個性とは、一体何なのだろうか。
人類の八割が何らかの特異体質を持つ超人社会。
発火、凍結、巨大化、念動力といった物理法則を無視した事象から、頭部が漫画の吹き出しになる、身体がゴジラになるといったものまで、この世界には無数の個性が溢れ返っている。
しかしその圧倒的な多様性にも関わらず、個性の根本的な原理の多くは未だに完全なブラックボックスのままである。
個性の優劣を決定づける要因は何か。
遺伝の正確な法則性はあるのか。
人類史に突如として現れた起源は何なのか。
そして親の血統とは全く無関係に発現する、理不尽なまでの突然変異の原因はどこにあるのか。
かつての科学者たちはその謎を解き明かそうと躍起になった。
しかし、世代を重ねるごとに加速度的に複雑化・強大化していく個性の異常な進化スピードの前に、現代の科学は完全に白旗を揚げてしまった。
数十年前に一人の科学者が発表しようとした論文がある。
『個性終末論』
強大化し続ける個性はいずれ人間の肉体の制御を限界突破し、人類そのものを内側から破壊し尽くすという絶望的な予言。
当時の人々はそれを狂人の妄言、単なる眉唾のオカルトとして嘲笑い、排斥した。
しかし時が経つにつれて、子供たちの個性が実際に親世代では考えられないほどの威力と複雑さを持つようになっていく現実を人々は目の当たりにした。
そして彼らは無意識にある一つの決定的な防衛手段をとることを決めた。
それは思考を止めることである。
個性とはそういう不思議なものなのだという、ひどく曖昧で便利な思考停止。
人類は個性の正体という深淵を覗き込むことを恐れ、研究や解明を放棄した。
その代わりに、暴走しがちな個性を抑え込むためのサポートアイテムの開発に莫大な予算を注ぎ込み、己の個性をいかに実戦で振り回し、ヒーローになるための特訓をするかという表面的な運用にのみ膨大な時間を消費するようになったのだ。
まるで見えない爆弾の構造を理解することを諦め、ただ爆弾の威力をどうやって敵に向けるかだけを考える狂気の世界。
しかし、難羽はそうではない。
彼は何百年もの間、生命の神秘を見つめ続けてきた研究者である。
大衆が思考を放棄しようとも、彼の知的好奇心の炎が消えることは決してない。
彼にとって個性は手の届く非現実であり、その真理に自身が最も近いと自負していた。
先日生きていると知った殻木よりもである。
そんな難羽にとって、雄英高校という場所はまさに至高の環境であった。
全国から選び抜かれた強力で、複雑で、そして何より特異な個性を持つ若きサンプルたちが自ら進んで観察箱の中へ入り、その能力を惜しげもなく披露してくれるのだから。
例えば、1年A組の常闇踏陰。
彼は難羽の興味を強く惹きつける一人である。
彼の個性である黒影。
個性の出力や性質が宿主である常闇自身の精神状態や感情の起伏に影響されるというのは、一般的な個性にもよく見られる傾向だ。
しかし、黒影の特異性はそこではない。
あの黒い影は宿主である常闇の精神そのものの具現化ではなく、明確な別個の自我を有しているのだ。
常闇と会話し、時に彼に反抗し、闇の中では宿主の制御すら奪って暴走する。
まさに個性というエネルギー体そのものが人格を宿していると言える、極めて異端な現象。
この特異な個性を持つ常闇が、林間合宿においてヴィラン連合──その背後にいるオールフォーワンによってピンポイントで誘拐された件に関して。
難羽の思考回路は極めて不吉な予感警報を鳴らしていた。
もしあの他者の個性を奪い、弄る魔王が。
黒影の持つ独立した人格という性質に目をつけ、『最悪な考え』に至っていたとしたら。
結果として彼を奪還できたのは、ヒーロー社会にとって単なる一人の生徒の救出という枠を遥かに超えた、致命的な危機の回避であったと難羽は確信している。
次に、同じくA組の八百万百。
彼女の個性創造。
自身の体内の脂質を消費して、分子構造まで明確に理解・想像できるものであれば、あらゆる非生物を無から有へと創り出すことができる。
難羽の冷徹な視点から言えば。
彼女は雄英の生徒の中で最もヴィランに連れて行ってほしくない——すなわち、裏社会に渡れば世界経済が崩壊しかねない危険人物である。
彼女の知識と能力があれば、希少なレアメタルを生み出し続けることも、純金の延べ棒を山のように複製することも、高度な兵器を無尽蔵に製造することも可能だ。
もし彼女がヴィランに拉致され、自我を破壊されたままコントロールされてしまったら。
そのヴィランは文字通り無限の素材・兵器生成工場を手に入れることになる。
そんな彼女の能力の異常性と有用性は、研究者である難羽にとっても垂涎の的であった。
自身の研究室に彼女の細胞を培養し、無限の資源を生み出す部分的クローンを構築できれば非常に便利だ。
そのマッドサイエンティスト的な誘惑に駆られなかったと言えば嘘になる。
だが、流石にそれはと難羽は抑えていた。
彼は彼女が怪我をした際に出た血液から個性因子を回収するだけにとどめていた。
なお、彼女がどうしようもない悪党であれば、殺したのちにクローンを製造して箱に詰めていた。
