都内某所。
表向きは巨大複合企業ムゲンバンダイの所有施設となっているビルのさらに地下深く。
一般のフロアプランには存在しない分厚いコンクリートと最新鋭の防音材で囲まれた射撃訓練場に、乾いた破裂音が反響していた。
空気を切り裂く衝撃波が、射出地点から数十メートル先の標的へと一直線に伸びる。
厚さ数センチの鋼鉄板でできた人型の的はそのど真ん中——心臓に当たる部分を完璧に円形に抉り取られ、衝撃で大きく揺れていた。
「……ふぅ」
筒美火伊那——プロヒーロー『レディ・ナガン』は、硝煙の匂いと共に小さく息を吐いた。
彼女の右肘から先は、無機質で重厚な二色の金属パーツで構成された大型のスナイパーライフルへと変形している。
自身の個性『ライフル』。
射程、威力、精度の全てにおいて、現代ヒーロー社会でもトップクラスに位置する凶悪な生体兵器だ。
彼女は現在、表向きはフリーランスのプロヒーローとして活動している。
公安委員会の元暗部だった彼女を深淵から引き上げ、新たな居場所を与えてくれた男——難羽輪太郎という新しい飼い主への義理を果たすかのように、彼女は淡々と依頼をこなしていた。
だが現場復帰を果たした彼女には、一つだけ致命的な悩みがあった。
それは彼女の個性が「強すぎる」ことだ。
本来長距離からの要人暗殺や、強固な装甲を持つヴィランの殲滅に特化して鍛え上げられた彼女の弾丸は、どれほど手加減しようとも人体に当たれば四肢を容易く吹き飛ばしてしまう。
殺傷を禁じられ、市街地での捕縛を前提とする通常のヒーロー活動においてその過剰な火力は重すぎる枷となっていた。
「当たれば死ぬ」という前提がある以上、足を撃ち抜くことすら躊躇われるのだ。
「血生臭いのは人気ないからな……」
変形を解き、元の美しい右腕に戻しながら筒美は小さく舌打ちをした。
平和な社会で力を持て余す兵器の憂鬱。
そんな贅沢な悩みを断ち切るように、背後の分厚い防音扉がプシューという排気音と共に開いた。
「よぉ、姐さん! 調子はどうだ? 最高か? 最悪か!?」
騒々しい声と共に現れたのは、全身を黒とグレーのタイツで包んだ男だった。
分倍河原仁、活動名『トゥワイス』。
彼は独特のハイテンションと相反する二つの言葉を同時に口走る奇癖を全開にしながら、両手に抱えたとぐろを巻くベルト状の物体を見せつけてきた。
「お疲れ、仁……例のブツ、できてるかい?」
筒美が振り返り、少しだけ口角を上げる。
「おうよ! 俺の毛根が死滅するまで増やしてやったぜ! ……いや、俺の髪じゃねぇけどな! そもそもタイツ被ってっから分かんねぇし!」
一人でボケて一人でツッコミを入れるトゥワイスの手から、筒美はそのベルトを受け取った。
それは無数の弾丸が連なった弾帯だった。
鈍く光るその弾丸たちは筒美自身の髪の毛——彼女の個性によってエポキシパテのように硬化・成形された弾丸——をオリジナルとして、トゥワイスの個性『二倍』によって複製されたものだ。
本来彼が弾丸を増やす場合は3つまでが限界だが、あらかじめ弾帯としてオリジナルを作っておけば、2倍はそれら全ての弾丸を増やす。
「助かるよ……アンタの個性で作ったコピーは、オリジナルより耐久性が劣るからね」
筒美は弾帯から弾丸を一つ指先で摘み上げ、まじまじと見つめた。
見た目は彼女が生成した本物の弾丸と全く同じ。
硬度も、重量も完璧にコピーされている。
だがトゥワイスの個性で作られた複製体には、ある決定的な欠点があった。
それは「一定のダメージを受けると、泥のように崩れ去り消滅する」という特性だ。
骨折に相当するダメージを与えられればコピーの人間も、コピーの物体も、あっけなく泥に還る。
筒美はこの「脆さ」を逆手に取った。
彼女の圧倒的な射出力で撃ち出されたオリジナル弾丸は、鋼鉄だろうと人体だろうと貫通してしまう。
しかしトゥワイス製のコピー弾丸であれば、着弾の瞬間に発生する凄まじい衝撃によって、対象を貫通する前に弾丸そのものが泥となって砕け散る。
つまり相手の命を奪わず、着弾の衝撃だけで対象を気絶させる、特製の
「威力の調整が難しいアタシにとって、アンタの『脆い二倍』は最高のセーフティさ。これなら街中でヴィランの胴体を狙っても、骨を折るくらいで済む」
