バグのヒーローアルカディア   作:胡麻蝉あぶら

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89話 次は誰だ

 

オールマイトは天に突き上げていた左腕をゆっくりと下ろし、ふらりと大きくよろめいた。

 

限界をとうの昔に超えていた肉体が、張り詰めていた緊張の糸が切れた瞬間に一気に悲鳴を上げたのだ。

視界が急速にブラックアウトし、マッスルフォームを維持するエネルギーが霧散していく。

 

 

「……よくやった。もう、休め」

 

 

タイミングを見計らったかのように、サイレンの音を響かせて一台の救急車が猛スピードで瓦礫の隙間を縫って近づき、二人のすぐ傍に停車した。

中から飛び出してきたのは、白衣を着た救急隊員や医師たちだ。

 

だが、彼らは本物の医療従事者ではない。

難羽の指示で待機していたショッカー救助隊の変装したメンバーたちであった。

 

彼らが用意したこの救急車は、警察や消防の通信網から完全に独立した偽物である。

 

その目的はただ一つ。

限界を超えて戦い抜いたオールマイトを、マスコミや一般人の目が届く前にこの場から最速で引き離し、彼にマッスルフォームの維持を止めさせるためであった。

もし本物の救急車やヘリを待つこととなれば、彼は市民の目があるうちは決して変身を解こうとせず、そのままショック死しかねない。

 

 

「……八木を頼む」

 

 

難羽が、意識を失いかけているオールマイトを救急車のストレッチャーへと慎重に横たえさせる。

その瞬間、音を立てて蒸気を吹き出しながらオールマイトの巨大な筋肉が萎み、本来の痩せ細り、骨と皮だけになった痛ましい真の姿(トゥルーフォーム)が露わになった。

 

 

「ッ……!」

 

 

変装した救助隊が、そのあまりにも痛々しい傷と命の灯火が消えかかっているかのような痩せ細った肉体を目の当たりにし、一瞬だけ息を呑んで絶句した。

 

社会の平和をたった一人で背負ってきた男の本当の姿である。

彼は否定するだろうが、難羽は彼に頼り続けた人々の負債との鏡だと感じていた。

 

救助隊員はすぐに気を取り直すと、難羽の方へ向き直り、無言で深く力強い頷きを返した。

 

 

「……後の手当ては、我々にお任せを」

 

 

後部のドアが閉まり、偽の救急車はサイレンを鳴らしながら、本物の医療施設へと向かって、夜の闇の中を走り去っていった。

 

 

「……さて」

 

 

遠ざかるサイレンの音を背中で聞きながら。

仮面アクターはゆっくりと、ひどく重い足取りで振り返った。

 

一歩踏み出すたびに、彼の右脚から嫌な金属音が響く。

 

先ほどオールフォーワンに必殺のライダーキックを叩き込んだ際、相手の衝撃反転を無理やりねじ伏せた代償として、彼の右脚の人工骨格は内部で完全に砕け散っていたのだ。

修復を行うにはエネルギーが足りない。

 

故に破損した状態で目的の場所に向かっていた。

 

足を引きずりながら仮面アクターが向かったのは、深く抉れたクレーターの中心。

オールマイトの最後の一撃を顔面にまともに喰らい、動かなくなった魔王──オールフォーワンが横たわる場所であった。

 

 

「…………」

 

 

仮面アクターは仰向けに倒れ、顔面が陥没したオール・フォー・ワンの傍らに立ち止まった。

 

死んではいない。

 

この魔王の異常な生命力と超再生の個性をもってすれば、これほどの致命傷を負っても、いずれ必ず息を吹き返す。

タルタロスにブチ込んだところでいつか必ず脱獄し、再び世界を地獄に突き落とすだろう。

 

だからこそ、この手で完全に終わらせる必要がある。

 

仮面アクターは倒れ伏す巨悪に向かって、残された自身の左腕を静かに向けた。

 

 

『レーザー・ファイアフライ』

 

 

左腕の装甲がスライドして複雑に変形し、一匹の(ほたる)を模したような、流線型の美しいガントレットが形成される。

その先端にある発射口からエメラルドグリーンの光が激しく明滅し、収束していく。

 

すべてを分子レベルで消し飛ばすレーザー砲。

 

