(完結)よくある聖女召喚   作:埴輪庭

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第一王子⑥

 

 ◆

 

 並行世界という概念がある。

 

 SFではない。実在する。地球人の物理学者たちが四千年にわたる理論構築の末にようやく観測可能にした宇宙の基本構造であり、量子分岐による多世界解釈はもはや仮説ではなく確認済みの事実であった。至高天の民にとっては犬が前足と後ろ足を交互に動かすことを発見した程度の話だろうが。

 

 なぜ今この話をするのか。

 

 それは西暦六九一九年の地球で起きなかったことについて語るためだ。

 

 ◆

 

 カルポス星系第四惑星ティルヴァス。地球から百七十光年。地表は常に薄い紫色の靄に覆われており、その霞の中に巨大な結晶樹が群生する風景は「宇宙のラベンダー畑」と呼ばれていた。観光パンフレットの表紙によく使われる。

 

 ちなみにこの結晶樹の内部には糸状の微生物が棲んでいる。正式名称をティルヴァス・クリスタリン・フィラメントという。紫外線下で蛍光を発する。観光客が写真を撮って喜ぶ以外にはとりたてて害のない──と、そう考えられていた。

 

 本来ならば。

 

 ◆

 

 西暦六九一九年四月十七日。

 

 東京都在住の大学院生、佐々木智也がティルヴァスから帰国した。宇宙生物学専攻。修士論文のフィールドワークとして三ヶ月間滞在し、結晶樹の内部微生物のサンプルを厳重な生体隔離容器に入れて持ち帰った。手続きは適正。検疫も通過。容器に異常なし。

 

 だが光る糸の中身までは誰も調べなかった。

 

 糸の細胞壁の内側に寄生する全長〇・一マイクロメートルのウイルスが潜伏していた。入れ子構造の感染源。マトリョーシカの最も内側の人形だけが毒を持っていた。宇宙生物学のどのマニュアルにも、そんな事態は記載されていなかった。当たり前だ。誰も想像していなかったのだから。

 

 ◆

 

 ティルヴァス出血性脳炎ウイルス。

 

 感染経路は飛沫および接触。潜伏期間は四十八時間。致死率、九十四パーセント。

 

 感染から二十四時間で全身の毛細血管が破裂し始める。皮膚の下に赤黒い斑紋が浮き上がり、目から赤い涙が流れ、あらゆる粘膜が出血する。ここまでなら地球にも似たような病はあった。エボラがそうだ。人類はそれを知っている。

 

 だがこのウイルスが本当に恐ろしいのは、出血ではない。

 

 感染から三十六時間。ウイルスに書き換えられた脳は長期記憶の格納領域を順番に破壊していく。順番に、だ。新しい記憶から古い記憶へ。昨日食べたものが消え、先週の出来事が消え、去年の夏が消え、中学の卒業式が消え、初恋が消え、自分の名前が消える。

 

 意識は残したまま。

 

 患者は自分の記憶が溶けていくのを──言語がまだ残っているうちは言葉で、言語が消えた後は意味のない悲鳴で──訴え続ける。

 

 最後に残るのは泣き声だけだった。生まれたばかりの赤ん坊のような、何の意味もない泣き声。四十八時間後に呼吸が止まるまで、それは続いた。

 

 「記憶を食べるウイルス」と呼ばれた。人間であることを全部剥がしてからでなければ殺さないという、まるで悪意があるかのような順序で人体を壊した。

 

 ◆

 

 佐々木智也の発症は帰国の翌日。電車通学の経路上で二次感染。四月二十日、東京都内で四十七名。四月二十五日、日本全土で一万二千名。五月一日、空港経由で北米とヨーロッパ。五月十日、全世界で百万。

 

 六月。死者二千三百万。

 

 ワクチンの開発には最低十八ヶ月。都市機能は麻痺し、物流は崩壊した。数字を並べるとそれだけの話だが、数字の一つ一つに名前がある。名前の一つ一つに家族がいる。だが二千三百万の名前をここに記すことはできない。

 

 そのうちの一つだけを記す。

 

 ◆

 

 六月の京都。

 

 みくは母親の看病をしていた。母が先に発症した。みくは学校を休んで付き添った。

 

