カチッ。
頭の中で何かが噛み合わなくなった。
「あっ、しまっ......!」
踏み出した右足が宙に浮いたまま、身体がぴたりと固まる。前へ倒れそうなのに、腕一本動かせない。
硬直が解けた瞬間、私は勢いよく畳に突っ込んだ。
「いったぁ......!」
「17回目だ」
道場の端から、低い声が飛んでくる。
甚壱さんは腕を組んだまま、最初からずっと私を見ていた。
「数えてたんですか!?」
「お前が数えないからな」
「うう......ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
違う気がする。でも、どう返せばいいか分からない。
私は膝をさすりながら畳の端に戻り、スマートフォンを開いた。
検索欄には、昨夜から何度も入力した文字が残っている。
『24fps 30fps 違い』
投射呪法。
禪院家の相伝術式で、前当主が使っていたものだという。そして、嬉しいことに私にもその術式があるらしい。
1秒間の動きを24のコマに分け、あらかじめ決めた通りに身体を動かす。決めた動きから外れれば、1秒間硬直する。
初めて説明されたときは、ほとんど理解できなかった。
でも『fps』という単語は見覚えがあった。動画でよく目にする言葉だ。
調べてみると、映画では24fps、動画では30fpsや60fpsも使われているらしい。1秒間に表示する画像が多ければ、動きは滑らかに見える。
だったら、投射呪法も30fpsにした方が便利なんじゃないだろうか?
昨日、そう尋ねた私に甚壱さんは言った。
『自分で試せばいい』
だから試してみた。まずは30の動きを思い浮かべようとして、途中で分からなくなった。24枚を意識していたときでさえ、身体の動きが想像とずれて転んだのだ。
結果、17回。
才能があると言われて喜んでいた昨日の自分に、今の私を見せてあげたい。
「......甚壱さん。やっぱり、30fpsは無理なんでしょうか」
「知らん」
「ええっ!?」
「俺の術式ではない。直毘人が長い年月をかけて研究した結果が24という数字なんだろう。だが、なぜそうなったかまでは知らん」
ああ、やっぱり。禪院家なんて大きい家の前当主が何年も研究したことを、私が一晩で覆せるはずないよね。
肩を落とした私に、甚壱さんは言った。
「何を勝手に諦めている」
「え?」
「お前の覚悟はその程度なのか。そのスマホとやらで、納得が行くまで調べて試せばいい。まずは成功させることからではあるが」
その想像よりも優しい言葉に、思わず画面を見つめる。
そこには、人が歩く様子をコマごとに並べた図が映っていた。
......あれ?
私は今まで、何枚に増やすかしか考えていなかった。
でも、24枚の中身は?
同じ24枚でも、ただ歩く動きと、走って向きを変える動きは違う。どう動くかを決めずに、速くなることばかり考えていた。
「もう1回、やってみてもいいですか?」
「好きにしろ」
私は立ち上がって、3歩先の畳の継ぎ目を見た。
今度は速度も、刀を振ることも考えない。ただ、あそこまで移動して両足で立つ。それだけを目標にする。
右足。重心。左足。次の一歩。
絵を1枚ずつ並べるように、身体の動きを想像する。
「......いきます!」
術式を発動する。
視界が滑った。
次の瞬間、私は目印にしていた畳の上に立っていた。
「......あ」
転んでいない。身体も動く。
「できた!甚壱さん、できました!」
「見ていた。騒ぐな」
それでも、その口元は少しだけ緩んでいた。
「動けたからといって、戦えるわけじゃない。敵はお前の都合で立ち止まらんし、刀を使うなら手足の動きも増える」
「はい!」
「それと、数字ばかり追うな。まずは24を使いこなせ。増やせるかどうかは、その先の話だ」
私は頷いて、もう一度畳の継ぎ目を見た。
どうして24fpsなのか、まだ分からない。明日になれば、また転ぶかもしれない。
でも、少しだけ前に進めた。
いつか本当に呪術師としてお金を稼げたら、お母さんと弟たちを楽にしてあげられるだろうか。
そんな未来が、昨日よりも近く感じる。
「甚壱さん!今度は木刀を持ってやってもいいですか?」
「......木刀はそこだ。取ってこい」
「はいっ!」
私が道場を駆けると、後ろから深いため息が聞こえた。
だけど甚壱さんは、まだ帰ろうとはしなかった。
「だから、雅がお前を嫌いになったわけじゃねぇって」
「でも......」
「その『でも』、もう何回目だよ」
真依は俯いたまま、廊下を歩いている。
こいつがこんなにしおらしいのは、相当珍しい。普段なら私に何か言われれば倍にして言い返すのに、今日に限ってはまともに口答えもしない。
原因は分かっている。