そのチャージ音が響く中、仮面アクターはマスクの奥の複眼でオール・フォー・ワンの崩れた顔を見下ろし、最後に一つだけ問いかけた。

 

 

「……お前に一つだけ聞いておこう」

 

 

仮面アクターの低く、冷たい声が夜風に溶ける。

 

 

 

「今から百年ほど前……赤と銀のスーツを着て、人々のために戦っていたヒーローの少女を……お前は無惨に殺した……覚えているか?」

 

 

 

それは超常黎明期。

 

難羽が愛し、背中を預け、そして命を散らした大切な相棒。

 

 

今、自身の傍でアットというアンドロイドとして眠り続けている、あの勇敢だった少女の魂に対する、彼なりの百年の怨念の精算であった。

 

 

「…………」

 

 

オールフォーワンは陥没した顔面から血を流し、虫の息でありながらも。

仮面アクターのその問いかけに対しわずかに首をひねり、残された口を歪めて、ひどく不思議そうにこう返したのだ。

 

 

 

 

 

「……どれだい?」

 

 

 

 

 

レーザーをチャージしていた仮面アクターの左腕が、微かに震えた。

 

 

 

「赤と銀のスーツの、少女……? ふふっ……すまないね。僕が殺した正義の味方はあまりにも多すぎて……いちいち、覚えていないんだよ」

 

 

 

「…………そうか」

 

 

 

銃口から、限界までチャージされたエメラルドグリーンの閃光が一直線に放たれた。

 

それは音もなくオールフォーワンの残骸を包み込み、細胞のひとかけら、骨の髄、そして超再生の因子すらも一切の抵抗を許さずに分子レベルで分解し、消滅させていく。

 

閃光が収まった後。

 

クレーターの中心には何もない。

血痕すらも残っていない。

 

 

まさに塵一つ残さず消し飛んだとしか言いようのない、完全なる空間の空白だけがそこに残されていた。

 

 

「…………」

 

 

難羽は静かに腕を下ろした。

 

 

ワン・フォー・オールは、オール・フォー・ワンの弟が生み出し、何代にも渡って受け継がれてきた「因縁の力」である。

だからこそ、オール・フォー・ワンにとってオールマイトは執着すべき宿敵であり、神話のような闘争の相手であった。

 

彼らは互いにとって、絶対的な因縁の存在だったのだ。

 

 

しかし。

 

 

難羽や彼の相棒だったあの少女は違う。

 

 

オールフォーワンにとって、難羽のような復讐者や、人々を守ろうとして犠牲になった名もなきヒーローなど、この長い歴史の中で星の数ほどありふれた道端の石ころに過ぎなかったのだ。

 

 

踏み潰したことすら覚えていない。

 

 

それがあの魔王にとっての彼らの価値であった。

 

 

決着はついた。

 

百年の復讐は、今ここで完全に果たされた。

 

 

しかし、夜明けの風に吹かれながら立ち尽くす難羽の心の中には、歓喜も、達成感も湧き上がってはこなかった。

 

ただ、ぽっかりと胸に穴が空いたような、果てしない虚しさのようなものが確かに残っただけだ。

 

 

─────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神野の悪夢から数日が経過した、ある日の午後。

 

日本中の、いや、世界中のメディアが固唾を呑んで見守る中、オールマイトの緊急記者会見が開かれた。

 

 

無数のカメラのフラッシュが瞬く中、会見場のステージに姿を現したその人物を見て、集まった記者たちは一様に息を呑み、絶句した。

 

 

「……本日はお集まりいただき、感謝する」

 

 

マイクの前に立ったのは、はち切れんばかりの筋肉と黄金のオーラを纏った無敵のヒーローではない。

 

 

頬がこけ、眼窩が落ち窪み、ダボダボのスーツを着た、痛ましいほどに痩せ細った金髪の男──八木俊典の姿であった。

 

 

「あ、あれがオールマイト……? 嘘だろ……」

 

「あの姿は、一体……」

 

 

会場がどよめき、不安と戸惑いの声が波のように広がる。

 

自身が紛れもなくオールマイト本人であることを証明するため、八木はフッと息を吸い込み、全身に力を込めた。

一瞬だけ、見慣れた筋骨隆々の姿(マッスルフォーム)へと変身を遂げる。

だが、その限界を超えた肉体は、もはや一秒の維持すらも許してはくれなかった。

 

 

「グハッ……!!」

 