 母の体に斑紋が浮いた。赤い涙を流した。

 

 三日目の朝、母がみくを見て「あなた、どなた」と言った。

 

 みくは台所で泣いた。水を出しっぱなしにして、蛇口の音で泣き声を隠した。隠す相手はもうみくがみくだとすら分からないだろうに。

 

 四日後、みくの腕にも斑紋が出た。

 

 みくの最後の記憶が何であったかは分からない。母の顔だったかもしれない。銀色の髪の少年だったかもしれない。だが記憶を食べるウイルスは、みくが最後に何を思い出そうとしたのかすら奪ったのだから、それは永久に分からない。

 

 ◆

 

 シュリンプがプルーウィアへの通信回線を開いたのは、死者が三百万を超えた時点だった。

 

 五年間、至高天の力に頼ることを避けてきた犬が、初めて自分から吠えた。義骸化された声帯は震えない。だが言葉を選ぶ間に回路から微かな金属音が漏れた。

 

 プルーウィアは応答した。穏やかな声で。

 

 「お話は伺いましたわ」

 

 沈黙。

 

 「ごめんなさいね。それはわたくしたちにはお手伝いできないことですの」

 

 ◆

 

 シュリンプの音声回路がフリーズした。

 

 「……理由を、お聞きしてもよろしいですか」

 

 「もちろん」

 

 プルーウィアは言った。

 

 「生き物はね、時々病気になりますでしょう? わたくしたちがそれを取り除いてしまうと、その子たちは自分で打ち勝つ力を育てられなくなってしまいますの」

 

 「殿下。人間が死んでいるのです」

 

 「ええ。知っていますわ」

 

 哀しみのある声だった。シュリンプはそれが本物だと分かっていた。だが傘を差し出す種類の哀しみではなかった。

 

 「前に恒星間生物を退治してさしあげたときとは違うのですわ。あれは外から来た災いでしたもの。でもこれは、この子たちの世界の中から来た試練ですわ。わたくしたちがそれを肩代わりするのは──」

 

 至高天の民が言葉を選ぶ。その行為自体が異例だった。

 

 「──躾の範囲を越えてしまいますの」

 

 二千三百万の死を、躾と呼んだ。

 

 シュリンプは何も言わなかった。怒りも絶望もなかった。犬が飼い主の判断を理解できないのと同じだ。理解できないが、従うしかない。

 

 鳴いても無駄な夜がある。

 

 ◆

 

 ところで──以上の出来事は起きなかった。

 

 起きた世界線と起きなかった世界線があり、この物語は後者に属する。佐々木智也はティルヴァスから帰国し、サンプルを持ち帰り、論文を書き、修士号を取得し、健康なまま就職した。ウイルスは容器の中に存在しなかった。

 

 みくは死んでいない。

 

 十四歳のみくは元気に中学三年生をやっている。京都の梅雨は鬱陶しいが、みくはそれが嫌いではなかった。()()に似ているから。

 

 ちなみに、なぜみくは生きているのか?

 

 それは()()()()だ。偶然である。ラッキーだったのだ。

 

 西暦六九一九年四月十五日。佐々木智也がティルヴァスを出発する二日前。

 

 至高天の第一王子ニヴィス・ルーキス・デー・カエロー・カデンスが日本に降りてきた。

 

 理由はない。前話で述べた通りだ。何となく足が向いた。何となく降りた。いつもの路地を歩き、いつものようにみくに会い、いつものように何も言わずに並んで歩いた。

 

 至高天の民が降りてくるとき、その存在は降下先の因果に影響を与える。意図的なものではない。太陽があるだけで惑星の軌道が決まるように、いるだけで因果律が歪む。通常は無害な、誰も気にしないほどの歪みだ。

 

 だがニヴィスの歪みは──少しだけ大きかった。そう、二人の姉よりも。至高天にも()がある。あと何億年か何十億年か何百億年先、ニヴィスは至高の極座につくだろう。彼にはそれだけの()があるのだ。

 

 そんなニヴィスだったが──。

 

 三年前、みくに頬を触れられた瞬間から、ニヴィスの知覚系にノイズが蓄積していた。ノイズという言い方も正確ではない。量が増えたのではなく、解像度が上がっていた。最初はただの異音だったものが、輪郭を帯び始めていた。

