保須市での騒乱から数日が過ぎた、昼下がり。
路地裏の雑居ビルにあるグラントリノの事務所には重苦しい沈黙が漂っていた。
部屋の主であるグラントリノは愛用の黄色いケープを椅子に掛け、目の前のソファに座る人物をまるで未確認生物でも見るような目で見つめていた。
そこにいるのは20代半ばに見える青年だ。
黒い革のジャケットを着こなし、肌には若々しい張りがある。
しかしサングラスの奥、銀色の双眸に宿る光は若者のそれではない。
何十年、何百年という時間を生きた者だけが持つ、冷たく、そしてどこか倦んだ光だった。
かつての盟友であり師匠。
先代ワン・フォー・オール継承者・志村菜奈の師匠でもあった男。
難羽
その男が若返ったような、目の前の男。
そしてその男を子供にしたような、雄英学校サポート科一年、難羽輪太郎。
関係があるとしか思えなかった。
「……そんな若作りしてどうした、クソジジイ」
グラントリノはわざと粗雑な言葉を投げかけた。
目の前の男が、かつて自分たちを鍛え上げた男であることは理解している。
だが、その若返り方は異常だ。
以前会ったときは老人だった。
そして今、彼はその孫のような青年の姿をしている。
「気味が悪い。死神が若返りの泉でも見つけたか?」
難羽は小さく鼻を鳴らし、かけていた黒いサングラスをゆっくりと外し、机の上に置いた。
カツンという硬質な音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
「この身体は若作り、学生の身体はリセットで別の問題だ」
難羽は自分の滑らかな手のひらを見つめ、静かに語り始めた。
「酉野。お前も薄々は勘付いていただろう。私の肉体が、常人のそれとは異なることを」
「全身サイボーグ化しとるんじゃろう? I・アイランドの技術で」
「研究所があそこにあっただけでガイツの研究は勝手にやっていたがな……私が話しているのは、もっと根源的な……『魂の在り方』についてだ」
難羽は身を乗り出し、グラントリノの目を射抜いた。
「私の個性は『ハイブレイン』として登録されている。脳の演算能力と記憶領域を拡張する増強系……だが、実際には違う」
「……なんだと?」
「私の真の個性は——『ナンバリング』」
難羽の口から紡がれた言葉は、グラントリノの想像を遥かに超えるものだった。
「私が死ぬと意識と記憶だけが保存され、人間が近くに居る場所へランダムに飛び……そこで新たな肉体が再構成される。母体を介さず、赤ん坊として虚空から出現する。DNA配列は完全に同一。つまり私は死ぬたびに記憶を引き継ぎ、0歳から人生をやり直す。今回はアメリカの路地裏だ」
「な……!?」
グラントリノが絶句する。
それは「不老不死」などという生易しいものではない。
死の苦痛を味わい、無力な赤子に戻り、そこから再び這い上がる。
それを永遠に繰り返す呪いのような力。
「私はこの体質で超常黎明期以前……個性という概念が生まれる遥か昔から、死と再生を繰り返してきた。
何度死んだか、もう覚えていない。赤ん坊のまま死ぬこともあるからな。時代が変わるたび、私は名を変え、知識を蓄積してきた」
個性によって頭が良いというのは副次的なものだと話す難羽。
グラントリノは喉が渇くのを感じた。
目の前の男が纏うオーラの正体がようやく分かった。
彼は「長生きな老人」ではない。
「歴史そのもの」なのだ。
そしてグラントリノの脳裏に一つの疑問が浮かぶ。
15年前。
志村一家が死んだあの日、難羽もまた行方不明となっていた。
それ以前は、確かに老人の姿で共に戦っていたはずだ。
「……まさか、15年前あんたが消えたのは……」
難羽は無表情のまま、短く頷いた。
「ああ。あの日、志村一家が亡くなった日……私もまた、一度死んだのだ」
難羽の語る言葉が、真実の空白を埋めていく。
数十年前。
巨悪オール・フォー・ワンとの死闘。
ガイツへと変身した難羽解次、そして志村菜奈は命を賭して奴を一度は退けた。
だが、その代償は大きかった。