 

変身は瞬時に解け、八木は咳き込みながら口から血を吐き出した。

 

 

「キャアッ!」

 

「だ、大丈夫ですかオールマイト!!」

 

 

悲鳴が上がり、フラッシュが激しく焚かれる。

 

しかし。

口元の血をハンカチで拭った彼の顔には、微塵の悲壮感もなかった。

 

それどころか、彼はいつものように──いや、いつものような無理をして作ったものではない、心の底からの穏やかな笑顔を浮かべていたのだ。

 

 

「……見ての通りだ。私は神野での戦いで、私の中に残っていた力のすべてを、完全に使い果たした」

 

 

静まり返る会場に、八木の声がマイクを通して真っ直ぐに響き渡る。

 

 

 

「よって、私、オールマイトは……本日をもって、プロヒーローを『引退』する」

 

 

 

決定的な引退宣言。

日本社会の平和を支えてきた絶対的な大黒柱が、今ここに折れた。

 

通常であればこの絶望的な宣言は、社会に未曾有のパニックと暗黒時代の到来を予感させるはずである。

記者たちの顔にも、隠しきれない不安の影が落ちていた。

 

だが、八木は真っ直ぐに前を見据え、力強く首を振った。

 

 

「案ずることはない! 私が引退したからといって、平和の終わりが訪れるわけではないのだから!」

 

 

八木の脳裏に、あの夜の光景が蘇る。

自分の背中を絶対に守ると言ってくれた漆黒の戦士の姿が。

 

これまでの彼は「平和の象徴」として、たった一人ですべてを背負い込まなければならないという呪縛に囚われていた。

自分がいなくなれば社会は崩壊すると、恐怖に震えながら走り続けてきた。

 

だが、仮面アクターとの最後の戦いを通して。

彼は久々に、仲間がいることの喜びと信頼を思い出したのだ。

 

自分一人でなくてもいい。

背中を預け、共に戦ってくれる者たちが、この世界には確かにいるのだと。

 

 

「……一人の人間がすべてを背負い、平和の象徴として君臨する時代は、ここで終わる」

 

 

八木はカメラの向こう側にいるすべての人間たちへ向けて、語りかけた。

 

 

「これからは、誰もが誰かの背中を支え合い、みんなで平和を創り、守っていく時代だ……私も、私が持っていたバトンを次の世代へと渡す日がやってきた……ただそれだけのことなのだよ」

 

 

そして、八木は痩せ細った腕を前に突き出し、画面の向こうの『全ての人々』を指差した。

 

 

 

 

「──次は、君たちだ(One for all, All for one)

 

 

 

 

それは、後継者である緑谷出久一人に向けた言葉ではない。

 

プロヒーロー、警察、そしてテレビを見ているすべての市民、一人一人に向けた、祈りのようなメッセージであった。

 

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

 

張り詰めていた会場の空気が、温かい波に飲まれた。

最前列でペンを握っていた記者の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちた。

 

それは一人、二人ではない。

会場中の大人たちが、カメラを回しながら、メモを取りながら、子供のように声を上げて泣き始めたのだ。

 

それはこれからやってくる、オールマイト不在の闇の時代に対する絶望の涙ではなかった。

 

満身創痍になってもなお、人々のために戦い続けてくれたこの男に対する。

 

 

『今まで、本当にありがとう。お疲れ様でした』という、心の底からの感謝と感動の涙であった。

 

 

「……ハッハッハ! まあ、引退したからといって、私が死ぬわけじゃないからね!」

 

 

すすり泣く記者たちを前に、八木は照れ臭そうに頭を掻き、いつものように明るく豪快に笑ってみせた。

 

 

「これからは一人の教育者として……君たちの素晴らしい活躍を、一番後ろから、特等席で見守らせてもらうよ!」

 

 

痩せ細り、力は失われた。

 

 

それでも彼は、紛れもなく『オールマイト』であった。

 

 

重すぎる責任から解放された平和の象徴は、こうして人々の温かい涙と拍手に包まれながら、かつてないほど穏やかに、その輝かしいヒーロー人生に幕を下ろすことができたのである。

 

─────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……先生が……死んだ?」

 

 

 

神野区の決戦の場から遠く離れた、薄暗い廃屋の一室。

黒霧のワープゲートによって逃走し、息を潜めていた死柄木は、報告に上がった黒霧の言葉を反芻しポツリと呟いた。

 