三輪霞が屋敷へ来た日のことだ。
真依はいつも通り、いや、いつも以上に嫌味を浴びせた。雅に注意されてもやめず、最後には部屋から追い出されてしまった。
「雅様、あんな顔なさったことなかったもの......」
「お前が悪かったのは事実だろ。でも、注意しただけで一生嫌うような奴じゃねぇよ」
「分かってるわよ。分かってるけど......」
こいつにとって雅がどれだけ大事なのかは知っている。
雅が倉庫に閉じ込められていた頃、真依は見つかれば折檻されると分かっていて、食べ物を運んでいた。
今だって、雅の名前を口にするだけで顔が変わる。昔とは違う意味で、目が離せない相手なのだろう。
でも、だからこそ余計に気になることもあった。
「ほら、着いたぞ」
執務室の前で止まると、真依は慌てて髪と襟を整え始めた。
「ちょっと待って。まだ心の準備が......!」
「謝るだけだろ」
返事を待たずに扉を叩く。
「雅、入っていいか?」
『おるよー。どうぞ』
室内は相変わらず書類だらけだった。机の向こうで雅が顔を上げる。
「珍しいなぁ、2人揃って。なんか用?」
「......雅様!」
真依が勢いよく頭を下げた。
「先日は申し訳ありませんでした!私、雅様がお招きしたお客様に失礼なことを......!」
「ん?ああ、三輪ちゃんのことか」
雅は少し首を傾げてから、いつもの調子で笑った。
「もうええよ。それは終わった話やし、蒸し返す必要ないやん」
「......本当ですか?」
「ほんまやって」
真依の肩から、力が抜けるのが見えた。
「よかった......」
「ただ、三輪ちゃんは僕が招いたお客さんや。気に入らんからって何言うてもええわけちゃうで」
「はい......」
「別に仲良うせぇとは言わんよ。普通に接してくれたらええ」
真依は何度も頷いた。もう泣きそうな顔じゃない。
これで一件落着......と言いたいところだが。
「なあ、雅」
「なんや、真希ちゃん」
「あの日、真依を追い出したのって、本当に態度が悪かったからか?」
真依が勢いよく振り向く。
「ちょっと、真希!」
「いや、少し気になってな」
雅は私を見た。驚いた様子も、怒った様子もない。
「他になんか理由あるん?」
「お前なら、真依が三輪に言う程度の嫌味は問題にせず、適当に流すと思っただけだ」
雅は以前、私たちに言った。
公の場で礼儀さえ守れば、普段は他人と同じように接して構わない、と。
真依の口が悪いのなんて、今に始まったことじゃない。あの日の言い方が酷かったのは確かだが、雅が急に追い出すほどだったか?
しかも、真依がいなくなったあと、雅は三輪と2人きりになっている。
......本当に話しただけか?
「僕かて、なんでも許すわけちゃうよ。お客さんの前ではちゃんとしてほしいだけや」
「そうか」
筋は通っている。
だが、雅は筋の通った嘘をつくことだってできる。
そのことを、私は忘れちゃいけない気がした。
「変なこと聞いたな」
「ほんまやで。真希ちゃんまで真依ちゃんみたいな心配性にならんといてや」
雅は笑って、書類に視線を戻した。
それ以上、問い詰めなかった。証拠もないし、真依の前で話すことでもない。
廊下に出ると、真依が私の袖を引っ張った。
「何よ、さっきの!」
「別に。ちょっと気になっただけだ」
「変なこと言わないでよね......やっと許していただけたんだから」
「ああ、分かったよ」
少し歩いてから、私は尋ねた。
「三輪のこと、まだ気に入らないのか?」
「当たり前でしょ。雅様に馴れ馴れしいし」
「悪い奴ではなさそうだけどな」
「そんなの分かってるわよ!」
真依は頬を膨らませる。
「分かってるけど......面白くないものは面白くないの」
思わず笑いが漏れた。
「何がおかしいのよ!」
「いや、お前は分かりやすくていいなって」
「馬鹿にしてるでしょ!」
否定しようとして、やめた。
真依は何を考えているのか、すぐに分かる。
雅もそうなら、楽だったのにな。
私は背後の執務室を振り返る。
雅が禪院家を変えてくれたことも、私たちを救ってくれたことも、本当だ。
だからって、あいつが何も隠していないことにはならない。
その程度には、私は雅を知っているつもりだ。
祈りとは、人を救うためにある。
少なくとも、私はそう信じていた。
「教祖様を信じない者に、救われる資格などない!」
「穢れを持ち込むな!ここは選ばれた者のための場所だ!」
総本部の参道に怒声が響いていた。
信徒数人に囲まれているのは、幼い子どもの手を握った女性だ。女性は青ざめ、子どもは泣くのを必死に堪えている。
「何事ですか」
声をかけると、信徒たちは慌てて振り向いた。
「こ、これは......」
「説明なさい」