菜奈は戦闘の負荷と、その後患った原因不明の衰弱により、息子・弧太郎を残してこの世を去った。
だが、それでもまだマシと言えた。
彼女はもう会えないと思っていた弧太郎を抱きしめることが出来たのだから。
「志村の死後、私は影から志村家を見守っていた……いや、共に暮らしていたと言ってもいい」
難羽の目が、少しだけ穏やかな色を帯びた。
当時の彼は、まだ前回の肉体で生きていた。
背筋の伸びた堅気に見えない老人の見た目だ。
志村弧太郎は母の死をきっかけにヒーローに対して複雑な感情を持つようになったが、難羽に対しては「母の師匠」として一定の敬意を払っていた。
そして、その家には二人の孫がいた。
姉の華と、弟の転弧。
「転弧は……ヒーローに憧れていた」
難羽は懐かしむように語る。
無個性と診断されていた転弧。
父・弧太郎は「ヒーローなどくだらない」「無個性になれるわけがない」と厳しく接していた。
そんな家庭の中で転弧にとっての救いは、ヒーローだった祖母を知る「難羽おじいちゃん」の存在だった。
『ねえ、おじいちゃん。僕もヒーローになれるかな?』
庭の縁側で、小さな転弧が尋ねる。
難羽は彼を膝に乗せ、この時代のヒーローの話ではなく、彼がかつての人生で見た物語の中のヒーローを語って聞かせた。
「ヒーローとは色んな形があるんだ……かつて、改造手術を受けながらも人間の自由のために戦った仮面の男がいた」
『光の国から来た巨人がいた』
『鋼鉄のスーツを自ら作り上げ、神と戦った社長がいた』
個性社会の枠組みに囚われない、原初のヒーローたちの物語。
転弧はその話を目を輝かせて聞いていた。
無個性でも、悲しみを背負っていても、誰かを守るために戦う姿に彼は自身を重ねていたのだ。
「私は……今思えば油断していた」
難羽の声が沈む。
一度オールフォーワンを退けた。
殺したわけではない。
志村菜奈は亡くなった。
次代の継承者は未だ成長中だ。
次の悪意を、止められるはずもないのに。
あの日。
空は憎らしいほどに晴れていた。
お昼過ぎ。
父の弧太郎は書斎におり、母はキッチンで昼食を作っていた。
難羽も所用で家を空けていた。
ほんの数時間の不在だった。
庭では転弧と姉の華、そしてペットのコーギー犬・モンちゃんが遊んでいた。
「てんこー! こっちこっち!」
「待ってよ華ちゃん、モンちゃん!」
ボールを追いかける無邪気な笑い声。
転弧の年齢は5歳。
個性の発現時期である4歳を過ぎており、医師からは「無個性」と断言されていた。
しかし。
不意に、転弧の手に違和感が走った。
(痛い……? 痒い……?)
それは皮膚の下で何かが蠢くような不快な感覚だった。
現代の個性学において4歳を過ぎてからの発現は稀であり、ましてやこれほど急激な反応は異常だった。
適合しない個性因子が無理やり定着し、暴走を始めようとする前兆。
だが、幼い彼にそれが分かるはずもない。
「どうしたの、転弧?」
姉が心配し、モンちゃんも心配そうに鼻を寄せてくる。
転弧は痒みを抑えようと、無意識にモンちゃんの頭を撫でた。
「……大丈夫だよ、モンち——」
湿った音がした。
転弧の手が触れた瞬間、モンちゃんの毛並みが、皮膚が、肉が、砂のように崩れ落ちた。
鮮血が飛び散り、愛犬は悲鳴を上げる間もなく赤黒い肉塊へと変わった。
「え……?」
転弧は理解できなかった。
目の前の光景が信じられなかった。
ただ、手が痛い。痒い。
「きゃああああああ!!!」
華が突然の惨状を見て叫んだ。
「モンちゃん!? いやああああ!!」
「ち、違うんだ華ちゃん! 急にモンちゃんが……!」
転弧はパニックになり、助けを求めて姉に縋り付こうとした。
「助けて、華ちゃん!」
「来ないで!! ママ——!!」
華が背を向けて逃げようとしたその背中に、転弧の5本の指が触れた。
「え……?」
華の服が、肌が、乾燥した土のようにひび割れ、崩れていく。
「あ、が……てん、こ……」
姉の体は転弧の目の前で、原型を留めない塵となって崩落した。
