女王陛下の愛し方 作:頭オーロラ
ノウム・カルデアの召喚室は、厳粛な緊張感に包まれていた。
円形の広間の中央には召喚陣が刻まれ、淡い青白い光を放っている。周囲の壁面には無数の計器が並び、魔力濃度や召喚成功確率を示す数値が絶え間なく変動していた。
藤丸立香は、召喚陣の正面に立っていた。
傍らにはマシュ・キリエライト。彼女は盾を構え、いつでも対応できる体勢を取っている。その表情には緊張と、そしてかすかな期待が入り混じっていた。
管制室からは、複数の声が通信越しに響いている。
『魔力充填完了。召喚シークエンス、開始準備よし』
ダ・ヴィンチちゃんの声だ。彼女の声はいつも通り明るいが、その奥に真剣さが滲んでいる。
『触媒との共鳴率、良好。この数値なら、高確率で目的のサーヴァントを召喚できるはずです』
続いて、シオン・エルトナム・ソカリスの冷静な分析。
『ふむ。妖精國の女王か。異聞帯の存在を召喚するのは、いつ見ても不思議な気分だな』
新所長、ゴルドルフ・ムジーク。彼の声には、わずかな緊張が混じっていた。異聞帯の王を召喚するという行為に、思うところがあるのだろう。
『彼女の召喚が成功すれば、カルデアの戦力は大幅に向上するでしょう。だが、同時に注意も必要だ』
シャーロック・ホームズの声が、冷静に告げる。
『モルガンは妖精國ブリテンを2000年にわたり統治した女王でもある。その能力は折り紙付きだが、プライドもまた相当なものだろう。対応には細心の注意を払いたまえ』
「分かってる」
藤丸は短く答えた。
昨夜、何度も考えた。彼女とどう向き合うべきか。どんな言葉をかけるべきか。
結論は、シンプルだった。
真っ直ぐに向き合う。それだけだ。
「先輩」
マシュが、そっと声をかけてきた。
「どうしたの?」
「……あの、頑張ってください」
その言葉に、藤丸は小さく微笑んだ。
「うん。じゃあ、始めるよ」
藤丸は右手を掲げ、召喚陣に向かって構えた。
詠唱が、召喚室に響き渡る。
「――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」
言葉が紡がれるたびに、召喚陣の輝きが増していく。
「祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
室内の空気が変質した。魔力の密度が上がり、肌を刺すような緊張感が広がる。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
召喚陣から立ち上る光が、激しく渦を巻き始めた。
「――告げる」
藤丸の声に、力が籠もる。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。この意、この理に従うならば応えよ」
光が臨界に達しようとしていた。白銀の輝きが、視界を塗り潰していく。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
心の中で、藤丸は祈った。
どうか、応じてくれ。
あなたと、話がしたい。
「――されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者」
光が極限まで膨れ上がった。
「サーヴァント、バーサーカー! 召喚に応じ、ここに顕現せよ!」
爆発的な光が、召喚室を満たした。
誰もが目を細め、あるいは腕で顔を覆う。マシュは盾を構え、藤丸を庇う姿勢を取った。
やがて、光が収束していく。
渦巻いていた輝きが、一点に集約されていく。人の形に。女性の形に。
藤丸は、息を呑んだ。
光の中から、一人の女性が姿を現した。
最初に目に入ったのは、白銀の髪だった。
長く、美しく、召喚の残光を受けて淡く輝いている。まるで月の光を紡いで織り上げたかのような、神秘的な銀髪。
次に、肌。白磁のように滑らかで、その上に刻まれた紋様が妖しい光を放っていた。
纏っているのは黒を基調とした衣装。大胆に肌を露出しているが、それが淫靡さではなく、むしろ圧倒的な威厳を際立たせている。
そして――
彼女の瞳が、ゆっくりと開かれた。
水色。
水のように澄んだ瞳が、召喚室を見渡した。
その目が藤丸を捉えた瞬間、彼は理解した。
美しい、という言葉では足りない。
冷たい、という言葉では正しくない。
彼女はただ、そこにいるだけで「女王」だった。
他者を従わせるために生まれてきたかのような存在感。2000年の時を超えて君臨し続けた者だけが持つ、絶対的な威厳。
これが、妖精國ブリテンの女王。
これが、モルガン。
モルガンは、周囲をゆっくりと見回した。
召喚室の構造。壁面の計器。天井の照明。そして、自分を取り囲む人間たち。