事情はすぐに分かった。
女性は病気の子どものことで相談に来た。ところが、まだ入信していないと知った信徒たちが、門前で追い返そうとしたという。
「ですが、入信もせず奇跡だけを求めるなど......!」
「だからといって、子どもを怯えさせてよい理由にはなりません」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「教祖様は、入信していない人の相談を拒むようお命じになりましたか?」
「......いいえ」
「では、誰の許しを得て教祖様のお心を代弁しているのです?」
誰も答えない。
私は女性に向き直り、頭を下げた。
「ご不快な思いをさせて申し訳ございません。まずは中でお休みください。お子様のご様子を確認し、必要な手配をいたします。本日は教祖様はいらっしゃらないので、穢れを払うことは出来ませんが」
「......本当に、いいんですか?」
「もちろんです」
職員に親子を案内させ、信徒には別室で待つよう命じる。
執務室に戻ると、似た報告がいくつも届いていた。
信じない者を『穢れた人間』と呼ぶ者。病人を『信仰が足りない』と責める者。教祖様の名を持ち出し、他人へ入信を迫る者。
......いつから、こんなことになっていたのだろう。
教祖様は、目に見えない穢れと、それを祓う術について説かれた。
それなのに、救いを求める人々を信徒自身が追い払っている。
このままではいけない。
私は電話を手に取った。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってくる。
『もしもし。どないしたん?』
「教祖様。お忙しいところ、申し訳ございません」
『ええよ。何かあったんやろ?』
私は参道の騒動と、信徒の間に広がっている排他的な言動について報告した。
『......はぁ。僕、そないなこと教えたっけ?』
「いいえ。信徒が教祖様のお言葉を誤って受け取ったものと存じます」
『せやろな。信徒やからって、そうやない他人を見下してええ理由にはならんやろ』
「仰る通りでございます」
『それで、どこまで騒ぎになっとるん?写真とか動画、撮られてへん?』
「現在、確認しております。まだ大きな問題にはなっておりませんが、同様の事例が複数......」
『なら、早めに収めてな。教団全体がそういう考えやと思われたら困るわ』
「はい。直ちに当事者へ指導を行い、再発防止を......」
『それだけで終わらせたらあかんよ』
「......と、申しますと?」
『今回の件、君の手でちゃんと解決してみせてや。僕が毎回出ていったら、いつまで経っても君に任せられへんやろ』
思わず受話器を握り直す。
「私に、お任せくださるのですか?」
『もう任せとるやん。君が自分で考えて収めたら、周りの人間も君の価値を分かるやろ。僕の側近なんやから、それくらいできるところ見せてみ』
胸の奥が、熱くなった。
かつて私は、全身に癌が転移し、死を待つしかなかった。
家族も医師も、懸命に尽くしてくれた。けれど、誰にもどうすることもできなかった。
そんな私を、教祖様は救ってくださった。
それだけでも返しきれない恩があるのに、今度は私の能力を信じ、役目まで与えてくださる。
「......必ず、ご期待に応えてみせます」
『うん。まずはその親子に謝って、相談にもちゃんと対応してや。信徒たちには教えたれや──身の程を』
「承知いたしました」
『あとは大ごとにせんことや。教団の評判が落ちて人が寄りつかんようになったら、元も子もないからな』
私は深く頷いた。
救われるべき人が教団を恐れ、訪れなくなってしまう。それは確かに、避けねばならない。
教祖様は、今ここにいない人々のことまで案じておられる。
「再発防止のため、信徒への説明会を設けます。被害に遭われた方々にも、私が直接お詫びいたします」
『ええと思うよ。君に任せる』
「ありがとうございます」
『ほな、よろしく......ああ、そうや』
「はい、教祖様」
電話の向こうで、声がほんの少し柔らかくなる。
『ほんまに頼りにしとるよ、斉藤』
通話が終わっても、私はしばらく受話器を下ろせなかった。
頼りにしている。
あの方が、この私を。
私は胸元に手を当て、そっと息を整えた。
信徒への通達。誤解を正すための説明。親子への謝罪と、病の相談への対応。やるべきことは山ほどある。
けれど、少しも苦ではなかった。
私はもう、ただ救われるだけの人間ではない。
あの方の理想を支える者として、ここにいるのだから。
「......はぁ、宗教が1番面倒や。いつになったら休めるんやろ、僕」
三輪ちゃん
斉藤さん(の娘)
覚えているか、斉藤さんの娘を。