あるティカズの独白
彼は、長いあいだ“群れ”の外にあるものに価値を見出さなかった。
飢えれば喰らう。
敵なら殺す。
同族であろうと、己の腹を満たすためならば獲物でしかない。
それが、原始のティカズにとっての世界だった。
血の匂いの濃い、大地の掟。
生き延びた者こそが正しい。
死んだ者は、ただ弱かっただけだ。
だからこそ、彼は飢えを受け入れていた。
共喰いを、恥ではなく生存の一手として数えていた。
狩りは上手かった。
異族を追い、同族を追い、牙と爪の届くものをすべて“獲物”とした。
その日も、彼はそうして生きていた。
――彼女に出会うまでは。
彼女は変わり者だった。
群れの誰もが当然として受け入れていた掟を、彼女だけは拒んだ。
共喰いを憂い、良しとせず、飢えた牙の前でさえ、その思想を曲げなかった。
愚かだ、と彼は思った。
甘い、と切り捨てた。
ああいう異物は、群れに馴染めぬまま追われる。
追われるなら、食われるか、死ぬかのどちらかだ。
そして実際、彼はすぐに彼女への興味を失った。
守る理由も、追う理由もなかったからだ。
弱い思想は、弱い肉と同じだ。
残る価値などない。
そう、思っていた。
だが、その追放者が再び姿を現した時、
彼は最初、自分が何を見ているのか理解できなかった。
黒の王冠。
その重さを受け入れた、ひとつの影。
かつて群れから弾かれた女は、もはや追われるだけの存在ではなかった。
彼女は“帰ってきた”のではない。
群れの側が、もはや彼女を無視できぬ存在へと変わっていた。
その姿に、彼は初めて興味を取り戻した。
いや、興味という言葉では足りない。
それは記録欲に近かった。
己が生きるこの世界で、何が起き、何が変わり、何が王を生むのか。
彼は自らを記述者と呼ぶようになる。
物語とは、強者のためにあるのではない。
変化した者のためにあるのだと、あのとき理解したからだ。
彼女は、あの頃の彼とは違っていた。
飢えを受け入れず、群れに従わず、それでもなお折れなかった。
その意志が何を生み、何を壊すのか。
彼はそれを見届けたくなった。
かつて興味を失ったはずの追放者は、
黒の王冠を戴いた瞬間、
彼の中で“物語”になった。
それが、すべての始まりだった。
記述者はその名を心の内で書き留める。
名もなく、ただ生きていただけの同胞が、王冠によって“誰か”になった夜を。
そして彼は知る。
世界は、牙の強さだけでは書き換わらない。
時に、群れから追われた者が、群れそのものを変えてしまうのだと。
その瞬間から、彼の視線は彼女に縫い留められたまま、二度と逸れることはなかった。
彼と魔王が築き上げた国は、栄華を極めた後に滅んだ。
仕方ない。それは定められた滅びだった。或いは運命への抵抗だった。
崩れ朽ちていく城壁、天災が等しく先民も神民もサルカズも呑み込んでいく。
彼はより良い終わりを望んだ。
彼女はより良い未来を望んだ。
三日三晩の議論の末に下された決断は、サルカズを恐怖の象徴として刻むものになるだろう。
幾つかの支族は滅び、或いは生き残るかもしれない。
方向性は異なるが、その意図は同じものだった。
互いに「存続」を望んだ彼らは、一方はあらゆる罪を背負って死に、もう一方は全てを見届ける語り手となった。
「同胞と呼べど、私と彼らは異なる種だ。もはやサルカズはティカズではなく、ティカズもまたサルカズではない」
その声は静かだった。
断定しているようでいて、どこか遠くを見ているようでもある。
長い時代の底に沈んだ者だけが持つ、諦観と観測のあわいにある響きだった。
「私がどれほど彼らに寄せようと、私はティカズだ。共喰いの忌避はないし、お人好しの炎魔の友人のように救えはしない」
言いながら、彼は自分自身の輪郭を確かめるように、指先で胸元を撫でた。
そこにあるのは誇りでも、慈悲でもない。
ただ、変わり果てた世界の中でなお残ってしまった、己の本質だった。
「まぁ、それでも彼女の約束は守るつもりだ。同族としての仲間意識くらいは私にだってあるのさ」
唇の端に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
冷たいものではない。
だが温かいとも言い切れない。
それは、救いを知らぬ者が、それでもなお差し出せる最低限の優しさだった。
そうして彼は――彼女の終わりを見届ける。
築き上げたものが崩れ、守ろうとしたものが失われてなおも、残り続けた意志の果てを。
滅びゆく王冠の影も、
燃え残った誓いも、
名を呼ばれぬまま沈んでいった同胞たちの気配も、
彼はただ、記述する者として見送る。
止めることはできない。
救うことも、取り戻すこともできない。
それでも――
その滅びに意味があったのだと、
少なくとも誰かが後に語れるように。
彼は、最後まで目を逸らさなかった。
そして静かに理解する。
王冠が落ちても、国が崩れても、
物語だけは、まだ終わっていないのだと。