彼女の瞳が、すべてを把握していく。
『召喚成功……! バイタル安定、霊基固定完了。問題なし!』
ダ・ヴィンチちゃんの歓喜の声が響いたが、モルガンはそれに反応しなかった。
彼女の視線は、一人の青年に固定されていた。
藤丸立香。
黒髪の、平凡な容姿の青年。魔術師としての気配は薄く、戦士としての威圧感もない。
だが、その目だけは違った。
真っ直ぐに、モルガンを見つめている。怯えも、媚びも、敵意もない。ただ純粋に、彼女という存在に向き合おうとする意志が、その瞳に宿っていた。
一瞬の沈黙が、召喚室を支配した。
マシュが息を詰め、管制室からの通信も途絶えたように静まり返る。
モルガンが、口を開いた。
「――私を召喚したのは、あなたですか」
低く、涼やかな声。感情を読ませない、けれど耳に残る声音だった。
藤丸は、一度だけ呼吸を整えた。
逃げるな。真っ直ぐに向き合え。
「はい」
彼は、モルガンの視線を正面から受け止めた。
「俺が、あなたのマスターです」
モルガンは、わずかに目を細めた。
値踏みするように、藤丸を見つめる。上から下まで、隅々まで。
その視線は、まるで宝石を鑑定する職人のようだった。価値があるかないか。使えるか使えないか。そういった冷徹な計算が、その瞳の奥で行われているのが分かった。
藤丸は、目を逸らさなかった。
見られるなら、見ればいい。隠すことなど、何もない。
長い沈黙。
そして、モルガンの唇が、わずかに弧を描いた。
それは笑みと呼ぶには冷たすぎた。皮肉、あるいは嘲笑に近い何か。
「そうか」
彼女は、静かに言った。
「では、あなたが私の夫ですね」
静寂。
完全な、静寂。
召喚室の空気が、凍りついた。
「……え?」
最初に声を漏らしたのは、マシュだった。彼女は目を丸くして、モルガンと藤丸を交互に見ている。
『……今、何て言った?』
ダ・ヴィンチちゃんの声が、困惑に満ちていた。
『夫? 藤丸くんが? この女王様の?』
『おおおお待て待て待て!』
ゴルドルフ新所長の悲鳴じみた声が響く。
『今、夫と言ったか!? 召喚されて最初の言葉が夫だと!? どういうことだ、これは一体どういう状況なのだ!?』
『……予想外の展開ですね』
シオンの声は、かろうじて冷静さを保っていたが、それでも戸惑いは隠せていなかった。
『バーサーカークラスの影響でしょうか。それとも、彼女独自の価値観……?』
『興味深い』
ホームズだけは、むしろ面白がっているようだった。
『妖精國では、彼女にはベリル・ガットという「便宜上の夫」がいた。その延長線上の発言かもしれないね。あるいは――』
『あるいは、なんて言ってる場合じゃない! これは緊急事態だ!』
ダ・ヴィンチちゃんが叫ぶ。
管制室が騒然とする中、藤丸は立ち尽くしていた。
顔が、熱い。
耳まで赤くなっているのが、自分でも分かる。
夫。
この人は今、俺のことを夫と呼んだ。
召喚されて、最初の言葉で。
ありえない。普通、ありえない。
だが、モルガンの表情は変わらなかった。当然のことを言っただけ、という顔で藤丸を見つめている。
いや、違う。
その瞳の奥に、藤丸はかすかな光を見た。
挑発。
彼女は、試している。
この言葉に対して、藤丸がどう反応するかを見ている。怒るのか、困惑するのか、否定するのか、逃げるのか。
それによって、自分の扱い方を決めようとしている。
ならば。
藤丸は、深呼吸をした。
「……分かった」
静かに、藤丸は言った。
『『『は?』』』
管制室から、ホームズ以外の三人の声が重なった。
「せ、先輩!?」
マシュが、信じられないものを見る目で藤丸を見ている。
「分かったって、どういう……!?」
「モルガンがそう呼びたいなら、そう呼んでいいよ」
藤丸は、モルガンの目を真っ直ぐに見つめたまま続けた。
「呼び方は自由だ。俺は、それで構わない」
モルガンの目が、わずかに見開かれた。
それは本当に一瞬のことで、すぐに元の冷静な表情に戻ったが、藤丸はその変化を見逃さなかった。
彼女は、この反応を予想していなかった。
「ただ」
藤丸は続けた。
「俺はまだ、あなたのことをよく知らない。女王としてのあなたも、サーヴァントとしてのあなたも」
「……それで?」
モルガンの声に、わずかな警戒が混じった。
「だから、これから知っていきたい。あなたが何を望んでいるのか、何を大切にしているのか」
藤丸は、一歩前に出た。
「それを知った上で、全力で支援するよ。召喚に応じてくれて、ありがとう」
そして、彼は手を差し出した。
「よろしく、モルガン」
沈黙が、召喚室を包んだ。
管制室からの通信も、途絶えたように静まり返っている。
モルガンは、差し出された手を見つめていた。
その瞳に、複雑な感情が渦巻いている。困惑。驚き。そして、ほんのわずかな――名前のつけられない何か。
