女王陛下の愛し方 作:頭オーロラ
「では、あなたが私の夫ですね」
私がそう告げた瞬間、召喚室の空気が凍りついた。
傍らの少女――マシュ・キリエライトが息を呑む気配。管制室から漏れる困惑の声。それらを背景音として聞きながら、私は目の前の青年を観察していた。
もちろん、この青年の事は知っている。
妖精國で、敵として対峙しているのだから。
藤丸立香。
人理継続保障機関カルデアのマスター。人類最後の希望。
そんな大層な肩書きを持つ割には、随分と平凡な見た目だ。黒髪に黒い瞳。特別な魔術回路を持つわけでもない、ただの人間。
だが、その目だけは違った。
怯えていない。媚びていない。敵意も、侮蔑もない。
ただ真っ直ぐに、私を見つめている。
面白い、と思った。
普通、「夫」という言葉を投げつけられれば、何らかの反応を示すはずだ。
怒り。困惑。拒絶。
そのどれかが返ってくるのが当然だった。
だからこそ、私はその言葉を選んだ。
「夫」と呼んだのには、明確な意図があった。
かつて妖精國ブリテンで、私にはベリル・ガットというマスターがいた。
汎人類史から送られてきた異邦人。クリプターと呼ばれていたカルデアの一員。私は彼を「便宜上の夫」として傍に置いていた。
だが、それは形だけのこと。
あの男は道具に過ぎなかった。
妖精國の統治に必要な駒。汎人類史の情報を持ち、利用価値があるから傍に置いていただけ。何の感情も、何の期待も抱いてはいなかった。
今回のマスターも、同じ。
召喚されたからには契約関係にある。私に魔力を供給し、私を使役する者。それ以上でも、それ以下でもない。ならば、かつてと同じ呼称を使うのが効率的だろう。
だが、それだけではない。
これは「当て付け」だった。
人理を救うマスター。正義の味方。善なる者たちの希望。人類史を守護する英雄。
そんな存在が、私を召喚した。
妖精國の「悪女」を。
妖精たちから恐れられ、憎まれ、「悪逆の女王」と呼ばれ続けた私を。
その皮肉を、彼自身に突きつけてやりたかった。
「お前は私の夫。つまり、共犯者なのだ」
「お前は悪逆の女王と契約した。その事実から、逃れることはできない」
「どう反応する? 私を拒絶するか? それとも、見て見ぬふりをするか?」
そう、言外に伝えたかった。
さあ、困るがいい。
怒るがいい。
私がどういう存在か、思い知るがいい。
だが、予想外のことが起きた。
「……分かった」
私は、自分の耳を疑った。
分かった?
今、この男は何と言った?
「モルガンがそう呼びたいなら、そう呼んでいいよ」
彼は、まるで天気の話でもするように言った。
「呼び方は自由だ。俺は、それで構わない」
私の中に、小さな困惑が生まれた。
予想していた反応は三つ。
怒り。困惑。拒絶。
そのどれかが返ってくるはずだった。
だがこの青年は、ただ頷いた。
「分かった」と。
何の衒いもなく。何の躊躇いもなく。
私の目が、わずかに見開かれた。
それは本当に一瞬のことで、すぐに元の冷静な表情に戻したが、彼はその変化を見逃さなかったようだった。
この反応を、私は予想していなかった。
「ただ」
青年は続けた。
「俺はまだ、あなたのことをよく知らない。女王としてのあなたも、サーヴァントとしてのあなたも」
「……それで?」
私は、わずかに警戒しながら問い返した。
次に何が来るのか、予測がつかなかった。
「だから、これから知っていきたい。あなたが何を望んでいるのか、何を大切にしているのか」
青年は、一歩前に出た。
「それを知った上で、全力で支援するよ。召喚に応じてくれて、ありがとう」
そして、彼は手を差し出した。
「よろしく、モルガン」
支援。ありがとう。よろしく。
その言葉たちが、私の中で反響した。
この男は、何を言っている?