筒美は弾丸を自身の髪へと戻すように吸収させると、トゥワイスに向かってウインクをした。
「へへっ、姐さんの役に立てて嬉しいぜ! ……まぁ、ただの脆いゴミみたいな能力だと思ってたけどな! 俺なんかがヒーローのサポートできるなんて信じらんねぇよ!」
トゥワイスは照れ隠しに頭を掻きながら、床に落ちていた空の弾倉や薬莢を素早い手つきで回収していく。
かつて個性の暴走によって自分自身を見失い、社会の底辺でヴィランとして燻っていた男。
そして国家の裏の顔として活動し、完全な闇に落ちる寸前だった女。
そんな二人が今明るい蛍光灯の下で、互いの個性の欠点を補い合いながら「誰も殺さないための弾丸」を作っている。
その奇妙な共犯関係は冷たいコンクリートに囲まれた地下室に、どこか温かい空気をもたらしていた。
「仁の個性はゴミなんかじゃないさ。使い方次第で、アタシみたいな人殺しの個性も、誰かを救う手に変えられるんだからね」
筒美は優しくそう言うと、射撃用のイヤーマフを外した。
誰かを救う手。
それを自分に教えてくれたのは、他でもないあの黄金の死神だった。
筒美の視線が自身の右手へと落ちる。
硝煙の匂いがふと、17年前の「あの日」の記憶を呼び覚ましていた。
彼女がまだ18歳で、希望と絶望の狭間で震えていたあの夜の記憶を。
(……思えば、あの日からだね。アタシの本当の人生が始まったのは)
筒美の脳裏に、夜風の冷たさと、黄金の輝きが蘇る。
17年前。
筒美火伊那がまだ18歳だった頃。
夜の冷たい風が吹き抜ける、都心の高層ビルの屋上。
ネオンの海を見下ろす暗がりの中で、彼女は自身の右腕を巨大なライフルへと変形させ、スコープ越しに「標的」を覗き込んでいた。
筒美は中学生の時点でその個性の有用性を公安委員会に見出され、スカウトされた。
『超常黎明期より続く、社会の秩序を守るための尊い使命』
『平和という美しい幻影を維持するための必要悪』
大人たちからそう教え込まれ、彼女はそれを信じた。
純粋に国のため、大義のために戦う立派なヒーローになれるのだと信じて、過酷な訓練に耐えてきた。
そして今日、彼女に初めての「実戦」が下された。
標的は世間では名の知れた中堅のプロヒーロー。
彼は自身のパトロール区域にいる特定のヴィラングループを意図的に見逃し、共謀して裏金を得ていた。
ヒーローとしてあるまじき汚点。
だが公安が筒美に下した指令は「逮捕」ではなく「暗殺」だった。
スキャンダルが表沙汰になればヒーロー社会への信頼が失墜する。
だからヴィランとの抗争を装って、闇から闇へ葬り去れ、と。
(……アタシが、人を、殺す?)
筒美の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。
スコープを覗く右目が、そして引き金にかかる指が、小刻みに震えていた。
距離、およそ3キロメートル。
それは彼女の狙撃の限界距離に近い。
これほど極端に距離を取ったのは彼女の技術への自信からではない。
「死を感じたくない」という、初めての殺人を前にした少女の切実な逃避だったのだ。
3キロも離れていれば標的はただの点に見えるはずだ。
血の匂いも、命が消える瞬間の熱も、ここまでは届かない。
まるでテレビゲームの的を撃つように、引き金を引けばすべてが終わる。
そうやって自分の心を誤魔化したかった。
だがそれは致命的な間違いだったと、スコープを覗き込んだ瞬間に彼女は悟った。
彼女の個性はライフルだけではない。
長距離狙撃を可能にするための「異常に強化された視力と知覚」こそがその真髄だ。
3キロという途方もない距離の壁を越えて、彼女の目は標的の姿を克明に捉えてしまった。
ヴィランと談合し、下劣な笑みを浮かべるプロヒーローの顔。
タバコの煙を吐き出す、その首筋の脈動。
聞こえるはずのない彼らの微かな呼吸音や、卑屈な笑い声さえもが彼女の脳内に直接響いてくるような錯覚に陥った。
(生きてる……あの人も、人間だ……!)
いくら相手が腐敗したクズであろうと、彼には体温があり、呼吸をしている。
自分は今から、その命のスイッチを強制的に切るのだ。
正義のヒーローになるはずだった自分が、ただの人殺しの道具として。
(嫌だ……っ! 撃ちたくない……!)
