と歩くことはできない。

 

それが現代の最高峰の医療をもってしても覆らない無慈悲な宣告だった。

 

天晴はシーツの下で動かない自分の両脚をジッと見つめた。

絶望がないと言えば嘘になる。

だが天哉が自分の名と志を継いでくれると知った今、不思議と心は穏やかだった。

 

 

(これからは車椅子のサイドキックとして、事務所の裏方で頑張ってみるか……天哉のサポートなら、いくらでもできるしな)

 

 

そうやって、自身の新たな人生のビジョンを思い描いてみたりもする。

 

しかし現実問題として、今の天晴にはやることが何もなかった。

 

ヒーローとしてデビューして以来、毎日パトロールと事務作業、メディア対応に追われ、ここまで長い休みを取ったことは一度もなかった。

怪我をしているため、筋トレなどの運動で時間を潰すこともできない。

読書もすぐに飽きてしまう。

 

『暇を持て余す』

 

それは常にトップギアで走り続けてきたエンジンである飯田天晴にとって、人生で初めて経験する途方もない空白の時間だった。

 

 

「……暇だな」

 

 

誰に聞かせるわけでもなく呟き、再び天井のシミの数を数えようとした、その時だった。

 

コン、コン。

控えめなノックの音が響き、返事をする間もなく病室の扉が静かに開かれた。

 

 

「失礼します」

 

 

入ってきたのは見慣れた担当医でも、顔なじみの看護師でもなかった。

 

年齢は二十代半ばといったところか。

首から聴診器を下げ、手には銀色のアタッシュケースを提げている。

一見すれば、優秀な若手医師にしか見えない。

 

だが天晴の脳内のアラートが強烈な警鐘を鳴らした。

 

 

(……誰だ、こいつは?)

 

 

担当医ではない。

それどころか、この病院で見かけたことすらない。

 

そして何よりその「顔」に見覚えがあった。

 

ここ数日、ステイン逮捕のニュースと共に各局の討論番組やネットニュースで幾度となく報じられ、憶測を呼んでいる謎の存在。

保須市の事件においてステインの狂気を論破し、社会のシステムを痛烈に批判して姿を消した黒き戦士。

仮面アクターの正体とされる男。

 

難羽輪太郎がなぜか白衣を着て、天晴の病室に立っていた。

 

 

「……あなたは」

 

 

天晴は上半身を起こそうとしたが、男は手で制した。

 

 

「そのまま寝ていて構わない。この病院に知り合いがいてな。無理を言って入らせてもらった」

 

 

難羽はアタッシュケースをテーブルに置くと、ベッドの脇にある丸椅子を勝手に引き寄せ、深く腰掛けた。

その所作はあまりにも自然で、まるで昔からの主治医であるかのような落ち着きを払っている。

 

だが、天晴は歴戦のプロヒーローだ。

不審者が病室に侵入したと判断した彼はシーツの下で密かに手を伸ばし、ベッドの柵に備え付けられているナースコールのボタンをすでに三度ほど強く押し込んでいた。

難羽は天晴のその隠れた動作を、銀色の瞳で静かに見透かしていた。

 

 

「……すまんな。そのナースコールも、今は一時的に繋がらないよう『無視』するよう手配してもらった」

 

「なっ!?」

 

 

天晴は思わず声を上げた。

いくら知り合いがいるとはいえ、病院の緊急連絡システムを意図的に遮断させるなど、一個人の医師や看護師にできる権限のレベルではない。

病院のシステムそのものを掌握しているか、あるいは上層部を完全に抱き込んでいるとしか思えない異常な手回しだ。

 

 

「……警戒しなくていい。暗殺しに来たわけじゃない」

 

 

難羽は天晴の驚愕をよそに、淡々とした口調で続けた。

 

 

「頼み込んで、三十分くらい君と面会する許可をもらった。……君の足について、重要な説明をするためにな」

 

「足についての、説明……?」

 

 

天晴は眉をひそめた。

難羽はテーブルに置いたアタッシュケースのロックを外し、パカリと開いた。

 

内部は冷却保存用の特殊なウレタンで保護されており、その中央に、一本の注射器が厳重に収められている。

内部には微かに発光しているような、粘度のある透明な液体が充填されていた。

 