長い沈黙の後。
モルガンは、ふっと息をついた。
「……変わった人間ですね」
「そうかな」
「ええ。普通、この状況で『よろしく』などと言わないでしょう」
「じゃあ、俺は普通じゃないんだろうね」
藤丸は、小さく笑った。
その笑顔を見て、モルガンの表情がわずかに揺らいだ。
彼女は藤丸の手を見つめ、それから彼の顔を見た。そしてまた、手を見た。
迷っているのだと、藤丸には分かった。
この手を取るべきか、拒むべきか。
どちらが正解なのか、彼女自身にも分かっていないのだろう。
だから、藤丸は待った。
急かさず、引かず、ただ手を差し出したまま。
やがて。
モルガンの手が、ゆっくりと動いた。
白い指が、藤丸の手に触れる。
冷たい、と思った。氷のように冷たい手だった。
だが、それは不快な冷たさではなかった。むしろ、どこか心地よい冷たさ。月の光のような、静謐な冷たさ。
「……いいでしょう」
モルガンは、静かに言った。
「あなたをマスターとして認めます」
契約の成立を告げる言葉だった。
「私はバーサーカー、モルガン。妖精國ブリテンの女王にして――」
彼女は一度言葉を切り、藤丸を見つめた。
「――あなたのサーヴァントです」
伴侶、とは言わなかった。
だが、契約を拒否もしなかった。
その微妙な距離感に、藤丸は何かを感じ取った。
彼女は、まだ測りかねている。
自分という人間を、どう扱うべきか。
それは逆に言えば、まだ何も決まっていないということだ。これからの関係は、これからの自分次第で変わる。
「うん」
藤丸は、モルガンの手を軽く握り返した。
「よろしく、モルガン」
『……ふう』
ダ・ヴィンチちゃんの、安堵とも呆れともつかない声が響いた。
『とりあえず、召喚は成功……ってことでいいのかな、これ』
『成功は成功でしょう。契約も成立しました』
シオンの声が答える。
『ただ、夫云々の話は追って確認が必要ですね。バーサーカーの狂化による影響なのか、それとも別の意図があるのか』
『意図、ねえ……』
ダ・ヴィンチちゃんが唸る。
『まあ、藤丸くんがうまく対応したみたいだし、今は様子見でいいかな』
『うまく対応、というより、なし崩しに受け入れたように見えたが……』
ゴルドルフ新所長の困惑した声。
『いいのか? あれで本当にいいのか?』
「いいのではないでしょうか」
意外にも、マシュが答えた。
「先輩は、ああいう方ですから」
その声には、どこか誇らしげな響きがあった。
藤丸は、モルガンの手を離した。
「ひとまず、カルデアを案内するよ。モルガンの部屋も用意してあるんだ」
「……そうですか」
モルガンは短く答えた。
その表情は相変わらず読めなかったが、先ほどまでの鋭さは幾分か和らいでいるように見えた。
「では、案内するように」
モルガンは一歩を踏み出し、そして付け加えた。
「我が夫として、それくらいの務めは果たしてもらわないと困ります」
「だから、夫って……」
「異論は認めません。私の法律です」
藤丸は、小さくため息をついた。
前途多難だ。間違いなく。
だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
彼女がなぜ「夫」と呼ぶのか。その言葉に込められた真意は何なのか。
今はまだ分からない。
でも、いつか分かる日が来るかもしれない。
その日まで、向き合い続けよう。
「……分かったよ。じゃあ、行こうか」
「ええ」
モルガンが歩き出す。その歩みは堂々としていて、まさに女王のそれだった。
藤丸は、その後ろ姿を見ながら思った。
妖精國ブリテンの女王。
2000年の孤独を背負った存在。
彼女との日々は、きっと平穏ではないだろう。
でも、それでいい。
平穏じゃなくても、向き合い続ける。
それが、召喚に応じてくれた彼女への誠意だから。
「先輩」
マシュが、小走りで追いついてきた。
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫だよ。たぶん」
「たぶん、ですか……」
マシュの表情が複雑になる。
「あの、夫、という話は……」
「追々、整理するよ。今はまだ、よく分からないし」
「そう、ですね……」
マシュは、前を歩くモルガンの背中を見つめた。
「モルガンさんは、何を考えているのでしょうか」
「それは、これから分かるんじゃないかな」
藤丸は、静かに答えた。
「マシュも、一緒に知っていこう」
「……はい。そうですね」
マシュは、小さく微笑んだ。
三人の足音が、カルデアの廊下に響いていく。
女王と、彼女の「夫」と、その従者。
奇妙な組み合わせだが、それがこれからの日常になる。
藤丸は、そんな予感を抱いていた。