女王陛下の愛し方 作:頭オーロラ
与えられた部屋は、思いのほか広かった。
ベッド、デスク、クローゼット、小さな書棚。人間が生活するのに必要なものは一通り揃っている。窓からは、ノウム・カルデアの無機質な内部構造が見える。妖精國の城とは何もかもが違う。
私はベッドの端に腰を下ろし、静かに息をついた。
一人になったのは、召喚されてから初めてだった。
あの青年――藤丸立香は、部屋まで案内した後、「何かあったら呼んで」と言って去っていった。傍らの少女、マシュも同様に。
丁寧な対応だった。
召喚されたばかりのサーヴァントに対して、あれほど気を遣う必要などないはずなのに。
「……」
私は、自分の手を見下ろした。
さっき、彼の手に触れた。
契約の成立を告げる時、差し出された手を取った。
温かかった。
私の手とは対照的な、人間らしい温もり。
あの瞬間、私は何を感じたのだろう。
今日の出来事を、頭の中で反芻する。
召喚の光。見知らぬ空間。そして、目の前に立っていた一人の青年。
「俺が、あなたのマスターです」
真っ直ぐな目だった。
怯えも、媚びも、敵意もない。ただ純粋に、私という存在と向き合おうとする意志。
私は、彼を試した。
「では、あなたが私の夫ですね」
当て付けのつもりだった。
皮肉のつもりだった。
人理を救う正義の味方が、妖精國の悪女と契約した。その事実を、彼自身に突きつけてやりたかった。
怒るか、困惑するか、拒絶するか。
そのどれかが返ってくると思っていた。
だが。
「……分かった」
彼は、ただそう言った。
「モルガンがそう呼びたいなら、そう呼んでいいよ。呼び方は自由だから、俺はそれで構わない」
まるで、天気の話でもするように。
私は、面食らった。
こんな反応は、予想していなかった。
「ただ、俺はまだ、あなたのことをよく知らない」
彼は続けた。
「女王としてのあなたも、サーヴァントとしてのあなたも。だから、これから知っていきたい。あなたが何を望んでいるのか、何を大切にしているのか」
知りたい。
その言葉が、私の中で反響した。
妖精國で、そんなことを言った者がいただろうか。
私を「知りたい」と思った者が。
私が何を望んでいるか、聞こうとした者が。
「それを知った上で、全力で支援するよ」
支援。
その言葉を、彼は真っ直ぐに口にした。
目を逸らさずに。嘘の気配もなく。
「召喚に応じてくれて、ありがとう」
ありがとう。
私を召喚できたことに、彼は礼を言った。
妖精國の悪女を。2000年にわたり恐れられ、憎まれ続けた女王を。
その召喚に、感謝した。
「……なぜだ」
私は、小さく呟いた。
なぜ、あの男はあんなことを言ったのだろう。
妖精國では、誰もそんなことを言わなかった。
私に向けられる言葉は、常に三種類だった。
恐怖。
「女王陛下、どうかお慈悲を」
震える声。跪く姿。私の顔を見ることすらできない者たち。
服従。
「御意のままに、女王陛下」
感情のない声。私の命令に従うだけの、操り人形たち。
裏切り。
「もう我慢できない。あの女王を殺すんだ」
影で囁かれる陰謀。何度も、何度も繰り返された反逆。
2000年の間、私が聞いた言葉はそれだけだった。
支援する?
知りたい?
ありがとう?