それを見た瞬間、天晴の背筋に冷たい汗が流れた。

過去の事件で押収された、ある違法薬物の記憶がフラッシュバックする。

 

 

「まさか……『トリガー』か!?」

 

 

個性を一時的に暴走・強化させる悪魔の薬。

もしそんなものを今の自分の体に打たれれば、損傷した神経がどうなるか分からない。

天晴が顔を強張らせると、難羽は小さく首を横に振った。

 

 

「違う。……まあ、一部似た成分の抽出物は入っているが、目的も効果も全くの別物だ」

 

 

難羽は注射器をケースから取り出し、蛍光灯の光に透かして見せた。

 

 

「これは君の肉体に適合するように調整された『個性因子』。そしてその因子を定着させ、強制的に起動させるための活性剤のハイブリッドだ」

 

「……?」

 

 

難羽はまるで大学の講義室で学生に教え諭す教授のように、穏やかで理知的なトーンで説明を始めた。

 

 

「個性因子というのは、人間に突然変異的な『変質』を起こす根源となる物質だ。超常黎明期以降、人類のDNAに組み込まれたその因子が発現することによって生まれた『プラスα』の能力……それが、世間一般で『個性』と呼ばれているものだ」

 

 

難羽の視線が、天晴の動かない両脚へと向けられた。

 

 

「君の個性は『エンジン』。素晴らしいプラスαだ……だが今の君の身体は、脊髄損傷による下半身麻痺。本来機能すべき神経伝達が断たれ、肉体として逆に『マイナス』されている状態にある」

 

 

天晴は二度と動かないと宣告された己の足を見つめた。

医学的には、切断された神経細胞を完全に修復する技術はまだ存在しない。

 

 

「だからマイナスを埋めるための、新たな『プラス』を付与する」

 

 

難羽は注射器の先端を軽く弾き、空気を抜いた。

 

 

「この注射器の中には本来、普通の人間には『要らないもの』が入っている」

 

「……要らない、ものとは?」

 

天晴は喉の渇きを覚えながら、思わず問い返していた。

 

ヴィランを殺すことも厭わない危険人物。

彼が持ち込んだ得体の知れない薬。

それが真っ当な医療行為であるはずがない。

 

だがその落ち着き払った口ぶりと確信に満ちた瞳は、天晴の心の奥底に、諦めかけていた「希望」の火を不気味なほどに煽り立てるのだ。

 

 

「ああ。普通の人間なら、生まれつき誰もが持っている当たり前の機能だ」

 

 

難羽は静かに告げた。

 

 

「人工的に抽出・培養された個性——『身体能力』。……歩く、走る、立ち上がる、物を投げるといった、人間としての基本的な身体の動きを『個性として』得るための因子だ。誰もが持っているがゆえに作りやすい」

 

 

天晴の目が見開かれた。

それが意味することを、瞬時に理解したからだ。

 

神経が繋がっていなくても関係ない。

肉体が破損していても関係ない。

 

『歩く』という行為そのものを、「個性」という超常の力によって上書きし、強引に実行させる。

 

 

(そんな……そんな夢物語みたいなことが、現実にできるのか……?)

 

 

話を聞きながら、天晴の脳は警鐘を鳴らし続けている。

だが同時に、熱病に浮かされたように期待している自分がいた。

 

もう一度、歩けるかもしれない。もう一度、走れるかもしれない。

 

 

「……代償は」

 

 

気づけば、天晴の口からその言葉がこぼれ落ちていた。

 

タダであるはずがない。

目の前にいる男は社会のルールから外れた存在だ。

これは魂を対価にするような、悪魔との契約に違いない。

 

難羽は注射器を持ったまま、天晴の目を真っ直ぐに見据えた。

その瞳に商取引のような冷たさはない。

ただ、静かな熱だけが宿っていた。

 

 

「——ヒーローとして、再び第一線で頑張れ」

 

「……え?」

 

 

拍子抜けするほど、真っ当で、眩しすぎる代償。

天晴は言葉を失った。

 

 

(ヒーローとして、頑張る……?)

