保須市の朝焼けはかつてないほど奇妙な静寂と共に訪れた。
路地裏に残る焦げ臭さや血の匂いは、清掃業者と警察の規制線によって物理的には処理されつつあった。
しかし目に見えない巨大な「何か」が、電子の海と人々の意識の中で爆発的に燃え広がっていた。
ステイン逮捕。
その事実自体が霞むほどの衝撃映像が動画投稿サイトやSNSを席巻していたからだ。
タイトルは無数に乱立していた。
『ヒーロー殺しの正体、ただの中退者だった』
『謎の黒ジャケット男、ステインを完全論破』
『【閲覧注意】カリスマの化けの皮が剥がれる瞬間』
再生回数は秒単位で万の位を更新し、コメント欄は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
それは社会が抱いていた「悪のカリスマ」という幻想が、たった一人の名もなき男の暴露によって木っ端微塵に粉砕されるプロセスの記録だった。
深夜、動画がアップロードされた直後はまだステインを擁護する声が残っていた。
『この男は何様だ? ステインの信念は本物だ』
『言葉で何と言おうと、彼が命懸けだった事実は変わらない』
しかし動画内で黒ジャケットの男が「私立ヒーロー科を1年の夏で中退」「勉強不足の子供の癇癪」という事実を暴露し始めたあたりから潮目は劇的に変わった。
「え、マジ? 雄英ですらなくて、しかも1学期で辞めたの?」
「高尚な思想家ぶってたけど、要は学校に馴染めなかっただけ?」
「『現代ヒーローは贋作だ』って、お前現場も知らないじゃん……」
冷や水を浴びせられたような反応が連鎖する。
これまでステインの思想を「現代社会への警鐘」として持ち上げ、彼のヴィジュアルや言動を「ダークヒーロー」として消費していた層にとって、この事実はあまりにも都合が悪く、そして何より「ダサかった」。
特に男が放った「犯罪率の低下はただの警備強化の結果」「因果関係を履き違えるな」という一喝はネット上の議論を一瞬で終わらせた。
「ぐうの音も出ない正論で草」
「確かに。通り魔が出た街で子供が外で遊ばなくなったら、そりゃ誘拐は減るわな。それを『浄化』とは言わん」
「今まで『ステインの行動には一理ある』とか言ってた評論家、息してる?」
かつて信者予備軍だった若者たちは恥ずかしさと共に投稿を削除し始めた。
自分のプロフィール欄から「信念」「粛清」といった痛々しいワードを消し去る作業が、日本中で同時多発的に行われたのだ。
ステインは「畏怖すべき怪人」から、「こじらせた痛い中年」へと一夜にして転落した。
夜が明け、通勤通学の時間帯になるとその話題はリアルの会話へと侵食した。
満員電車の中、スマホを覗き込むサラリーマンや学生たちの話題はあの黒ジャケットの男で持ちきりだった。
「見た? あの動画」
「見た見た。あの説教してる人、誰なんだろうな」
「プロヒーロー名鑑に載ってないんだよな。でも、言ってること滅茶苦茶まともじゃない?」
とある男子高校生のグループが気まずそうに会話している。
「俺さ……正直、ステインかっこいいと思ってたんだよね」
「あー、まあ、分からんでもないけど……」
「でもあの動画見たらさ、なんか急に冷めたっていうか……ただの暴力おじさんにしか見えなくなっちゃって」
それが一般市民の偽らざる感想だった。
難羽がステインを殴りつけるシーンは暴力的ではあったが、不思議と恐怖よりも教育的指導のような納得感を与えていた。
駄々をこねる子供を大人が叱りつけている構図。
それがあまりにも圧倒的で、ステインの狂気のオーラが完全に消し飛んでいたからだ。
「あそこまで言ってくれるとスカッとするよな」
「『社会のせいにするな』ってとこ、うちの部長に聞かせてやりたいわ」
社会人たちは難羽の言葉にカタルシスを感じていた。
理不尽な世の中で文句を言いながらも歯を食いしばって生きている「普通の人々」。
彼らにとっては努力もせず暴力で世直しを語るステインよりも、それを「甘えだ」と断じる謎の男の方が、遥かに自分たちの代弁者として映ったのだ。
テレビ局のスタッフルームは早朝からパニック状態だった。
用意していた「ヒーロー殺し逮捕! その思想の背景に迫る」という特集の構成が根底から覆されたからだ。
「これ、ステインを『思想犯』として扱うの無理ですよ!」