サーヴァントは使い魔だ。マスターの命令に従い、戦う道具だ。それ以上の意味など、あるはずがない。
だというのに、この男は「支援する」と言った。
「ありがとう」と言った。
まるで、私が対等な存在であるかのように。
私は、差し出された手を見つめた。
この手を取るべきか、拒むべきか。
どちらが正解なのか、自分でも分からなかった。
「……変わった人間ですね」
私は、かろうじてそう答えた。
戸惑いはあるが、返答としては問題ない。
「そうかな」
「ええ。普通、この状況で『よろしく』などと言わないでしょう」
「じゃあ、俺は普通じゃないんだろうね」
青年は、小さく笑った。
その笑顔には、皮肉も嘲りもなかった。
ただ、温かかった。
私は、その笑顔から目を逸らしたくなった。
だが、逸らさなかった。
代わりに、彼の手を見つめた。
やがて。
私の手が、ゆっくりと動いた。
白い指が、彼の手に触れる。
温かい、と思った。私の冷たい手とは対照的な、人間らしい温かさ。
「……いいでしょう」
私は、静かに言った。
「あなたをマスターとして認めます」
「ありがとう」
「礼には及びません。契約関係にあるのですから、当然のことです」
「私はバーサーカー、モルガン。妖精國ブリテンの女王にして――」
言葉を切る。
次の言葉が、出てこなかった。
「あなたの伴侶」と言うつもりだった。
当て付けとして。皮肉として。
だが、なぜか、その言葉が喉に詰まった。
「――あなたのサーヴァントです」
結局、私はそう言った。
「伴侶」とは、言わなかった。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
ノウム・カルデアの廊下を歩きながら、私は自分の胸に手を当てた。
心臓が、ほんの少しだけ速く打っている。
何だ、これは。
この感覚は、何だ。
「夫」と呼んだのは、当て付けのはずだった。
皮肉のはずだった。
彼を困らせ、動揺させ、私という存在の「異質さ」を突きつけるためのものだったはずだ。
なのに、彼は受け入れた。
動揺はした。頬を赤らめもした。
だが、拒絶はしなかった。
「分かった」と言った。
「知っていきたい」と言った。
「支援する」と言った。
「ありがとう」と――
私は、首を振った。
考えるな。
深読みするな。
この男の言葉に、大した意味などない。
その場しのぎの社交辞令だ。誰にでも言う、空虚な言葉だ。
そう思おうとした。
だが、心のどこかで分かっていた。
彼の目は、嘘をついていなかった。
あの真っ直ぐな目。私を見つめるあの目には、虚飾がなかった。
2000年の間、私は無数の嘘を見てきた。
無数の裏切りを経験してきた。
だからこそ分かる。
あの目は、本物だ。
彼は本気で、私を「知りたい」と思っている。
その事実が、私の心に小さな波紋を起こしていた。
「モルガン」
前を歩く青年が、振り返った。
「……何でしょう」
「部屋に着いたら、何か必要なものがあったら言ってね。できる範囲で用意するから」
「……」
私は、黙って頷いた。
この男は、どこまでお人好しなのだ。
召喚されたばかりのサーヴァントに、わざわざそんなことを言うなど。
「あと」
青年は、少し照れたように頬を掻いた。
「夫って呼ぶの、別に構わないけど……他のサーヴァントの前だと、ちょっと誤解されるかもしれないから、そこだけ気をつけてくれると助かるかな」
「……誤解?」
「うん。カルデアには色んなサーヴァントがいるから。中には、その……勘違いして暴れだす人がいるかもしれなくて」
私は、わずかに目を細めた。
なるほど。
つまり、彼は「夫」という呼び方自体を拒否しているわけではない。
ただ、面倒事を避けたいだけ。
であれば――
「分かりました」
私は、静かに答えた。
「では、二人きりの時だけ、そう呼ぶことにしましょう」
「え」
「何か問題でも?」
「いや、問題は……ないけど……」
青年の顔が、再び赤くなった。
その反応を見て、私は小さく笑みを浮かべた。
面白い。
この男、からかうと面白い反応をする。
「では、そういうことで」
私は、彼の横を通り過ぎた。
「早く部屋に案内するように。我が夫」
「だから、二人きりの時って……今、マシュもいるんだけど」
「そうでしたね。では、訂正しましょう」
私は、振り返らずに言った。
「案内してください。マスター」
背後から、青年のため息が聞こえた。
そして、少女の小さな笑い声も。
「……分かった。こっちだよ」
その声には、呆れと、そしてどこか楽しげな響きがあった。
私は、前を向いたまま歩き続けた。
心臓の鼓動は、まだ少しだけ速いままだった。
だが、不思議と不快ではなかった。
この感覚が何なのか、私にはまだ分からない。
分からないが――
悪くはない、と思った。
悪くは、ないと。