 

 

天晴の脳裏に弟の涙声が蘇る。

 

 

『兄さんのような、立派なヒーローになる!!』

 

 

そしてテレビで見た、ステインの狂気に満ちた演説。

 

 

『贋作が蔓延るこの社会……! 私が正さねばならない!』

 

 

もし、自分がもう一度立ち上がれたなら。

弟に一人で背負わせず、共に走り、導くことができる。

狂った思想を持つヴィランから街の人々を、直接自分の手で守ることができる。

 

サイドキックとしてではなく、インゲニウムとして。

 

 

「……もちろんこれを一回注射しただけで、すぐに魔法のように歩けるようになるわけじゃない」

 

 

難羽は注射器の針を見つめながら、現実的なプロセスを説明する。

 

 

「この因子注射を期間を空けて三、四回ほど行い、君の肉体に新たな個性を定着させる。そして過酷な歩行練習によるリハビリを行い、肉体と因子をリンクさせて『個性による身体稼働』の活性化を促す必要がある」

 

 

難羽は冷酷な笑みを浮かべた。

 

 

「神経細胞が死滅していようが、脊髄が損傷していようが、そんな物理的な欠損は完全に『無視』して、個性は君の脚を動かす。……想像を絶する幻肢痛と疲労を伴う、地獄のリハビリになるぞ。一、二ヶ月は覚悟しろ」

 

 

その言葉は脅しであったが天晴にとっては福音に聞こえた。

リハビリの苦痛など、走る理由を奪われた日々の痛みに比べれば取るに足らない。

 

 

「……構わない」

 

 

天晴はベッドの上に投げ出された腕を動かし、注射しやすいように袖をまくり上げた。

彼の中にあった葛藤は、とうに消え去っていた。

悪魔の契約だろうが、未認可の劇薬だろうが関係ない。

彼が求めたのは、ただ一つ。

 

再び誰かを助けるために走る力だった。

 

 

「……いい覚悟だ」

 

 

難羽は消毒綿を取り出し、慣れた手つきで天晴の静脈を消毒した。

そしてためらうことなく、透明な液体を天晴の体内へと注入していく。

チクリとした痛みの後、血管を這い上がってくるような奇妙な熱感。

天晴は目を閉じ、ただ黙ってそれを受け入れた。

 

 

「よし。今日はここまでだ」

 

 

難羽は手早く止血テープを貼り、空になった注射器をアタッシュケースに回収した。

 

 

「そろそろ約束の時間だ。……二回目の投与は、また二週間後に来る。以後のリハビリメニューについては、担当医に話を通してあるから、彼らの指示に従え」

 

 

難羽は白衣のポケットに両手を突っ込み、クルリと背を向けて病室の扉へと向かう。

本当にただ足を治すための手はずだけを整えて、去ろうとしている。

 

天晴はその後ろ姿に向かって、どうしても聞かずにはいられなかった。

 

 

「待ってくれ……! なぜだ?」

 

 

難羽の足が止まる。

 

 

「なぜ俺にこんなことをした? 君はステインと同じように、この社会を、ヒーローを憎んでいるんじゃないのか……?」

 

 

難羽輪太郎は、ゆっくりと振り返った。

その顔にはニュース映像で見たような冷酷な処刑人の面影はない。

ただどこか照れくさそうな、それでいて心からの敬意を込めた、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

 

「——君のファンだからさ」

 

「え……?」

 

「確かに私は今のヒーローの在り方が嫌いだ。しかし、それは人々を守ろうと頑張る善良な人間を嫌う理由にはならない。良い人に……いや、良い人にこそ良い人生を送ってほしいと感じるのは、何も不思議ではないだろう?」

 

 

難羽はそれだけ言い残すと病室の扉を開け、静かに廊下へと消えていった。

カチャリ、と扉が閉まる音が響く。

 

 

 

 

 

 

病室には再び、天晴一人が残された。

テレビの音はない。

 

だが彼の中の時間はもう止まってはいなかった。

 

血管の奥で熱を帯び始めた新たな「個性」の胎動を感じながら、飯田天晴は自分の両脚を力強く見つめ返していた。

 

 

もう一度、エンジンを吹かす時が来たのだ。

 

 

 

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