その声のトーンは、異常なほどに感情が抜け落ちていた。

 

 

「はい……あの後、神野で……仮面アクターによって、完全に殺害されたとのことです」

 

 

黒霧が、無念さを押し殺したような声で事実を告げる。

 

 

「…………」

 

 

死柄木の血走った赤い瞳が、限界まで大きく見開かれた。

ポリポリと自身の首を掻きむしっていた手が、ピタリと止まる。

 

彼にとって、オールフォーワンと共に歩んできたこの15年間。

 

 

それは思い出すのもおぞましい、文字通りの地獄であった。

 

 

すべては、あの日から始まった。

 

家族を殺し、泣き崩れていた少年——志村転弧の前に現れた絶対悪。

オールフォーワンは、転弧を救おうとした難羽解次(ガイツ)を容赦無く惨殺し、そのまま幼い彼を誘拐した。

 

彼の目的はただ一つ。

平和の象徴、その師匠の孫である転弧の心を徹底的に破壊し、彼を完全な悪に染め上げること。

 

そのために、オールフォーワンは転弧を恐怖と暴力で支配した。

 

やりたくもない殺人を幾度となく強要し、その手に無実の血を吸わせた。

心を砕き、良心を焼き切るために、泣き叫ぶ彼に他者の命を奪わせ続けたのだ。

 

さらに肉体強化と称して、ドクターの怪しい手術の被検体にされ、麻酔もなしに身体を切り刻まれる激痛の夜を何度も過ごさせられた。

 

 

純粋無垢だった少年は、そうして地獄の底で『死柄木弔』というヴィランに作り変えられた。

 

 

逆らうことなど絶対に許されない、

完璧な支配と洗脳。

 

彼はオールフォーワンという巨大な手のひらの上で、血の涙を流しながら踊らされる哀れなマリオネットに過ぎなかったのだ。

 

 

それが。

 

その絶対的な支配者が、死んだ。

 

 

もう二度と、自分の前に現れることはない。

 

 

「あ……」

 

 

見開かれた死柄木の瞳から、ポロポロと、大粒の涙が溢れ出した。

それは育ての親を失った悲しみの涙では決してない。

 

 

(……終わったんだ)

 

 

彼の内側で、重く冷たい鎖が、音を立てて砕け散る感覚がした。

 

彼がこれまで犯してきた罪が消えるわけではない。

被害者たちが生き返るわけでも、彼が普通の一般人に戻れるわけでもない。

 

しかし、それでも。

彼の首に15年間も食い込んでいた、息の詰まるような重い首輪が完全に外れ落ちたのだ。

 

 

誰かの用意した盤上で、誰かのための殺しをしなくていい。

あの気味の悪い手術台で、激痛に耐える必要もない。

心の奥底に封じ込められていた、純真だった頃の志村転弧の魂が、歓喜に打ち震えていた。

 

 

(次の人生……新しい、自分……俺だけの、人生……!)

 

 

それは圧倒的な喪失感と同時に訪れた、狂おしいほどの解放の歓喜であった。

新しい人生が始められることの嬉しさが、抑えきれない涙となって、彼の頬をとめどなく伝い落ちていく。

 

 

「死柄木弔! 大丈夫ですか……!?」

 

 

黒霧がボロボロと涙を流して立ち尽くす死柄木を見て、彼が「先生の死に絶望し、悲しみに暮れている」のだと勘違いし、慌てて心配そうに駆け寄ろうとした。

 

 

「……あァ」

 

 

死柄木は溢れる涙を拭うこともせず、ゆっくりと黒霧の方へと振り返った。

 

死柄木の顔にはとめどない解放の涙が流れていた。

 

 

しかし、その口元に浮かんでいたのは、自由を喜ぶ純真な笑みではなかった。

 

 

光の当たる場所で、オールマイト(元平和の象徴)が「次は君たちだ」と宣言した、まさにその刻。

 

 

呪縛から解き放たれたはずの青年の口から、その言葉は漏れ出た。

 

 

 

 

 

 

 

「──ああ、次は僕だ」

 

 

 

 

 

 

 

他者すべてを見下し、世界を己の箱庭だと確信する、底知れぬほどに邪悪で、傲慢な魔王の笑みであった。

 

 

 

 





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