個性を使用させるだけなら製造物の発生部分と個性の使用に必要なパーツだけでいい。
彼女の場合は脳と脂質の注入と生成物の入り口と出口となる肉体が少しあればいいだろう。
難羽はすでにその技術を持っている。
昔、離れた場所へと空間を繋ぐ扉を作ることのできる個性持ちがいた。
難羽はその男の身体から部分的に培養した肉体の一部と個性因子をケースに詰めた転移装置を数台作っている。
その装置はショッカーで現役だ。
そのヴィランも自身の身体が有効活用されているとは思わないだろう。
そして、B組の物間寧人。
彼の個性はコピー。
触れた対象の個性を三分間という制限付きで完全に模倣し、使用することができる。
彼単体の身体能力は一般人と大差なく、個性をストックしておくこともできない。
しかし、彼という存在はどんなヒーローと組み合わせても戦術の幅を無限に広げ、盤面をひっくり返すことのできる極めて優秀なジョーカーだ。
だがこの個性の真に興味深い点は、その運用方法がもたらす副作用にある。
物間は自身の個性を戦場で生かすため、常に他者の能力、弱点、そして精神状態を冷徹に観察し続けなければならない。
誰に触れ、どのタイミングで能力を引き出すのが最適解か。
結果として彼は相手の嫌がる部分や痛いところにばかり目がいくようになり、A組の華々しい活躍に対する彼の強い劣等感も合わさって、皮肉屋で人を食ったような癖のある性格が形成されてしまった。
個性そのものが脳内物質や本能に直接影響を与えているわけではない。
しかし、その個性を最も効率よく運用するための立ち回りを追求し続けた結果、持ち主の思考回路やコミュニケーションの手法が後天的に強制され、歪められていく。
物間寧人の性格は個性が人間の精神を間接的にデザインするという、極めて興味深い因果関係の証明例であると言えた。
雄英高校という箱庭には、これほどまでに刺激的なサンプルが満ち溢れている。
しかし数多いる特異な生徒たちを差し置いて、難羽が最も強い興味と疑念を抱き、鋭い観察のメスを入れている対象は他でもない。
この雄英高校の頂点に立つ、あの白い獣────根津校長であった。
個性の起源については、超常黎明期からまことしやかに囁かれている一つの仮説が存在する。
それは特殊なネズミを媒介にして世界中に未知のウイルスが蔓延し、それが人類の遺伝子を書き換えたというウイルス起源説である。
では、ネズミともクマとも犬ともつかないあの根津校長は、個性の起源となったその原初のネズミの直系の子孫なのだろうか。
難羽の出した結論は否である。
難羽は自身が長年行ってきた生体実験と裏社会の調査から、動物と個性の関係についてある明確な裏付けを得ていた。
おそらく動物の遺伝子の中にも、個性の種とも呼べる素地は存在している。
現に難羽が飼っている一匹の猫は、無機物に憑依してそれを意のままに操るという極めて強力な超常能力を有している。
しかし、その猫は自らの意志で能力を使うことはできない。
その能力は普段は深い眠りについており、トリガーの類を用いて神経系を強制的に刺激しなければ、個性を発動できない休眠状態の個性因子なのだ。
何よりその猫の体表には、幾度となくメスを入れられた不自然な手術痕が残されていた。
それは後天的に外部から別の個性因子を移植された、生きた実験体であることの何よりの証明であった。
さらに難羽がかつてその猫を保護した際、同時に捕獲した一匹の巨大な女王蜂がいる。
その蜂は人間の眼孔から侵入して寄生し、宿主の脳神経をジャックして操る。
さらに自身の手下である他の蜂の群れを統率して攻撃を仕掛けるという悪夢のような生態を持っていた。
ご丁寧なことに、その蜂は体内に取り込んだ特殊な薬液を鋭い針を通して敵の体内に直接注入する機能まで備わっていた。
動物の本来の生態系から完全に逸脱した兵器としての完成度の高さ。
難羽は自らの研究所でこの二匹の動物を解析した結果、それらが自然発生したものではないと断定している。
これらは十中八九、オール・フォー・ワンの狂信的な協力者である殻木の手によって生み出された、人工的な動物の個性持ちである。
翻って、根津校長はどうだろうか。
難羽は雄英高校に潜入して以来、密かに、しかし徹底的に彼の生態と肉体を観察し続けてきた。
確かに根津の身体には、かつて人間に非道な実験を繰り返されたことを示す痛ましい傷跡が無数に残されている。
しかし、難羽の飼い猫が持っていたような個性を強引に移植・定着させるための特殊な手術痕の類は、彼の身体のどこを探しても一切見つからなかったのだ。
つまり、根津校長は誰かに造られた実験体ではない。
極めて稀有な、純度百パーセントの天然の個性持ちの動物である。
しかし、ここで一つの巨大な矛盾が立ち塞がる。
もし動物にも自然に個性が発現し得るのなら、なぜ根津校長以外に個性が発現した動物の存在が公的に確認されていないのか。
人類の八割が個性に目覚めているこの世界で、なぜ動物の個性持ちは彼一匹だけという異常な確率の偏りが起きているのか。