スコープ越しの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
だが公安に「正義」を刷り込まれた彼女の身体は、意志とは裏腹に正確な射撃姿勢を崩さない。
殺さなくてはいけない。
それが平和を守ることなのだと、自分に言い聞かせる。
自身が「命を奪うバケモノ」に成り下がる瞬間への恐怖が、18歳の少女の心を限界まで軋ませていた。
「あああああぁぁぁぁっ!!」
自分自身の恐怖と絶望を振り払うような絶叫と共に、筒美は引き金を引いた。
凄まじい反動と共に彼女の髪を編み込んだ特殊弾丸が、マッハの速度で夜の闇を切り裂いて飛んでいく。
初めての殺しに対する激しい動揺。
それでも血を吐くような訓練の賜物か、放たれた弾丸は寸分の狂いもなく、3キロ先の標的の心臓へと一直線に向かっていた。
筒美の強化された視力は自らが放った死の弾丸が標的に到達するまでのコンマ数秒を、スローモーションのように捉えていた。
当たる。
これでアタシは、人殺しになる——。
そう絶望に目を瞑りかけた、その刹那だった。
スコープの視界の中で信じられない光景が起きた。
標的の心臓を穿つ直前。
どこからともなく現れた黄金の骸骨のような装甲を纏った異形が、筒美の放った超音速の弾丸を、素手で鷲掴みにしたのだ。
「え……?」
筒美の思考が停止する。
あり得ない。
いくらなんでも、対物ライフル級の弾丸を素手で受け止めるなど。
だが、驚愕はそれだけでは終わらなかった。
黄金の怪人——ガイツは、筒美の弾丸を握り込んだままの右手で、標的である汚職ヒーローの顔面を強烈に殴り飛ばしたのだ。
さらに周囲にいたヴィランたちも瞬く間に蹴散らし、コンクリートの壁に沈めていく。
(何が……起きてる?)
標的は死んでいない。
気絶しているだけだ。
弾丸は、止められた。
アタシは、人を殺さずに済んだのだ。
「——哀れな」
ふと。
背後から低く、重圧のある声が響いた。
筒美は全身の毛を逆立て、反射的にライフルを背後へ向けた。
「なっ……!?」
息を呑む。
そこにいたのはたった今、3キロ先の標的を殴り飛ばしていたはずの「黄金の死神」だった。
空間跳躍?
理解が追いつかない。
だが圧倒的な死の気配と、それ以上の「得体の知れない神々しさ」が筒美を金縛りにした。
『応答しろ! 標的の反応が——』
耳元のインカムから公安のオペレーターの焦った声が漏れる。
ガイツはゆっくりと手を伸ばし、筒美の耳からインカムをもぎ取った。
ガイツはインカムを握りつぶし、粉々に破壊した。
筒美はただ呆然と彼を見上げていた。
公安の命令に背いた。
標的を仕留め損なった。
だが彼女の心を満たしていたのは、任務失敗の恐怖よりも「殺さずに済んだ」という圧倒的な安堵感だった。
もし、あのまま弾丸が命中していたら。
自分は完全に心が壊れていたに違いない。
ガイツはいつの間にか手にしていたアタッシュケース型の装置を地面に置き、スイッチを押した。
すると何もないビルの屋上の空間が歪み、漆黒の扉がズズズと現れた。
「……アンタ、何者なの」
筒美は震える唇で問う。
ライフルを構える手はガタガタと震えが止まらない。
目の前の存在が恐ろしいからではない。
先ほどの自分の殺意と、止められなかったらどうなっていたのかという、取り返しのつかない現実への恐怖の余韻だ。
ガイツは答えなかった。
代わりに彼は武骨な金色の腕を伸ばし、筒美の震える手を力強く掴んだ。
金属の冷たさと、不思議な温かさ。
それは血塗られた彼女の運命を、最も残酷な一歩を踏み出す直前で強引に引き剥がすような、絶対的な引力だった。
「自己犠牲という手段は自分で選ぶものだ。他者に強要されるものではない」
ガイツは筒美の手を引いたまま、漆黒の扉へと歩みを進める。
筒美は抵抗しなかった。
いや、抵抗できなかった。
この手を離せば、再びあの息が詰まるような血の匂いのする世界へ戻らなければならないと分かっていたから。
二人が扉の中へと消えた直後。
空間の歪みはスッと収束し、黒い扉は最初からそこになかったかのように、夜の屋上から完全に消え去った。
これが、17年前の夜の出来事。
国に飼われ、暗殺者となるはずだった筒美火伊那。
彼女の運命はあの夜、強引にねじ曲げられた。
今も彼女は救ってくれた老人を敬い、お爺様と呼んでいる。