 

 その輪郭が何なのかはニヴィス自身にも分からなかった。分からない、ということ自体が異常だった。至高天の民の知覚系は完全なのだから。

 

 まあ、理屈はいい。

 

 要するに、ニヴィスの中で何かがほんの少しだけ思ったのだ。思った、と呼んでいいのかも怪しい。幼くて微弱で不定形な何かが、完全な知覚系の隅の隅でぷくりと泡のように浮かんだ。

 

 もう少し。

 

 そのノイズのそばに。

 

 それだけだった。だがそれだけで十分だった。ニヴィスが望んだ瞬間に世界が動く。泡一つ分の望みが、ティルヴァスの結晶樹の微生物の寄生虫のさらに内側のウイルスの遺伝子配列を数塩基だけ変異させた。

 

 まあミクロな世界ならばそういう事もある。

 

 ウイルスは地球型生命への感染能力を失ったのだ──たまたま。

 

 二千三百万の命が救われた。みくの命を含めて──偶然にも。

 

 ニヴィスはそれを知らない。

 

 また、知る必要もなかった。

 

 ◆

 

 ここで、マリモの話をさせてほしい。

 

 唐突だと思うだろう。だがこれが一番近い。

 

 マリモは何もしない生き物だ。湖の底に沈んで光合成をする。それだけ。波に転がされて丸くなる。年に五ミリ。知性もなく、感覚もなく、石と何が違うのかと訊かれると困る。

 

 だが水槽に入れておくと、ごく稀に表面から気泡がぷくりと浮かぶ。光合成の副産物だ。飼い主を喜ばせるために出しているわけではない。

 

 でも飼い主は喜ぶ。動画を撮ってSNSに上げる。「うちのマリモがぷくぷくした!」と。

 

 丸い塊から泡が一つ出ただけで。

 

 ◆

 

 ニヴィスが京都に降りるたびに、みくはニヴィスの前に現れて何かを喋り、何かを笑った。至高天の完全な認識体系にとって、その大半は意味のない雑音だった。

 

 だがその雑音の中に、ごく稀に、ノイズが混じる。

 

 ぷくり。

 

 ニヴィスはそれを「かわいい」とは思っていない。そのカテゴリーは至高天に存在しない。だが存在しないはずのものが泡を立てている。

 

 分からないから近くにいる。近くにいると泡が出る。泡が出るともっと分からなくなる。分からなくなるともう少し近くにいたくなる。

 

 この循環に名前をつける日は、まだ来ていなかった。

 

 ◆

 

 六月の終わり。嵐山。

 

 蒸し暑い。渡月橋の上で、みくはニヴィスと並んで立っていた。桂川は梅雨の増水で濁っていたが、夕日が水面を橙色に染めて、濁りごと光っていた。

 

 「にびすくん」

 

 みくが欄干に腕を載せて言った。

 

 「あたしね、高校、嵐山の近くにしようかなって」

 

 「……」

 

 「ここ好きなんだよね。小さい頃から。……あっ」

 

 みくが声を出して川の方を指さす。

 

 川の上をトンボが飛んでいた。赤とんぼ──にはまだ早い。ギンヤンマだ。ニヴィスの知覚系はトンボの翅脈の数まで認識しているだろうが、みくには区別すらつかない。

 

 「あとさ」

 

  みくの声が小さくなった。

 

 「にびすくん、いつもここに来てくれるでしょ。だからここの近くにいたほうが──会いやすいかなって」

 

 ニヴィスの灰色の瞳がみくを見た。

 

 「……べつにいいんだけどね。来なくなっちゃったらちょっとさみしいなーって思っただけ」

 

 みくは笑って目を逸らした。夕日に照らされた横顔が橙色だった。

 

 しばらく何も起きなかった。

 

 川が流れて、トンボが飛んで、橋の下を観光客の乗った舟が通過して、みくは欄干の上で指を組み替えた。

 

 「……嵐山は」

 

 みくが振り向いた。

 

 「いい」

 

 みくは一瞬ぽかんとして、それから笑った。

 

 ニヴィスは笑い返さない。

 

 探す代わりに──ほんの少しだけ長く、見ていた。

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