「あ……あ……ああ……!!」
転弧は自分の手を見た。
姉と犬の残骸がこびりついている。
違う。
僕じゃない。
僕がやったんじゃない。
これは、悪い奴の仕業だ。
「ヴィランだ……!!」
幼い彼の脳は現実逃避を選んだ。
そもそも身の覚えのない力を自分のものだと理解出来るはずもない。
庭にヴィランが侵入してきて、みんなを殺したんだ。
パパとママに知らせなきゃ。助けてもらわなきゃ。
転弧は泣き叫びながら、家の中へと走った。
「パパ!! ママ!! 助けて!!」
転弧はリビングへと続く掃き出し窓に向かった。
恐怖と混乱で視界が涙で滲んでいる。
ただ、安心できる両親の腕の中へ逃げ込みたかった。
「転弧!? 何事だ!!」
騒ぎを聞きつけた父の弧太郎が書斎から飛び出してきた。
庭の惨状が目に入ったのか、父の顔が驚愕に歪む。
「パパ!! ヴィランが!! 華ちゃんが!!」
転弧は父に向かって手を伸ばした。
その前に立ちはだかるガラス戸に彼の手が触れる。
ガラスに亀裂が走る。
それだけではない。
サッシが、壁が、柱が。
転弧が触れた一点から、波紋のように「崩壊」が伝播していく。
「なっ……!?」
弧太郎が目を見開く。
家が、軋む。
強固なはずの柱が虫に食われたようにスカスカになり、屋根の重みを支えきれなくなる。
「パパ……?」
転弧が家の中へ踏み込もうとした瞬間床が抜けた。
同時に、天井が崩落する。
「転弧、逃げろ!!」
それが父の最期の言葉だった。
瓦礫の雨がリビングにいた父と、キッチンで家が軋む音を聞いていた母を飲み込んだ。
一瞬だった。
轟音と土煙が舞い上がり、志村家だったものは巨大な瓦礫の山へと変わった。
静寂が訪れる。
「パ……パ……?」
瓦礫の隙間から奇跡的に無傷で這い出した転弧は、呆然と立ち尽くした。
目の前には、潰れた家。
隙間から見える、父の愛用していた万年筆と、母の買い物袋。
そして、赤黒い血だまり。
誰もいない。
モンちゃんも、華ちゃんも、パパも、ママも。
みんな、いなくなった。
そして、転弧は気づいてしまった。
自分の手が触れたものが、すべて壊れたことに。
ヴィランなんていなかった。
壊したのは、殺したのは、自分だったのだと。
「あ……あああああ……」
喉の奥から言葉にならない音が漏れる。
痒い。
手が痒い。
心が痒い。
「うああああああああああああああああああああ!!!」
絶望の絶叫が晴れ渡る空に吸い込まれていった。
転弧は頭を掻きむしりながら、裸足のまま町へと走り出した。
誰もいない場所へ。
自分がこれ以上、何も壊さない場所へ。
難羽の話が途切れた。
グラントリノの事務所には重苦しい沈黙だけが横たわっていた。
グラントリノは喉がカラカラに乾いているのを感じたが、茶を飲む気にもなれなかった。
想像を絶する地獄。
志村菜奈が命を賭して守ろうとした孫が、自身の個性で家族を皆殺しにしたという事実。
否、事故だ。
子どもの個性で事故が起こる事例はある。
だが、それでも。
あまりに唐突で、あまりに救いがない。
「……しかし、納得がいかん」
グラントリノが絞り出すように問う。
「あの子は無個性だったはずじゃ。それが、それほど強力で、制御不能な個性が突然発現するなど……」
難羽は頷き、冷徹な推論を口にした。
そこには感情を押し殺そうとしても溢れる怒りが込められていた。
「ああ。……自然発生ではない」
難羽は断言した。
「適合しない因子が馴染むまでのタイムラグ。触れた瞬間に発動する殺傷能力。そしてそのタイミングの良さ、いや、悪さ……あれは死柄木全、オールフォーワンによって植え付けられた個性だ」
「なん……だと……!?」
「奴は菜奈の孫である転弧を見つけ出し、あえて『崩壊』という破滅的な個性を与えたのだ。家族を殺させ、絶望させ、社会から孤立させるために。そして自分の手駒として——『死柄木弔』として完成させるために」
グラントリノは戦慄した。
ただ殺すのではない。
それはあまりにも悪趣味で、あまりにも完璧な復讐のシナリオだった。