難羽は日々の観察と思考の果てに、一つの壮大な仮説段階の答えに辿り着いていた。
例えば、今まさに難羽の視界の端をA組の生徒である瀬呂範太が歩いていく。
彼は両肘に備わった器官から、セロハンテープに酷似した帯状の物質を射出する能力を持っている。
人間とバナナは、その遺伝子構造の約半分を共通して持っているという有名な生物学の話がある。
地球上の生命はすべて、一つの祖先から枝分かれして進化したものだ。
しかし、生命の祖へと系譜を遡っていったとして、その進化の過程のどこかに文房具のセロハンテープの遺伝子が混ざる余地などあるだろうか。
答えは当然、否である。
さらに言えば、個性の種類にはエンジンや漫画の吹き出しなど、明らかに人類の歴史の中で生み出された被造物や抽象的な概念そのものを具現化するような能力すら存在する。
この事実が示している決定的な真理。
それは個性が親から子へと継承している因子は、決して生物学的なDNA配列に由来するものではないということだ。
難羽が辿り着いた究極の答え。
それは、個性とは人類の歴史と観測によって蓄積された
人間が文明を築き、道具を創り、概念を生み出した。
その強烈な集合的無意識や個人の鮮烈な記憶、あるいは願望といった情報が、未知のエネルギー変換を経て肉体に定着したものが個性である。
個性というエネルギー体に、持ち主の人格や意志が宿ることすらあるのはそのためだ。
根本が生物の遺伝子ではなく記憶と概念の組み合わせに由来するがゆえに、突然変異として親の系統とは全く異なる性質の個性が突如として発現することがあるのだ。
人間が突然変異でバナナを産み落とすことが絶対にないという生物学的限界の視点からも、個性が純粋な生物的要因で構築されていないことは明白であった。
そしてこの仮説が正しいとするならば。
この記憶と概念の継承が成立するためには、その膨大で複雑な情報エネルギーを受け止め、解釈し、肉体にアンカーとして定着させるだけの高度な知能と意識の器が必要不可欠となる。
つまり、人間レベルの高度な自己認識能力を持たない一般的な動物には個性のエネルギーを留めておく器が存在しない。
だからこそ動物には自然に個性が発現しないのだ。
この大前提を踏まえた上で、再び根津校長という特異点に視点を戻す。
彼は動物でありながら個性を発現させた。
しかし、彼が得た個性は、強靭な身体能力でもなく、口から炎を吐くような物理的な異能でもなかった。
彼が得たのは、人類の歴史を理解し、人間の言語を操り、複雑な思考を可能とする人間以上の高度な頭脳、つまり個性ハイスペックであった。
ここに鶏と卵の完全なる逆転現象が存在する。
人間と同じように一定の知能があったから個性が発現したのではない。
個性ハイスペックという概念が発現しようとしたからこそそれを定着させるための器として、彼は人間と同等以上の知能を獲得するに至ったのだ。
人間であれば、順序は知能が先で個性が後だ。
しかし、根津校長の場合は、順序が完全に逆転している。
高度な知能を与える個性そのものが、彼という動物の肉体に無理やり人間の意識をこじ開け、宿ったのである。
仮にこのハイスペックという個性が人間に発現していたとしたらどうだろうか。
単に常人よりも非常に賢い天才が一人誕生するだけで、歴史を覆すほどの劇的な意味は持たなかったはずだ。
しかし、それが人間以外の動物に宿った時。
それは単なる能力の向上ではなく、一個の生物の存在次元の引き上げという神の如き奇跡を引き起こした。
そういった多角的な側面から見れば、彼が放つ圧倒的な知性の強さと能力の根源的な純度の高さが理解できる。
根津校長は、動物界における個性の
彼が自身の遺伝子を後世に残すことがあれば、その子供には間違いなく彼が獲得した高度な知能と個性の器が、記憶の遺伝子として継承されていくはずである。
それは、地球上に人間と同等以上の知性を持つ新たな種族が誕生する可能性を秘めていることを意味していた。
難羽は校舎の窓から中庭を見下ろした。
そこでは小さな白き獣である根津校長が、教員たちと何やら楽しげに、極めて高度な専門用語を交えながら教育方針について語り合っている。
知性の獲得という奇跡。
第一世代としての圧倒的な存在感。
人類の未来すらも左右しかねないあの愛らしくも恐ろしい生命の特異点。
だが、難羽はそこで思考の海からフッと浮上し、苦笑いを浮かべた。
「……しかし。あれほど完成された孤高の存在がそもそも結婚などできるのだろうか」
彼と知的な会話を成立させられる同種のメスなど、この世界には存在しない。
かといって、人間の女性と結ばれるには物理的な種族の壁があまりにも高すぎる。
宇宙の真理や生命の根源といった壮大な謎を解き明かすよりも。
あの一匹の白い獣が伴侶を見つけて愛を育む未来を想像する方が、不老不死の怪物の頭脳をもってしても遥かに難解で不可能な数式のように思えるのであった。
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