「あの黒ジャケットの男の正体が分からないと番組になりません!」
「コメンテーターの先生が『今さらステインの動機を深掘りするのは恥ずかしいからやめろ』って!」
ワイドショーの画面ではキャスターたちが言葉を選びながら報道していた。
かつては社会の歪みが生んだ悲しき怪物というナレーションをつけていたかもしれない映像が、今はただの凶悪犯の逮捕劇として淡々と流される。
ある番組でステイン擁護派として知られる社会学者がコメントを求められた。
「……えー、暴力はいけませんが、彼の言葉には耳を傾けるべき部分も……」
そこへSNSのリアルタイム反応が容赦なく突き刺さる。
『まだそんなこと言ってんの?』
『動画見てないの? ただの中退者の逆恨みだよ』
その空気を感じ取ったのか学者は言葉を濁し、沈黙した。
メディアが作り上げようとしていた「ステイン現象」という名のブームは、マッチポンプの種火ごと吹き消されてしまった。
場所はヴィラン連合のアジト、薄暗いバー。
ブローカーの
彼女は興味なさそうに店内を見回し、カウンターの席に座る死柄木弔を見ても特に感慨もなさそうに「ふーん」と鼻を鳴らした。
「……なんだ、その態度は。客じゃねぇなら帰れ」
死柄木が不快そうに首を掻く。
トガは頬杖をつき、つまらなそうに足をぶらつかせた。
「だってぇ……ここ、ステイン様がいるって聞いたから来たのに。もういないんでしょ?」
「俺たちはあいつの騒ぎに便乗しただけで繋がりはない……あいつに会いたきゃタルタロスにでも行け」
「捕まってるのは知ってますよぉ。動画見ましたもん」
トガはスマホを取り出し、あの保須市での演説動画を再生した。
画面の中では、仮面アクターがステインを拘束している。
そして変身を解いた姿で冷徹にその矛盾を突きつけ彼の「英雄回帰」の物語を解体している。
「私ね、ステイン様のこと好きだったんです。血の匂いがして、ゾクゾクして……カッコよかったのに」
トガは画面の中の、言葉を失い吊るされているステインを見て、冷めた声で言った。
「あの仮面の人にいじめられて、シュンとしちゃって……なんだか『怒られた子供』みたいでした……だからもう、ステイン様はいらないです」
彼女にとって、難羽に論破されただの「痛いおじさん」に成り下がったステインはもはやときめきの対象ではなかった。
カリスマは死んだ。
物理的にではなく、概念として。
「……ハッ、勝手に憧れて失望するとは。ステインと同じだな」
死柄木は嘲笑ったが、トガの表情は晴れない。
彼女の不満の矛先は、ステインを倒した仮面アクター——難羽輪太郎へと向いていたからだ。
「でも、あの仮面の人……もっとキライです」
トガの瞳が暗く濁った。
「あいつ、ステイン様のこと『可哀想』って目で見てました。……言葉にはしてないけど、分かっちゃうんです」
「可哀想……?」
黒霧がグラスを磨く手を止めた。
トガは自分の腕にナイフの先端を当て、微かに血を滲ませながら語り始めた。
「あの仮面の人の目……『お前のそれは個性による衝動だ』『不幸だな』……そんなふうに言ってる目でした」
難羽は手段を問わない過激さはあるが、精神的には善と言えた。
もしトガヒミコが事件を起こす前に出会っていれば、彼は全力を尽くして彼女を保護し、吸血衝動を抑える治療法を探しただろう。
「お前は悪くない、個性が悪い」と言って、彼女を社会復帰させようとしたはずだ。
だがトガにとってそれは、最大の侮辱だった。
「私の『好き』も、私の『
トガは叫んだ。
彼女は自分の異常性を愛している。
血を欲することも、切り刻みたいと思うことも、彼女にとっては純粋な愛着行動であり、アイデンティティそのものだ。
それを「病気」として扱われること。
「可哀想な子」として憐れまれること。
それは、彼女の存在そのものを否定されるに等しい。
「あんな清潔で、正しくて、優しい『お医者さん』みたいな人が支配する世界なんて……私にとっては息ができなくて死んじゃう牢屋と同じです!」
難羽の演説は社会にとっては正論だ。
だが、その正論からこぼれ落ちた「矯正不可能な異物」にとって彼の優しさは猛毒となる。
「だから……私、居場所がないんです。お父さんもお母さんも、学校の先生も、みんなあの仮面の人と同じ目をするから」