そんな言葉を、真正面からぶつけてくる者がいるとは思わなかった。
私は、窓の外を見た。
ノウム・カルデアの内部は、どこまでも無機質だ。金属と石とガラスで構成された、人工的な空間。
妖精國とは、何もかもが違う。
あの國には、森があった。湖があった。妖精たちの営みがあった。
そして、私の城があった。
私が2000年かけて築き上げた、孤独の王座。
誰も寄り付かず、誰も理解せず、ただ私一人が座り続けた玉座。
今、その玉座は失われた。
妖精國は滅び、私はこの場所に召喚された。
新しい主の下で、新しい戦いに身を投じるために。
それでいい、と思っていた。
サーヴァントなど、所詮は使い魔だ。
召喚されたからには戦う。命じられたことをこなす。それだけのこと。
だというのに。
あの男は、「支援する」と言った。
「……当て付けのつもりだったんだがな」
私は、小さく呟いた。
「夫」と呼んだのは、皮肉だった。嘲笑だった。
「お前は悪女の共犯者なのだ」と、烙印を押してやるつもりだった。
なのに、あの男は真っ直ぐに受け止めた。
怒りもせず、拒絶もせず、ただ「分かった」と。
そして、手を差し出した。
「よろしく、モルガン」
あの笑顔を、私は思い出す。
皮肉も、嘲りも、計算もない。
ただ、温かかった。
「……変な人間だ」
その呟きには、困惑が混じっていた。
そして、もう一つ。
自分でも名前をつけられない、微かな感情。
2000年の間、私の心は凍土のようだった。
何者も踏み入れず、何者も根を張らず、ただ冷たく広がるだけの荒野。
感情を持つことは、弱さだった。
期待を持つことは、愚かさだった。
誰かを信じれば、裏切られる。
誰かに心を開けば、傷つけられる。
だから、私は心を閉ざした。
氷の壁で自分を覆い、誰にも触れさせないようにした。
それが、女王として生きる唯一の方法だった。
2000年もの間、私はそうやって生きてきた。
だが今、その凍土に一滴の水が落ちた。
たった一言。
「全力で支援するよ」
その言葉が落ちた場所から、小さな波紋が広がっている。
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、まだ少しだけ速く打っている。
この感覚は、何だ。
名前がつけられない。
不快ではない。だが、心地よいわけでもない。
ただ、落ち着かない。
胸の奥で、何かが揺れている。
「……」
私は、目を閉じた。
考えても、分からない。
あの男が何者なのか。
あの言葉に、どんな意味があったのか。
そして、私がなぜこんなにも動揺しているのか。
何も、分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
私は、あの男に興味を持ち始めている。
藤丸立香。
人類最後のマスター。
私に「夫」と呼ばれても動じず、むしろ「知りたい」と言った男。
彼は、一体何者なのだろう。
私は、ベッドに横たわった。
天井を見上げる。無機質な白い天井。妖精國の城とは、何もかもが違う。
だが、不思議と不快ではなかった。
この場所で、これから何が起きるのだろう。
あの男と、どんな関係を築いていくのだろう。
「夫」と呼んだのは、当て付けだった。
だが、彼はそれを受け入れた。
ならば、私も受け入れよう。
この奇妙な関係を。
この予測不能な状況を。
少なくとも、退屈はしなさそうだ。
「……ふん」
私は、小さく笑った。
明日から、何をしてやろうか。
女王として、どんな要求を突きつけてやろうか。
城を建てろ、とでも言ってみようか。
あるいは、他のバーサーカーを解雇しろ、と。
あの男が、どんな顔をするか見ものだ。
困るだろう。頭を抱えるだろう。
それでも、逃げないだろうか。
「分かった」と、また言うだろうか。
……確かめてみたい、と思った。
彼が本当に、私と向き合い続けるつもりなのかどうか。
その覚悟が、本物なのかどうか。
夜が、静かに更けていく。
カルデアの照明が落とされ、廊下からの物音も途絶えた。
サーヴァントに睡眠は必要ないが、現界に必要な魔力を多少なりとも削減できる。
そのため夜のカルデアは、人間もサーヴァントも基本的に体を休めるらしい。
私もそれに倣って、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
明日、あの男は何と言うだろう。
私の無茶な要求に、どう応えるだろう。
それを想像すると、なぜか口元が緩んだ。
楽しみだ、と。
そう思っている自分に気づいて、私は少しだけ驚いた。
2000年ぶりだ。
いや、もしかしたら初めてかもしれない。何かを「楽しみ」だと思ったのは。
その感情が何を意味するのか、私にはまだ分からない。
彼女はまだ、それが「好意の種」だとは気づかない。
だが、物語は確かに始まった。
女王と、彼女の「夫」。
二人の物語は、こうして幕を開けたのだった。