トガは深くため息をつき、カウンターに突っ伏した。
「あーあ……もっと『普通』に、グチャグチャに生きさせてくれる場所、ないかなぁ」
その言葉を聞いて、死柄木弔の手がピタリと止まった。
彼の赤い瞳がトガの背中を見つめる。
(……チッ、面倒くせぇな)
死柄木は内心で舌打ちした。
彼は性根からの純粋な悪人は嫌いだ。
欲望のためだけに他人を蹂躙するような輩には反吐が出る。
だが、目の前の少女は違う。
彼女の吸血衝動は生まれ持った「個性」に由来するものだ。
生きるために息をするように彼女は血を求める。
それを社会が異常と断じ、矯正しようとして彼女を追い詰めた。
彼女は生まれながらに、人間とは別の本能を持ってしまった者だと死柄木は理解した。
どうしようもなくこちら側に落ちてしまった人間。
社会の枠組みからはみ出し、行き場を失った迷子。
(……ここで俺が優しく同情して『大変だったな』なんて言ってみろ。先生の奴、またニヤニヤしながら『弔は優しいねぇ』とか言って、面倒な『お友達ごっこ』の課題を増やしてくるに決まってる)
先生からの「教育」という名のストレスから逃れるため、死柄木は努めて冷淡な態度を装った。
彼は首をガリガリと掻きながら、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「……あー、うるせぇ。お前の自分語りは聞き飽きた」
「えぇ……ひどい」
「つまり、お前は生まれたままの自分として生きていたいってことだな」
死柄木はグラスの氷を指で弾いた。
「だったらヴィランになればいい。ヴィランっていうレッテルで全てが片付くから、ある意味シンプルだ。お前に『普通』を押し付ける奴はいない」
「……」
トガが顔を上げる。
死柄木は彼女を「可哀想な患者」とは見なかった。
「狂っている」とも言わなかった。
ただ、「生きるためにそうするしかなかったなら、勝手にすればいい」という、突き放したようでいて、彼女の存在を丸ごと肯定するような視線だった。
「……お前のそのイカれた性癖も、ここでは誰も矯正しねぇよ。好きに生きればいい」
死柄木は視線を逸らし、ボソリと付け加えた。
「……ただし、俺のゲームの邪魔だけはするなよ……数合わせくらいにはしてやる」
「……ふふっ」
トガの顔が、パァッと明るくなった。
彼女には伝わったのだ。
死柄木のその言葉が、正しい治療よりも遥かに温かい、「同じ側」の人間からの不器用な歓迎であることが。
「弔くん、優しいですね」
「あ? ぶっ殺すぞ」
「ふふふ……いいですよ、数合わせ。なってあげます」
トガは嬉しそうに立ち上がり、スマホの画面を死柄木に見せた。
「じゃあ弔くん! 私、この子を追いかけ回してもいいですか?」
画面に映っていたのは保須市のニュース映像の端に見切れていた、緑谷出久の姿だった。
ボロボロになりながらも、必死の形相で戦っていた少年。
「ステイン様は偽物だったけど……この緑色の男の子は『本物』でした。血まみれになっても綺麗で……私、この子に会いたい。この子をツンツンしたいんです」
難羽のような「完成された大人」ではない。
未熟で、傷だらけで、必死に足掻いている少年。
死柄木は画面を一瞥し、心底嫌そうに顔を歪めた。
「……また微妙に因縁がある奴かよ」
USJで突撃してきたガキ。
死柄木にとっては目障りな存在だが、トガがそれを「好き」だと言うなら止める理由はない。
彼女が彼女らしくあるための標的なら、好きにさせればいい。
「……チッ、勝手にしろ……そいつの血を吸おうが何しようが、俺は知らねぇからな」
「やったぁ! ありがとうございます、弔くん!」
トガは満面の笑みを浮かべ、跳ねるようにカウンターを回った。
「私、トガヒミコです! ……ここなら、息がしやすそうです!」
死柄木はフンと鼻を鳴らし、再び首を掻き始めた。
仲間が増えた。
社会から弾き出された、どうしようもないバグ。
だが、だからこそ死柄木にとっては捨て駒にはできない、同じ痛みを持つ共犯者だった。
(……まあ、少しは賑やかになるか)
死柄木弔はそんな本心を誰にも悟られないよう、深く深く心の奥に隠した。
「つーか、なんで制服着てんだ? お前もう高校生じゃねぇだろ」
「なんでって、カァイイでしょう?」
「…………」